観測の歴史
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「太陽系外惑星の発見方法」の記事における「観測の歴史」の解説
トランジット法の原理を使った惑星観測が初めて提案されたのは1952年で、アメリカの天文学者オットー・シュトルーベによって執筆された論文内で言及された。論文では主にドップラー分光法での惑星観測について提案しているが、その中で太陽系外惑星による恒星の食の観測をできる可能性についても述べられている。1971年にはトランジット法を用いた太陽系外惑星探索サーベイが提案され、1984年には地上から13,000個以上の恒星を観測すれば巨大ガス惑星を発見できる可能性があり、地球型惑星を検出するには宇宙望遠鏡が必要だとする主張が展開された。太陽系外惑星によるトランジットが初めて観測されたのは1999年で、すでに存在が知られていた惑星HD 209458 bのトランジットだった。トランジット法を用いて存在そのものが初めて確認されたのは2002年に発見されたOGLE-TR-56bである。 フランス国立宇宙研究センターが2006年に打ち上げた探査機、COROTはシンチレーション技術をさらに向上させて、観測を行った。このミッションでは「より精度良く」、そして「地球の数倍規模の小型の惑星を見つける」事を目標とした。2008年初頭から2013年の間に32の惑星を発見した。そして、COROTは2012年11月に不具合のためデータ送信ができなくなり、2014年に運用を終えた。 2009年3月には、アメリカ航空宇宙局(NASA)が、地球サイズの惑星を発見するためにケプラー宇宙望遠鏡を打ち上げた。ケプラーミッションでは、トランジット法ではくちょう座方向の観測視野内にある10万個の恒星を通過する惑星を観測する。この主要ミッションが終了する3.5年の間に、太陽に似た恒星を公転する地球サイズの惑星をいくつも発見する事に成功した。 2011年2月の時点で1,235個の惑星候補を発見し、その内の54個はハビタブルゾーン内を公転しているとされた。同年12月5日には探査チームは2,326個の惑星候補を発見したと発表した。内訳は地球サイズが207個、スーパーアースサイズが680個、海王星サイズが1,181個、木星サイズが203個、それより大きなものが55個となっている。同年2月と比べると、地球サイズの惑星の数は約2倍、スーパーアースサイズは約1.4倍に増加した。また、ハビタブルゾーンを公転している惑星も48個発見された。これらは、以前よりも厳格な基準で選ばれたものである。2013年6月には、惑星候補の数は3,278個に増加した。また、地球より小さい惑星も発見され、火星サイズのケプラー62c(0.54±0.03R⊕)や水星よりも小さなケプラー37b(0.303+0.053−0.073R⊕)などが知られている。ケプラーは主要ミッション終了後も延長ミッションである「K2ミッション」を行い観測を続け、2018年11月に運用を終了した。 2018年4月には、トランジット法で太陽系外惑星を発見するための新たな観測衛星トランジット系外惑星探索衛星(TESS)が打ち上げられ、2020年現在でも観測が行われている。
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観測の歴史
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ケプラー40は、ケプラーの観測対象となった。ケプラーは、主星を公転する系外惑星を探査するためのNASAの宇宙機である。ケプラーの最初の33.5日間の運用では、惑星が存在する可能性を示すシグナルが検出されたため、2009年5月中旬から6月中旬にかけて、Kepler object of interest (KOI) の番号 KOI-428 が与えられた。ケプラーの光度計によって測定されたデータは一般に公開され、そのデータ中にはケプラー40と、それをトランジットしている惑星候補のデータも含まれていた。 ケプラー40のデータは、フランスとスイスの天文学者のチームによって分析され、最初に偽陽性のテストが行われた。明らかな誤検出の可能性がすべて解消された後、科学チームは南フランスのオートプロヴァンス天文台の SOPHIE échelle 分光器を使用して、星の視線速度の測定を行った。収集されたデータを分析し、検出されたシグナルが近接した軌道を公転する連星によるものか、あるいは惑星によるものかの調査が行われた。 ケプラー40bの存在が確認された後、フランスとスイスの科学チームは、SOPHIE によって観測された星のスペクトルを分析することにより、星の恒星パラメータを明らかにするための研究を行った。ケプラー40は、太陽半径の1.8倍以上の半径を持つ恒星としては、6番目に惑星が発見された天体である。ケプラー40b が発見された時点では、ケプラー40はトランジットする惑星を持つことが知られている中では最も進化した星であった。 ケプラー40の周りの惑星の発見に関する論文は、2010年9月15日に投稿された後、2011年1月4日にアストロノミー・アンド・アストロフィジックス誌に掲載された。
