琉球処分後
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1879年(明治12年) 廃藩置県により、琉球藩は廃止され尚泰は東京に連行、その後沖縄県が設置。これにより正式に琉球王国は消滅する。本島でのコレラ流行により6,400人程の死者を出す。 1881年(明治14年) 上杉茂憲沖縄県令着任。教育普及、人材育成、技術改良、人身売買禁令など旧弊の改革に着手。1883年(明治16年)県令解任の際、金壱千五百圓の私財を奨学資金として県に寄付。 1882年(明治15年) 大きな地震があり市中各地の石垣が崩れる。 1886年(明治19年) 県下で義務教育令施行。 1892年(明治25年) 奈良原繁、沖縄県知事( - 1908年(明治41年))に着任。中村十作、宮古で真珠養殖事業を興す。 1893年(明治26年) 「琉球新報」創刊。 1894年(明治27年) 日清戦争開戦( - 1895年)。 1896年(明治29年)- 日本電信電話公社が鹿児島 - 奄美 - 沖縄本島間に電信用の海底ケーブルを敷設。 1898年(明治31年) 間切島規程(吏員規程、間切島会規程)施行。県下で徴兵令施行(先島は1904年より) 1899年(明治32年) 沖縄県土地整理法施行。戦前の沖縄版地租改正に着手。 1903年(明治36年) 土地整理事業完了。先島諸島の人頭税廃止。旧慣温存政策の終結。 1904年(明治37年) 沖縄明治大干魃(「ナナチチヒャーイ」)。日露戦争下であったが明治天皇より下賜金二千五百圓(当時)と救済食糧を受賜。 1905年(明治38年) 久松五勇士、ロシアバルチック艦隊の通報に尽力す。 1908年(明治41年) 間切制が廃止され、「沖縄県及び島嶼町村制」が施行される。1920年(大正9年)に指定解除。 1909年(明治42年) 沖縄県議会設置。大きな地震があり各地の石垣が崩れる、死者1名。 1912年(明治45年/大正元年) 衆議院議員総選挙実施。ただし先島諸島へは1919年(大正8年)に適用。 1914年(大正3年) 首里-那覇間に電車開通(→沖縄県の鉄道も参照)。 1917年(大正6年) 「先島新聞」創刊。 1919年(大正7年) 宮古でコレラ流行、900人の死者を出す。 1921年(大正10年) 皇太子裕仁親王、訪欧の途中首里、那覇に立ち寄り、最初で最後の訪沖となる。「八重山日報」創刊。 1922年(大正11年) 民俗学者ニコライ・ネフスキー、宮古を訪問。 1926年(大正15年) 大きな地震があり各地の石垣が崩れる。 1927年(昭和2年) - 1932年(昭和7年) 首里城修復工事。 1940年(昭和15年) 宮古・伊良部渡船伊良部丸遭難事故。73名の死者を出す。 1942年(昭和17年) NHK沖縄放送局、ラジオ放送開始。 1944年(昭和19年) 対馬丸事件。
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