琉球処分後の八社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:15 UTC 版)
明治時代に入ると、琉球においても日本本土同様の宗教改革の波が押し寄せたが、 琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれた琉球におけるそれは、神仏分離に伴う廃仏毀釈が吹き荒れた日本本土とは異なるものであった。 『琉球宗教史の研究』によれば、明治の宗教政策は、在来の宗教を弾圧し或いは変革することによって、日本の国家理念の下につくられた日本宗教に移行せしめ、その宗教を通して、琉球人を日本国家および日本精神の下に統合することに存していた。置県後において、琉球八社は明治政府から政治的目的をもって取り上げられることとなる。 同書によれば明治初期の琉球は、明治12年(1879年)の沖縄県設置後も住民の民族的帰趨が定まらず、未だ清国から救援のあるのを心に頼み、特に北清事変まではかかる傾向がなお顕著に見られたほどであった。この様な情勢から県政実施の上に幾多の障害があることに鑑み、信仰によって県政の実を挙げるべく琉球八社の中の1社を近代社格制度の官国幣社に列格し、以て人心をして国家あるいは皇室への帰一を計らんとしたのだと言う。こうして明治22年(1889年)、沖縄県知事より波上宮の国幣中社列格が上申されたが、政府は皇室の祖神である伊弉冊尊を祀っていることを理由として、明治23年(1890年)1月27日に官幣小社へ格上げのうえ列格を裁可している。 また他の7社については、沖縄県で村社に列することを立案したが、前述した通り琉球の神社は従来より氏子組織を持たないことから経済的に村社列格が出来ず、また社殿その他の設備においても不備な点が多々あって村社列格が事実上不可能であることから、とりあえず無格社として残置し、追々維持拡張整備して村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている。 同書によれば、当時の琉球八社は日本本土の神祇と同じものであるとは言え、神職制度の相違や、氏子組織のないこと、祭式方法の異なりなど、その制度および組織上に幾多の差異があったのだと言う。しかも琉球王国時代に王府が正規の神祇として認めていたものは、これら神社ではなく御嶽、火神の殿、それらに奉仕する女神官で、これらは地元の民衆と信仰的に直接結合していた。その関係は御嶽拝所が低級であると言う理由では廃止できないほど強靭であったことから、日本政府の経済的保障により経営に困難のなかった波上宮を除き、他の7社は経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなった。幾分地方民衆の信仰を受けていた普天満宮を除く6社は民衆から放置されて荒廃し、天久宮などは拝殿が失せ、本殿は昭和12年(1937年)大音響と共に逆転倒壊して逆立状態となるほどであった。 この様に民衆の信仰が薄いにもかかわらず、日本本土の神祇と同じものであると言うただそれだけの理由をもって琉球八社を取り上げた日本政府の政策は、結局失敗した観があると『琉球宗教史の研究』では評している。
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