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観測の歴史
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現在観測されているクエーサーのいくつかは、1950年代の終わりに電波源として記録されている。1960年頃までにこのような天体が数百個見つかり、ケンブリッジカタログ第3版(3C カタログ)に収録されたが、電波源は謎のままだった。 1960年、カタログ中の3C 48という電波源と位置関係が対応する天体の光学観測に成功した。この暗く青い星のように見える天体のスペクトルには、正体不明の幅の広い輝線が多く含まれていたが、当時はこの奇妙なスペクトルが何かを説明できなかった。 1963年、カタログ中の3C 273という電波源にも位置関係が対応する天体が光学観測された。このときにもスペクトルに同様の奇妙な輝線を含んでいたが、オランダのマーテン・シュミットは、これが水素のスペクトル線が 16% も赤方偏移したものであることを発見した。この大きな赤方偏移は、3C 273 が秒速 44000km という速さで我々から遠ざかっていると解釈された。これを先の 3C 48 に当てはめれば、赤方偏移は実に 37%、光速の 1/3 もの速度で遠ざかっていることを示していた。アメリカのホン・イェー・チューは、このような天体を準恒星状電波源 (quasi-stellar radio source)と命名し、新しく Quasarとして分類される天体の研究が始まることになった。 この発見の直後から、クエーサーの持つ大きな赤方偏移の原因は天文学者の間で大きな議論の的となった。ハッブルの法則に従う非常に遠方の天体であることが示唆されたが、当時、特に定常宇宙論を支持する学者からは、もしそれほど遠方にあるのなら、クエーサーが放出するエネルギーは膨大な量になり、核融合など、(当時に)知られているどんなエネルギー変換の過程をもってしても説明できない、と反論した。膨大なエネルギー源を未知の安定した反物質に求める説などもあった。また1960年代に研究が活発となったブラックホールの理論から議論されたホワイトホールではないかとする説もあった。 同時に、そもそもクエーサーは近傍の天体なのか、あるいはその赤方偏移が示唆するように遠方にある天体なのか、ということも議論された。クエーサーの赤方偏移はハッブルの法則によるものではなく、重力ポテンシャルの深い「井戸」の中から光が放出されている(重力赤方偏移)ためではないか、という説もあった。 しかし1970年代に入ると、降着円盤とそれによる宇宙ジェットの発生メカニズムが提案され、いくつかのクエーサーの膨大なエネルギーの源はこうした活動銀河核によるものとの理解が進んだ。この結果はクエーサーの位置関係を説明するとともに、宇宙が拡大していることを支持し、ホイルの定常宇宙論をほぼ否定することになる。ごく少数であるが、クエーサーが近距離にあるという証拠を挙げている研究者がいる。ホルトン・アープは、近距離にある通常の銀河と相互作用を起こしているように見えるクエーサーを数多く撮影し、そのような銀河のカタログを作成した業績があり、また定常宇宙論を支持する立場の代表的な研究者だが、彼のこうした主張は1960年代のものであり、現在の主流とはいえない。 今日ではクエーサーが宇宙論的距離にあるという描像はほぼ全ての研究者に受け入れられている。 1980年代に入ると、クエーサーは単に活動銀河の一種であるという統一モデル(英: Unified scheme / -model )が提唱された。これによりクエーサーがブレーザーや電波銀河などの他の活動銀河と異なって見えるのは、単純に地球から見た角度の違いであるという見方が広く認知されることとなった。また、銀河系の内部もしくはごく近傍にあり、中心にブラックホールや中性子星があるためにクエーサーと同様の降着円盤やジェットなどを伴いよく似た性質をもつ天体をマイクロクエーサー(例:わし座SS 433、GRO1915+105、たて座LS5039 など)と呼ぶことがあるが、こちらは主にX線連星を伴った構造をもつ天体を指す用語であり、クエーサーとは別物である。近傍にあるためにクエーサーのような赤方偏移は見られない。 現在ではさらに観測技術が向上し、コロラド大学やカリフォルニア工科大学らにより、クエーサーAPM 08279+5255に地球上の海水の100兆倍の水が存在することが発見されるなど、研究の進展がめざましい。
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観測の歴史
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1997年、ハッブル宇宙望遠鏡は、おとめ座銀河団に多数の銀河間星を発見した。1990年代末には、ろ座銀河団にもいくつかの銀河間星が発見された。
