沖縄県令としての鍋島直彬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 09:54 UTC 版)
「鍋島直彬」の記事における「沖縄県令としての鍋島直彬」の解説
子爵で旧藩主である直彬が沖縄県令に任命される人事は、門地を重んじる民心をふまえ、華族の権威を利用して琉球処分(廃琉置県)から間がない沖縄県政の確立を企図したものであった。新県庁職員は、直彬が引率した佐賀県出身者(当時は長崎県)が要所を占めることになった。直彬は、政府の方針にしたがい土地・租税・地方制度などの旧慣をすべて継承する「旧慣温存」を表明し、勧学と勧業を重点施策に掲げ実行に移した。明治13年に赴任すると衛生上害悪があるとして、那覇市街において豚を養うことを禁じている。2年余の在任中に、糖業奨励策をめぐり旧琉球王国以来の特権を有していた鹿児島系寄留商人と対立し、琉球士族らの反抗もあり、県政は行き詰まり、明治14年(1881年)に辞職を余儀なくされたが、直彬に率いられた30名余りの部下(原忠順ら)共々、沖縄の基礎作りに貢献した。ただし、多数の部下を引き連れたことで現地職員と大きな軋轢を生んだことを反省し、後任の上杉茂憲には人数を絞るよう助言している。上杉に同行したのは、従僕含め7名のみであった。
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