アントニオ猪木 プロフィール

アントニオ猪木

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 18:22 UTC 版)

プロフィール

生い立ち

神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている[7]。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り[8]サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。

幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮する[9]。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。

プロレスラーとして

プロレスデビュー

1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた[10]

ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木寛至として、東京都台東区の台東区体育館大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)[11]1962年(昭和37年)11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームアントニオ猪木に改名[11]。このリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが[12]、「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある[11]。なお、本名で活動中に出演したテレビドラマチャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという[11]

南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた(猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後であった)。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。

アメリカ武者修行

1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルス日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸中西部南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座[13]、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している[14](同期の馬場はMSGのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレス国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた[15]。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である[16][17]

東京プロレス

1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表[15]。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。

しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる[18]

日本プロレス復帰

日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、ジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現:テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始した際、日本テレビとの取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。

しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決は当時タブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から1971年(昭和46年)に追放処分を受ける(詳しくは密告事件を参照)。同年11月、女優倍賞美津子結婚した。

新日本プロレス設立

日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした[19]。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンスタン・ハンセンハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

異種格闘技戦

新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した[20]。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビア亡命したため、結局対戦は実現しなかった[20]

猪木監禁事件

1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。

同年、漫画原作者梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪リーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。

IWGP立ち上げと世代交代

1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。

この頃、猪木が自身のビジネス(「アントン・ハイセル」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスク長州力の退団騒動につながって行く。

1986年(昭和61年)6月にはプロボクシング団体日本IBFと業務提携開始。1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤観客なしのノーピープルマッチを敢行。

1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった[21]。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。

引退

1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。

1995年(平成7年)4月平和のための平壌国際体育・文化祝典で猪木は当初、前年46歳の誕生日数か月前にWBA・IBF世界ヘビー級王座獲得したジョージ・フォアマンとの対戦を希望したがフォアマンは「とんでもない。北朝鮮になど行かない。俺は第一に愛国者、第二にボクサーだ。わが国が北朝鮮と外交関係を持っていない以上、俺がそこに行くなんてありえない」と拒否。1974年キンシャサの奇跡で最初に世界王座君臨していたフォアマンをKOして世界王座奪取し1976年猪木と対戦したアリが来賓として参加、猪木自身はシングルマッチ 20分1本勝負リック・フレアーに完勝。12月30日、大阪城ホールにて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。

1996年(平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したフォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたWBU世界ヘビー級王座戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。

1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館角田信朗公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った[22]。この「道」のセリフは、後に盛んに春一番らがものまねの対象にしている。

引退後

引退後はUFOPRIDEINOKI BOM-BA-YEなど、多くの団体やイベントに盛り上げ役として登場したり、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催するなどしている。

2002年(平成14年)8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦[23]国立霞ヶ丘競技場陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。

2003年(平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。

2005年(平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。

2006年(平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務める東京サーベルズを結成。同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜[24]」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。

2007年(平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーションIGF)」を発足、6月に両国国技館にて旗揚げ戦を行った。娘婿であるサイモン・ケリー猪木新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。

2007年(平成19年)7月11日、親交のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。プロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。

2007年(平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた小川直也安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。

2010年(平成22年)2月1日、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである[25]。理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン

猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、アリゾナ州フェニックスにて行われた。猪木は翌日にアリゾナ州グレンデールユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムで開催された第26回レッスルマニアにも登場し、観衆からの祝福を受けた[26]

2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。

2011年(平成23年)12月31日、「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を開催。

2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「上海愛武」を旗揚げ。

2012年(平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される[27]

2013年2月20日古希を祝うパーティーが東京都港区ホテルオークラ東京で催され、坂口征二小川直也藤波辰爾藤原喜明木村健悟佐山聡ジョージ高野前田日明北沢幹之蝶野正洋棚橋弘至橋本大地スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一谷隼人デヴィ・スカルノ船越英一郎九重親方南部虎弾野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた[28]

2017年5月25日、自身がプロデュースする新イベント「ISM」の旗揚げを発表[29]。「ISM」の収益金については、自身の師匠の一人であるゴッチの墓を日本国内に建設するための費用とする。一方でIGFに対しては、既に運営から手を引いていることと「会社を整理する方向で考えている」との方針を明かした[30]。これに対しIGF側は、猪木が役員は退いているものの依然同社の大株主の一人であるとして、団体存続を目指す方針を訴えている[31]。同月にはIGF側が猪木の夫人に対する不当利得返還請求の訴訟を起こすなど[32]、一部の問題は法廷に持ち込まれていたが、最終的に2018年3月に猪木とIGFとの間で和解が成立し、猪木は所有するIGFの全株式を第三者に売却してIGFとの関係を断った[33]

2017年10月21日両国国技館での『INOKI ISM.2』において自身の生前葬を行う[34]