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観測の歴史
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1654年以前にイタリアの天文学者ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナによって観測されていたとされる。オディエルナとは独立して、星雲の前景にある NGC 6530 がジョン・フラムスティードによって1680年ごろ発見された。 その後、1746年にジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって星団として再発見され、翌年の1747年にはフランスのギヨーム・ル・ジャンティによって星雲として観測された。1764年にシャルル・メシエがメシエカタログに加えた際には、この星雲を星団として登録しており、星団と星雲の両方を発見したと考えられている。メシエは「星団で、単純な3フィート望遠鏡で見ると星雲のように見える。しかしすぐれた機材では、数多くの暗い星団である」と記している。 「干潟」という言葉をM8と関連づけて使ったのは、アグネス・クラークであろうと言われている。1890年の『The System of Stars』という本で、彼女は暗黒星雲の黒い筋を干潟と表現した。
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観測の歴史
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ベテルギウスとその赤みがかった色は古代から注目されてきた。古代ローマの天文学者であるクラウディオス・プトレマイオスはその色を「ὑπόκιρρος(hypókirrhos)」と表現した。この用語は後にウルグ・ベクが出版した星表である『Zij-i Sultani』の翻訳者によってラテン語で「rubedo」と呼ばれた。rubedoは英語では「ruddiness」と呼ばれ「赤味」や「(頬などが)赤い様子」を意味する。現在の星の分類の体系が形作られる前であった19世紀に、イタリアの天文学者アンジェロ・セッキはベテルギウスを「クラスIII(赤色から橙色の恒星)」の恒星のプロトタイプの1つとして分類した。それとは対照的に、プトレマイオスがベテルギウスを観測する3世紀前に中国の天文学者は黄色いベテルギウスを観測したと言われている。これが事実である場合、西暦紀元の初め頃ではベテルギウスが黄色超巨星の段階にあったことを示している可能性があり、現在の研究に基づく黄色超巨星の周りの複雑な星周環境を考慮すると、実際にそうであった可能性はあるとされている。
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観測の歴史
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約16万年前から約21万年前は、視等級が-1.8等もあり、全天で一番明るい恒星であった。それ以前は、-1.1等のアルデバランが一番明るかった。カペラとアルデバランは、地球からは近くにみえるため、ポラリスと同様に北を示す指極星として認識されてきた。 古代バビロニアでは春分の日没直後、この恒星と新月とが西の空に並び懸かる日を元日としていた。 リック天文台で働いていたウィリアム・ウォレス・キャンベルは1896年8月から1897年2月までカペラのスペクトルを観測した。カペラ系の太陽系に対する視線速度には大きな変動が見られた。また、スペクトルは2つの天体の光が重なったような特徴を示し、時間とともにその重なり方が変わっていった。9月から10月の間に伴星のものと思われるスペクトルは主星に対して青方偏移を起こしていたが、11月から2月の間は赤方偏移に転じた。キャンベルは、これら2種類の変動は連星によるものと結論付け、1899年に、カペラが分光連星である事を発表した。ほぼ同じ頃に、イギリスの天文学者ヒュー・ニューオールは、ケンブリッジにある、プリズム分光器を備え付けた口径25インチの望遠鏡でカペラを観測した。すると、複数の恒星の存在を示すスペクトルが得られ、Newallもカペラは連星であると結論付けた。 多くの天文台で観測が行われたが、A星系は恒星同士が非常に接近しているため、2つの恒星に分離して観測する事はできなかった。1919年、ジョン・オーガスト・アンダースンとFrancis Peaseは、ウィルソン山天文台で、干渉法を用いて観測した結果、A星系の分離に成功した。翌年の1920年にA星系の詳細な軌道要素を発表した。これは、太陽系外では史上初めて、天文干渉法による他の恒星の観測が成功した例となった。1994年、ウィルソン山天文台のMark III stellar干渉計を使用して、より高精度な軌道要素が判明した。 1914年、フィンランドの天文学者Ragnar Furuhjelmは、A星系と類似した固有運動を持った恒星が存在しており、この恒星がカペラ内の連星である事を発表した。この恒星はH星と名付けられた。さらに、1936年2月には、Carl L. Stearnsは、この恒星も連星である可能性を指摘し、同年9月に、ジェラルド・カイパーが連星である事を確認した。
