本土復帰と村の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 17:25 UTC 版)
1951年(昭和26年)12月5日に連合国最高司令官によって出された覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」(SCAPIN677/1)により、北緯29度以北の吐噶喇列島(下七島)の区域について日本の政治上・行政上の権利が回復されることが決まった。 本土復帰にあたって、日本国政府が公布したポツダム命令である「昭和二十六年十二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令」(昭和26年政令第380号、のちに「鹿児島県大島郡十島村の区域に適用されるべき法令の暫定措置に関する政令」へ改題)が1951年12月21日に即日施行された。 同政令の第1項の規定により、当分の間政令で特別の定めをするものを除き、従前十島村の区域に適用されていた法令のみを適用するものと定められ、これらの法令の実施上、従前琉球諸島民政府又はその下位機関に属していた権限については、政令で定めるもの及び国会、裁判所の権限にあるものを除き、鹿児島県知事が行うものと定められた。また、同政令の規定により暫定措置として公職選挙法、学校教育法等の法令が同政令を根拠として公布される政令の規定により、段階的に適用されることとなった。 1952年2月4日に下七島が日本へ復帰。下七島がアメリカ統治下にあった間に成立していた地方自治法は、「鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」が施行された2月10日より下七島にも適用されることとなった。ただし上三島としての十島村(じっとうそん)は行政機構として既に完成されつつあり、元々上三島と下七島との間にかなりの距離がある事もあって、上三島と下七島で事実上の分村の措置をとる事となった。 既に地方自治法下の村に移行していた十島村(じっとうそん)は、「鹿児島県告示第74号(大島郡十島村の境界)」により2月10日から村域を上三島のみに変更し、同日施行の「鹿児島県告示第75号(大島郡十島村を三島村に変更する条例の許可)」によって村名を三島村に改称した。一方下七島の区域には十島村(としまむら)が新設された。十島村の設置根拠となる同政令第1項の条文が以下のとおりである。 鹿兒島県大島郡十島村の区域で北緯二十九度から北緯三十度までの間にあるもの(口之島を含む。)に地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)及びこれに基く命令を適用する。この場合において、この政令施行の際現にその区域に適用されている法令の規定によりその区域に置かれている村は、その区域をもつて、地方自治法の規定による鹿兒島県大島郡十島村となるものとする。 — 鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令第1項 1952年(昭和27年)4月1日には、「昭和二十六年十二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令」によって当分の間政令で特別の定めをするものを除き、従前の法令を適用すると定められていたが、鹿児島県大島郡十島村の区域に関する法令の適用に関する政令の施行により、一部の法令を除き全ての法令が適用されることとなった。
※この「本土復帰と村の設置」の解説は、「十島村」の解説の一部です。
「本土復帰と村の設置」を含む「十島村」の記事については、「十島村」の概要を参照ください。
- 本土復帰と村の設置のページへのリンク