2019年2月19日、『ジャイアント馬場没後20年追善興行』に来場し試合前にあいさつ[35]。ジャイアント馬場関連イベントに登場するのは初。リングでの絡みを含めれば1979年の「夢のオールスター戦」以来となった[36]

2020年7月26日、自身のツイッターで、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされていることを告白。闘病生活を送っている[37]

2021年11月27日放送のNHK BSプレミアム『燃える闘魂 ラストスタンド 〜アントニオ猪木 病床からのメッセージ〜』にて、正式な病名は心アミロイドーシスではなく「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」だと公表した[38]

政治家として

政界進出、参議院議員

1989年平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる[39](キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。

なお、当時参議院比例区政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。当時は参議院の通称使用が認められていなかったため[40]、議員活動は本名の「猪木寛至」名義で行った。

1989年平成元年)10月14日、福島県会津若松市の体育館で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京病院に入院した。この時の猪木はマスコミインタビューで「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。後日、警察やマスコミなどが猪木に対し、何故、警戒しなかったのかと尋ねたところ、猪木は「過去に講演会やトークショー、様々なイベントで、ファンの人が突然、壇上に上がって握手やサインを求めてきたり、プレゼントを差し出してきたり、弟子入りや新日本プロレスへの入団をお願いしてきた事が何度かあり、今回も近づいてきた男性が暴漢ではなく自分のファンだと勘違いして何も警戒していなかった」と答えた。10月25日、統一会派を組んだ民社党の配慮により質問に立った[41]

湾岸戦争で日本人人質解放

1990年(平成2年)8月2日、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸危機)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクに連行・国外移動禁止処分にする。

政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。

これを追い風に、その後1992年(平成4年)7月の第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得[42](参議院会派で2議席目)した。

落選

1994年(平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子[43] およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反」、「収賄」、「右翼日本皇民党)との癒着」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題」などの問題を告発するいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。

このうちのいくつか(少女買春など)は完全な捏造であり、特に政治資金規正法違反については東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分を受けた(官報[要出典]に記載)。

これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。

一連の「猪木スキャンダル」もあり、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが[44]、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。

なお、スポーツ平和党は2004年(平成16年)4月を以て解散した。

参議院選挙への再出馬、国政復帰

2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。日本維新の会共同代表の石原慎太郎立ち会いの下で開催した記者会見で『猪木の元気を日本のために活かしたい』と国政再挑戦への意欲を漲らせた[45]

同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同党内最多得票)で当選し[46]、18年ぶりの国政復帰を果たした。

2013年7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された[47]

訪朝

2013年7月25日から北朝鮮朝鮮戦争休戦60年の記念行事に出席[48][49]。平壌で金永南最高人民会議常任委員長と会談した[50]。参議院規則では議員が登院できない場合には議院の許可を得ることとされているが、参議院選挙の比例区で当選した後ではあったものの前任の参議院議員の任期満了が7月28日であり未だ民間人なので問題はないと説明されていた[51]

その後、北朝鮮のスポーツ教化委員長であった張成沢の打診を受け、10月下旬に再度訪朝の意向を示した。10月31日の参議院議院運営委員会理事会は「必要性がない」として渡航不許可を決定[52]。しかし、不許可は不合理と反発して11月に入って実際に訪朝が実行されたため、参議院議院運営委員会理事会は処分を含めた対応を検討[53]。11月13日の参議院本会議懲罰動議が可決され懲罰委員会に付託して処分の是非や内容を審査することとなった[54]。懲罰委員会からは弁明の機会が与えられていたもののこれを拒否し、11月20日の懲罰委員会理事懇談会の協議で登院停止30日の処分内容が決定され、11月21日の懲罰委員会でこれを全会一致で可決、11月22日の参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された[55][56]。また、維新から党としての処分として、党員資格と党国会議員団副幹事長職のそれぞれ50日間停止を言い渡された。

さらに猪木を招待した張成沢が12月8日粛清され、公職追放された。そして12月12日死刑判決を受け、即日処刑された。猪木は張の処刑について聞かれ、「よく分からない。北朝鮮も神経質になっているときなので余計なことを話さず、言葉を控えたい」と答えた。しかし、訪朝時に打診した国会議員団訪問の受け入れは、北朝鮮側から「約束はまったく変わらない」と返答があったという。猪木は、理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に設立した事務所を通じた交流活動についても「変化しない」と述べた[57]

2014年1月13日 - 16日にかけ、北朝鮮に訪問した[58][59]。猪木の訪朝はこれで27回目となる[60]