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観測の歴史
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この天体はニュージェネラルカタログに含まれているため、少なくとも1888年以前から知られていたことになる。NGC 6302に関する最も初期の研究は、1907年にこの天体について記述したエドワード・エマーソン・バーナードのものである(Meaburn et al. 2005)。 その後、この天体は多くの研究の対象となり、様々な興味深い性質が示された。近年の研究の興味は、星雲の励起の機構から、大量の塵成分の性質に移ってきた。 2009年9月にハッブル宇宙望遠鏡が最後のサービスミッションを開始してから初めての撮影対象の1つとなった。
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観測の歴史
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130年頃、トレミーは「さそりの針に続く星雲」と記述している。17世紀にイタリアの天文学者ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナは1654年以前にこの星団を観測し、30個の星を数えた。ラカーユは喜望峰からM7を観測し、「正方形の中に集まった15ないし20の星の群れ」と書き残している。ジョン・ハーシェルは1864年の彼のカタログに「とても明るく、非常に星数が多く、集まりのゆるい、7等から12等の星々」と記録した。
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観測の歴史
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亜鈴状星雲は惑星状星雲として最初に見つかった天体である。多くの研究者に研究され、記載も非常に多い。1764年にシャルル・メシエによって発見された。メシエは「星のない星雲で、3.5フィートの望遠鏡でよく見える。楕円形。経4'」と記している。ウィリアム・ハーシェルは1785年に「外観はとくに大きいというわけではない。おそらくひどく広がった二重の星層でその一端が我々の方をむいているのであろう。ほぼ3部分に分かれているが、星雲状の部分は内容が違っているものと推測される。すなわち分解不可能部分、色彩を帯びていないが分かれない部分、銀河の部分である」と記して、銀河が含まれていると思っていた。ロス卿は「星に分けられないが、分かれそうな気配もある」としている。これは前景にある微星のことであると思われている。
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観測の歴史
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詳細は「木星探査」を参照 小さな望遠鏡を用いる初期の天文学者は、木星の大気の見かけの変化を記録した。彼らが使った、ベルト、ゾーン、スポット(斑)、プリューム、バージ、フェストーン、嵐等の用語は、現在でも使用されている。渦、垂直運動、雲高等の用語は、20世紀になってから使われ始めた。 地上の望遠鏡よりも高い解像度で初めて木星の大気を観測したのは、パイオニア10号とパイオニア11号であった。木星の大気に関する最初の真に詳細な画像は、ボイジャー計画によってもたらされた。2機の探査機が、様々なスペクトルで5kmの解像度の詳細な写真を撮影し、また動きながらの「接近映像」も作製することができた。ガリレオは、木星の大気をそれほど観測した訳ではないが、より高い解像度で、より幅広いスペクトルでの観測を行うことができた。 今日では、ハッブル宇宙望遠鏡のような望遠鏡のおかげで、天文学者は継続的な木星の大気の記録を手に入れることができる。これらの記録は、木星の大気は時々、大規模な擾乱によって乱されることがあるが、全体としてはかなり安定していることを示した。木星の大気の垂直運動は、地上からの観測による痕跡ガスの同定で、かなり特定された。シューメーカー・レヴィ第9彗星の衝突後の分光学的研究で、雲頂の下の化学組成について概観することができた。アンモニア、硫化水素等とともに二原子硫黄や二硫化炭素の存在も記録され、これは木星上からの初めての検出であった。また、二原子硫黄については、天体からの二例目の検出であった。一方、二酸化硫黄等の酸素含有分子は検出されず、天文学者を驚かせた。 木星に突入したガリレオは、気圧22バールの高度までの風、温度、組成、雲、放射レベル等を測定した。
