沖縄県全需要の75%をまかなう
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 01:10 UTC 版)
「沖縄製塩」の記事における「沖縄県全需要の75%をまかなう」の解説
1960年(昭和35年)、台湾からの原料塩を直接輸入する特約(沖縄総代理店)を結び、沖縄における原料塩は一括して沖縄製塩で取り扱うようになった。この頃は個人の製塩業も会社の製塩も販売の拡大にしのぎを削っていた頃でもあったし、会社の製品(文化塩)の認識も一般にまだ低く従来の粗製塩が普及していた時であったので販売に多くの努力をしていた。粗製塩をつくるにも台湾産の原料を使うのが多かったので、会社では製品の販売利益よりむしろ原料塩の販売益の方が多くこれが会社の立て直しの原動力にもなった。その後、塩の計画生産も順調に進み価格も年間を通じて平均的に安定してきた。これも新しい工場による生産の一つの大きな効果といえよう。一方会社から離れた組合の方では、それぞれ所有の塩田を利用して生産を続けていたが、塩の価格の高いうちは、家内工業的に続けられていたが、塩の価格が安定してくると、いろいろの面から原価が高くつき、更に自然の天候などの関係で稼働日数が少なくなると、自然に別の職業へ転業していっていつのまにか塩田の作業は無くなり僅か原料塩を購入して再製する方式に留まったのが1-2を残すのみとなった。このようにやがて会社の製品は沖縄の総需要5,000トンの実に75%をまかなうようになり、沖縄全島の隅々まで行き渡り安定した企業となった。アーシマース(泡瀬塩)の名前で通ってきた泡瀬と塩の名は、全沖縄に広まった。会社においては、本土復帰への対応策として、「沖縄の塩の需要は沖縄の生産で供給しよう!」との目標の下に、流下式改良塩田建設から、イオン交換膜法製塩工場の建設などの計画があったが実現には至らなかった。 戦後における本土の製塩業は、従来の入浜塩田から、流下式と枝條架式併用への転換がほぼ終わった時期に、塩業近代化政策により、これまで塩田を利用していた全国の36工場が廃止され、イオン交換膜法製塩による全国の七工場の整備が終了したのは、本土復帰の前年の1971年(昭和46年)12月であった。この時期に際会したために、会社の沖縄に於ける自給対策は実現には至らなかった。誠に惜しいことであった。沖縄の本土復帰に伴い日本政府の政策上、塩の製造は廃止され1972年(昭和47年)5月14日、本土復帰の前日、創業以来26年続いた沖縄製塩の火は静かに消えていった。
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