琉球処分直後
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ともかく沖縄県設置後、前述のように改革は穏便にすべき方針を上げながらも、1885年(明治18年)までに内地(日本本土)並みの政令施行を計画していた。 しかし、尚泰の東京への移住が決まるや否や、旧三司官の亀川盛武親方を筆頭とする「亀川党」、久米士族らが秘密裏に清国に救援を求めるなど、抵抗の動きを始める。処分官松田は旧藩士族らを一堂に集め、旧制改革を迫るが、旧士族らの団結は固く聞き入れられなかった。1879年5月18日には初代沖縄縣令鍋島直彬が赴任した。折しも清国からの抗議により琉球を巡る交渉が始まっており、沖縄の動揺は外交交渉に悪影響を及ぼす虞があり断じて回避する必要があった。結局当初鍋島は松田の穏便改革路線を踏襲せざるを得なかった。旧首里士族らは県庁に杜撰な書類を提出したりして抵抗、鍋島らは地方の地頭役人らの説示に遊説しようとするも、首里士族からの報復を恐れてこれら地頭役人は隠遁回避するなど失敗続きであった。 このように処分自体への士族層の不満は大きく、これが同年7月サンシー事件や「旧藩民血判誓約書」などの具体的行動に現れることとなった。しかし、これらの事件などが明るみに出ると形成は逆転し、沖縄県庁警察官吏の実力介入を招くこととなった。また、県庁への貢納反対の一環として宮古・八重山から那覇に秘密裏に運ばれた年貢米が縣警察官吏に押収された。県庁側の動きは早く、7月末には県警察署、那覇分署と首里分署の設置が早々に決定された。 士族層が具体的反抗に出たのを契機に県庁は弾圧への動きを強め、態度を改めなかった御物奉行安室親方や旧三司官浦添親方を拘留尋問しこれに拷問を加えた。また地方や諸離(離島)に警察官を派遣し、亀川党と目された非協力な地頭役人ら100余名を拘束しこれらに拷問を加えた。 残された旧三司官富川親方は清国からの救援を期待し面従腹背の姿勢を取ることに決め、9月には始末書的な嘆願書を提出、拘束された士族重鎮らは解放され、県庁は「寛大な処置として」裁判および求刑を免除することとした。 このように県庁は不平士族を実力で弾圧する一方で、不処罰など寛刑措置、さらに浦添親方を初めとする上級士族の県庁への登用など士族層の懐柔策を図り、表立った抵抗運動は沈静化した。 なお、後にこのような懐柔策への不満や、そもそも三司官や久米士族を中心として琉球国体の骨幹を為していた琉球国学に骨の髄まで存在原理を依拠していた上級士族(中華秩序)と、その中華たる清国が列強に蚕食される当時の東アジア情勢の下で、欧米列強に追い付き追い越すことを国是とし急速な西洋化、近代化を推し進めたい新政府や県庁の政策との間で政治原理につき相互理解が不能であったなどの理由で、富川親方は脱清し、県庁に登用された上級士族も多くが辞職している。
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琉球処分直後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 04:34 UTC 版)
琉球処分直後の動向として、琉球王国旧士族層を過度に刺激して、清朝との琉球帰属交渉に悪影響が及ぶことを懸念した日本明治新政府は、沖縄の急激な改革は望まず、琉球士族層を弾圧しつつもその利権温存を図り懐柔すると言う、アメとムチの政策(旧慣温存政策)を内々の方針としていた。これは、性急な開化政策のあまり士族反乱から西南戦争を招いた事の自戒にも立っていると考えられている。 このような中、一時は旧三司官を筆頭とする上級士族層を新政府・沖縄縣廳配下に登用する動きもあった。しかし、そもそも三司官や久米士族を中心として琉球国体の骨幹を為していた琉球国学に骨の髄まで存在原理を依拠していた上級士族(中華秩序)と、その中華たる清国が列強に蚕食される当時の東アジア情勢の下で、欧米列強に追い付き追い越す事を国是とし急速な西洋化、近代化を推し進めたい新政府・沖縄縣廳の政策との間で政治原理につき相互理解が不能であった事が表面化。富川親方は脱清し、縣廳に登用された上級士族も多くが辞職した。 反動組織として、旧三司官の亀川盛武親方を筆頭として「亀川党」(のちの「頑固党」)を組織し、脱清人の指導にあたった。亀川は亀川・頑固党の反動勢力指導者であった。
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