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観測の歴史
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イタリアの天文学者ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナは、1654年以前に初めてこの天体の記録を残したが、それが世に知られたのは1980年代になってからである。1745年から1746年にかけて、ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーが独立して再発見し、「ここに非常にきれいな星団がある」と記録している。ニコラ・ルイ・ド・ラカーユは「小さな星が3条帯状に連なる。そして菱形をつくっている」、ジョン・ハーシェルは「主星の7等星は美しく大きい。10~11等の星の集合。一つが7等、もう一方は7~8等。」とした。これを1764年に見たシャルル・メシエは「肉眼では星のない星雲状であるが、小口径では星団と分かる」として彼のカタログに加えている。なお、ロバート・バーナム・ジュニアは、クラウディオス・プトレマイオスが隣のM7を観察中にこのM6も観察したかもしれないとしているが定かではない。
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観測の歴史
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HR 5171は、後に輝星星表として出版されるHarvard Revised Catalogueに含まれている。6.23等級のスペクトル分類K型の恒星として、カタログの5,171番に掲載されている。1927年には二重星としてカタログに記載されている。 1956年にHR 5171は明るさ6.4等級、スペクトル分類G5p型で、色はK型星よりも赤かったと記録されている。1966年にはCorbenがHR 5171を明るさ6.51等級、スペクトル分類G5p型で、変光星であると記録している。1969年のカタログには、明るさ5.85等級、スペクトル分類A7Vと記されているが、これは誤りであるとされている。1971年には、HR 5171 Aは星間減光による3等級の減光と星周物質による0.5等級の減光により赤く見えたG8型の超巨星と同定された。1979年には、HR 5171 Aの絶対等級が-9.2等級と、当時知られていた中で最も明るい絶対等級を持つ恒星の一つであることが判明した。G8型とされたスペクトル分類は後の改定されたMKシステムによりK0 0-Ia型に調整され、HR 5171が高光度超巨星である基準を満たすことになった。 1973年、1966年のCorbenのカタログに基づいて、「ケンタウルス座V766星」という名称で変光星として認定された。当時、HR 5171は「冷たいかじき座S型星(cool S Doradus variable)」と考えられていた。この分類には現在は黄色超巨星として知られているカシオペヤ座ρ星のような恒星が含まれる。これらの恒星は、ある時は明確に変光し、またある時はほぼ明るさが一定であるので、通常は半規則型変光星(SRD)に分類され、予測できない減光を示すことがある。詳細な研究により、明るさとスペクトル分類の両方に430日から494日周期の変動性が存在する可能性が示されており、表面温度は4,000 K未満から5,000 Kにまで変動すると計算されている。 2014年に発表された論文で、VLT干渉計を用いた観測によりHR 5171 Aが予想以上に大きかったことと、接触連星であったことが明らかになった。また、恒星の周りを覆っている物質の殻も直接観測されている。2016年のVLT干渉計による観測では、HR 5171 Aの大きさがさらに大きく、より表面温度が低いことが判明した。さらに干渉計は伴星Abが主星Aaの前面を通過している画像も撮影している。
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観測の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 05:17 UTC 版)
メシエはM20を「星団」として記録した。M20が星雲に囲まれていることは、M20の近くにあるM21の記録にのみ記されている。 三裂星雲と名付けたのはジョン・ハーシェルである。ところが、この名前は写真を初めて見た人を惑わす。ジョンの父ウィリアム・ハーシェルはこの星雲を「四つ」に分けてカタログしていた。実際、この星雲は4つの部分に分かれているようにも見え、「クローバー」に例える人もいる。
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観測の歴史
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西暦509年の3月11日、ギリシアのアテネで、月によるアルデバランの星食(掩蔽)が観測された。1718年にイギリスの天文学者エドモンド・ハレーがその星食の記録を調べていると、アルデバランが数分、北に移動している事を発見した。よって、ハレーは恒星が長い年月をかけて移動していると結論付けた。これは固有運動と呼ばれ、後にシリウスとアークトゥルスでもそれが確認された。現在では、アルデバランは過去2000年間の間に、7分移動しており、これは満月の4分の1に相当することが分かっている。また、1年間に0.2秒角の速度で南南東に動いており、秒速54 kmで太陽系から遠ざかっていることが分かっている。 イギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェルは、1782年にアルデバランから117秒離れた位置に11等の伴星らしき天体を発見した。また、1888年にシャーバーン・バーナムは31秒離れた位置にある14等級の恒星とアルデバランを二重星として観測した。後の固有運動の測定から、ハーシェルが発見した恒星は、アルデバランと重力的に結合していない、見かけ上の二重星だと判明した。しかし、バーナムが発見した恒星は、アルデバランとほぼ同じ固有運動である事が判明し、アルデバランとは真の連星である事が示唆された。 1864年に、イギリスのTulse丘にある民間天文台で働いていたウィリアム・ハギンズは、最初のアルデバランのスペクトルの観測を行った。その結果、鉄、ナトリウム、カルシウム、マグネシウムなどの9つの成分が検出された。1886年、ハーバード大学天文台で観測を行っていたエドワード・ピッカリングは、写真乾板を使って、アルデバランのスペクトルから、50本の吸収線を捉えた。この結果は、1890年に出版された天体カタログ『Draper Catalogue of Stellar Spectra』(後に出版されるヘンリー・ドレイパーカタログの前身に相当) の一部となった。1887年の時点で、スペクトルのドップラーシフトの大きさから恒星の視線速度を測定できるまでに撮影技術は進歩していた。これを用いて、ヘルマン・カール・フォーゲルとその助手J・シャイナー(英語版)によってポツダム天体物理天文台で行われた観測より、アルデバランの後退速度が 48 km/s と推定された。 アルデバランの角直径は1921年にウィルソン山天文台のフッカー望遠鏡に備えられている干渉計を使って、初めて測定された。その角直径は0.0237秒で、それまでの推定値とほぼ一致していた。
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観測の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:10 UTC 版)
この銀河は、1783年、彗星の探索中にカロライン・ハーシェルによって発見された。その約半世紀後、ジョン・ハーシェルは喜望峰で、18インチの反射望遠鏡を使って観測した。彼は、とても明るく大きな(長さ24′)壮大な天体である。その光はいくらか縞状であるが、この銀河には属していなさそうな4つの大きな天体と1つの非常に小さな天体の他には恒星は見られない。と記述した 。 シドニー郊外で働くバーナード・ミルズは、NGC 253は強い電波源でもあることを発見した。 1998年、ハッブル宇宙望遠鏡は、NGC 253の詳細な写真を撮影した。
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観測の歴史
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うしかい座τ星bは、1996年にジェフリー・マーシーらの研究チームによって発見された。 1999年、うしかい座τ星bを太陽系外惑星としては初めて直接観測したと発表された。しかし、この発見は後に撤回されている。真に直接観測されたのは、2008年のHR 8799系の3つの惑星(HR 8799 b、c、d)と、フォーマルハウトb(ただし存在に疑問がもたれている)である。 2012年、VLTがうしかい座τ星Aの光の中から、うしかい座τ星bが反射した光だけを抜き出して測定したことによって、正確な質量や軌道傾斜角、大気の性質などが判明した。うしかい座τ星Aの光の中で、うしかい座τ星bからの反射光は0.01%しか含まれていない。2つのチームがそれぞれ発表した値には差異がある(例えば質量が5.95倍と5.7倍など)。
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観測の歴史
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2003年に、Brad HansenとMilos Milosavljevicは、銀河系の中心部に太陽の1000倍から1万倍の質量を持つブラックホールと、その周辺にある恒星で構成された星団の存在を予測した。少なくとも5光年離れた場所で形成され、現在の軌道に落ちてきたと考えられた。 2004年、Jean-Pierre Maillardらの研究チームは、GCIRS 13Eと命名された場所に太陽の1300倍の質量を持つ中間質量ブラックホールが存在する可能性を示した。 2005年、R. Schoedelらの研究チームは、星団の力学的性質から、GCIRS 13Eの中間質量ブラックホールの存在に疑問を呈した。議論は2012年現在も続いている。
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観測の歴史
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「いっかくじゅう座R星」の記事における「観測の歴史」の解説
ギリシャ王国アテネのアテネ国立天文台(英語版)で NGC 2261の観測をしていたヨハン・フリードリヒ・ユリウス・シュミット(英語版)が、1861年1月24日から28日にかけての観測によってこの星の変光に気付いた。いっかくじゅう座で最初に発見された変光星であったため、アルゲランダー記法に従って「いっかくじゅう座R星」と命名された。
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観測の歴史
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1772年、三体問題を研究していたイタリア出身の数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、小天体は惑星と軌道を共有するが、その60°前方か後方の点の付近に捕らわれるだろうと予測した。捕らわれた天体は、オタマジャクシ軌道か馬蹄形軌道の平衡点付近でゆっくりと秤動する。前後60°の点は、L4及びL5のラグランジュ点と呼ばれる。しかし、ラグランジュの予測から1世紀以上の間、木星のトロヤ群の小惑星が初めて発見されるまでは、ラグランジュ点に捕らわれた小惑星は発見されなかった。 エドワード・エマーソン・バーナードは、1904年に (12126) 1999 RM11を観測していた。これはトロヤ群の最古の観測記録だが、この時には、彼もその他の人もその重要性には気付かなかった。バーナードは、自身が、当時発見されたばかりであり、わずか2″しか離れていなかった土星の衛星フェーベかまたは恒星を観測したと信じていた。この天体の正体が明らかとなったのは、1999年に再発見され、軌道が確定されてからであった。 最初にトロヤ群の小惑星だと認識されたものは、1906年2月、マックス・ヴォルフがケーニッヒシュトゥール天文台で発見した、太陽-木星系のL4ラグランジュ点に存在する小惑星であり、後にアキレスと名付けられた。1906年から1907年にかけて、同僚のドイツ人天文学者アウグスト・コプフによって、さらに2つのトロヤ群小惑星 (624) ヘクトルと (617) パトロクロスが発見された。ヘクトルはアキレスと同様に軌道の前方のL4ラグランジュ点に存在し、パトロクロスは初めて発見されたL5ラグランジュ点のトロヤ群小惑星であった。1938年までに、11個のトロヤ群小惑星が発見された。この数は、1961年には14個に増えた。観測機器の進歩に合わせ、発見の速度は上がった。2000年1月までの合計は257個となり、2003年5月には1,600個となった。2012年11月の時点では、L4に3,412個、L5に2,013個が発見されている。
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観測の歴史
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肉眼でも見えることからその存在は古くから知られていたが、星雲として認識されたのは望遠鏡の発明以降である。トレミーやティコは単独の恒星として認識しており、星雲については言及していない。バイエルもウラノメトリアでオリオン座θ星としていた。ガリレオも多くの微光星を発見しているが、星雲は確認できなかった。 1610年にフランスの法律家ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスクが望遠鏡で観測し、星雲状であることを記録しているが、彼が公表しなかったためその業績が知られたのは20世紀になってからである。翌年の1611年にはイエズス会の天文学者ヨハン・シサットが独立して発見しているが、これも19世紀になるまで広く知られることはなかった。またジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナもθ1、θ2A、θ2Bを含む星雲状のスケッチを遺しているが、広く知られることはなかった。 結局、1656年のホイヘンスによる独立発見が世に知られている。ホイヘンスは、「恒星の間に一つの記述に値する現象がある。私の知るかぎり誰も今まで気づかなかったもので、実際大望遠鏡でなければ見られないものである。オリオンの剣のあたりに、3つの星が密接している。1656年焦点距離23フィートの望遠鏡でこれらを偶然観察する機会があり、悪くない条件のもとで12個見えた。そのうち3個は密接し、さらに4個がある。これらが星雲を透して輝くので、その周囲は真っ暗な空の他の部分より一層明るくみえる」とした。ホイヘンスが言う4つの星はトラペジウムであり、彼は詳細なスケッチを残した。1789年ウィリアム・ハーシェルは、口径48インチの望遠鏡を向け「ぼんやりと点のようなものや、未来の太陽を作る混沌とした物質」と記した。ロス卿は「多くの微光星が埋もれる中央の部分は眼で見ると、すごい赤色をしめしている」と記した。
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観測の歴史
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1702年5月5日にゴットフリート・キルヒが妻のマルグレーテと彗星を観測中に発見し、「星雲のような星」と記録した。シャルル・メシエが1764年に「きれいな星雲。星はないと確信する」と記述している。ウィリアム・ハーシェルは1791年に40フィートの望遠鏡でM5を見て「40フィートの望遠鏡で約200個の星を数え、中心部は非常に密集しているので星は見えない」とした。ジョン・ハーシェルは「地面に投げられた、まばらで不規則な雪のつぶてのよう」とした。スミスは「エレガントな星塊。微光天体をさがしあてたあとで、これをみるとすがすがしい気持ちになる。外周の星が各方面に突出して明るく、中心部の集中度はM3にまさっている」とした。ロス卿は「径7'~8'以上。中心部の密集部は約径1'。星の等級は12~15等。沢山の星列が曲線を描いて中心部から派生している」とした。世界最大のヤーキス天文台のクラーク屈折望遠鏡で観察したマリー・プロクター(英語版)は1924年の自著で「あたかも月に照らされているかのように、やわらかく光る霧のような月明かりを背景に無数の点がきらめいている。…この光景をじっと見ているこの上なく幸福な瞬間。天国をきらりとのぞかせてくれる。」と書いた。
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観測の歴史
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1912年にヘスによって、宇宙線が観測された。これは、大気との相互作用によるチェレンコフ光を観測する方法によってであった。この原理は、初期の加速器(現在もPET用の試料生成に使われているサイクロトロンのこと)において使われていた「霧箱」と呼ばれる装置と同じものである。霧箱とは、電磁気をかけた液体ヘリウムや液体窒素の気体の中をα線(ヘリウム原子核)やβ線(電子)が通過すると、その構成物質が電荷を持っているため、軌跡が磁力によって曲げられる現象を観察することが出来る装置のことである。エックス線やガンマ線に関しては、写真乾板や写真フィルムを暴露しておくことによって観察が可能であった。加速器建設が行われるようになり、かつまた、医学領域における核検査技術の進展に伴い、エックス線やガンマー線に関しては、鉛ガラスと光電子増倍管を用いた観測装置によって観察が可能になった。 また、以前「エックス線観測衛星」に搭載された「すだれコリメータ」と呼ばれる装置も、電荷をかけた薄膜金属に高エネルギー線が衝突することによって飛び出す電子を検出し、その電子を加速することによってエックス線やガンマー線を検出する装置である。近年では、超伝導技術によって開発されたカロリメータと呼ばれるCCDに類似した素子によって同種の高エネルギー線が観測できるようになった。 この機器を加速器ではなく、宇宙に向けたものが高エネルギー観測装置と呼ばれるものである。元々は、歴史から見ても、ローレンツによるサイクロトロンの発明以前の発見であり、加速器建設が行われるまでは主流であったものである。 AGASAと呼ばれる観測装置は、東京大学宇宙線研究所の明野観測所に設けられた、2006年現在運用稼動中の観測装置では最大規模の観測装置である。微弱な光を捉える光電子増倍管を広い範囲に設置し、宇宙からの宇宙線のシャワーを捉える装置である。 また、その後三菱電機との共同開発によって、オーストラリアの砂漠中にCANGAROO望遠鏡を開発・設置を行い、現在では運用を行っている。これは、宇宙線が大気との衝突によって生じるチェレンコフ光を捉える装置である。 宇宙線観測の難点は、非常に澄み切った大気と極めて明かりの乏しい環境でなければ観測が出来ない点である。このため、観測装置の運用においては国内に観測点を設置することは減ってきている。
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