2014年4月には同じ維新の会の松浪健太石関貴史阪口直人)、清水貴之)の4議員とともにゴールデンウィーク中の再度の訪朝を計画した。維新の会は党として許可した[61] ものの、政府として北朝鮮に対して渡航自粛勧告を通達するなど制裁発動中であることを理由に自民党からの自粛要請に逢い[62]、渡航に必要な衆参両院の許可が得られる見込みがなくなったとして最終的に断念した[63][64]。同年6月、第186回国会の閉会を待って再度の訪朝計画を発表(国会会期中以外の海外渡航は議員が所属する各院の許可が不要であるため)、これに対して菅義偉官房長官は7月7日の定例記者会見で、政府が北朝鮮への経済制裁を一部解除したことを踏まえ「渡航で特段の措置を取ることはない」として反対しない方針を表明[65]、7月9日、猪木と上記の4議員にみんなの党山田太郎参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、平壌市内の各施設や開城市などを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った[66][67][68]

次世代の党への参加と離党

2014年8月1日の日本維新の会分党に際しては石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に参加[69]。党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。しかし、2014年12月12日に離党届を提出した[70]

日本を元気にする会への参加と解散

2015年1月8日に政党「日本を元気にする会」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。

2015年1月21日にノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイとイギリスで面会し同氏の日本訪問を要請、同氏はこれを受諾した[71][72]。2015年9月17日の安全保障関連法案の採決では所属する日本を元気にする会が直前で賛成に転じたため。自らも賛成票を投じたが、数日前に反対派団体に「慎重な審議を要求したい」という書簡を出していたために、物議をかもした。

2016年6月2日、日本を元気にする会代表の松田公太の辞任と共に、猪木の代表就任が報じられた。2016年7月27日に会派「日本を元気にする会・無所属会」は解散し、猪木は会派「無所属クラブ」に異動した[73]2019年2月25日に国民民主党の院内会派である「国民民主党・新緑風会」に入会した[74]

政界引退

2019年6月5日、第25回参議院議員通常選挙に出馬せず引退する意向を表明した。不出馬の理由は高齢であることや選挙に向けた野党間協定に対する思い等があることを述べた[75][76][77]


  1. ^ a b 2013年(平成25年)7月10日参議院比例代表選出議員選挙選挙長告示第1号「平成二十五年七月二十一日執行の参議院比例代表選出議員の選挙において、政党その他の政治団体から参議院名簿の届出があった件」
  2. ^ a b Antonio Inoki Bio”. WWE.com. 2015年4月1日閲覧。
  3. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 100』P200(1981年、日本スポーツ出版社
  4. ^ 当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。
  5. ^ “アントニオ猪木、イスラム教徒だった 入信のきっかけは「イラクの人質救出」”. J-CASTニュース (株式会社ジェイ・キャスト). (2012年12月30日). https://www.j-cast.com/2012/12/30160003.html 2019年6月26日閲覧。 
  6. ^ Richard Leiby (2012年12月13日). “Wrestling, anyone? Pakistan welcomes back a flamboyant Japanese hero of the ring.” (英語). Washington Post. 2019年7月20日閲覧。
  7. ^ 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社
  8. ^ 長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のある未熟なバナナを食べて死去。
  9. ^ なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。
  10. ^ 『Gスピリッツ Vol.16』P64「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、辰巳出版ISBN 4777808017
  11. ^ a b c d e 『アントニオ猪木 燃える闘魂50年 (上巻)』P28(2010年、ベースボール・マガジン社ISBN 4583616775
  12. ^ ジャイアント馬場一代記漫画「ジャイアント台風」(作:梶原一騎、画:辻なおき)の作中で馬場が「後にアントニオ・ロッカにちなんで、猪木寛至くんに「アントニオ」というリングネームをつけた」と語る場面がある[要出典]
  13. ^ a b NWA World Tag Team Title [E. Texas]”. Wrestling-Titles.com. 2015年4月1日閲覧。
  14. ^ a b NWA World Tag Team Title [Mid-America]”. Wrestling-Titles.com. 2015年4月1日閲覧。
  15. ^ a b c d 『アントニオ猪木 燃える闘魂50年 (上巻)』P30(2010年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583616775
  16. ^ NWA Texas Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年4月1日閲覧。
  17. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.16』P60-61「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808017
  18. ^ プロレススーパースター列伝 アントニオ猪木の項
  19. ^ 知っていれば楽しさ倍増!日本のプロレスの歴史を簡単チェック”. 【SPAIA】スパイア (2016年12月16日). 2020年11月15日閲覧。
  20. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.36』P15-16「『格闘技世界一決定戦』の表と裏」(2015年、辰巳出版、ISBN 4777814998
  21. ^ 試合前に長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、非常に苦しいトーナメントであった。
  22. ^ a b 猪木は一休の言葉として紹介したが、実際には、文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の「道」という詩であったと見られる。[1]
  23. ^ このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を掛けていた。
  24. ^ モハメド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明していた。
  25. ^ 日系アメリカ人では過去にミスター・フジが殿堂入りしている。
  26. ^ ヨシ・タツVに猪木殿堂入り デイリースポーツ 2010年3月30日閲覧
  27. ^ http://www.sanspo.com/geino/news/20121120/sot12112020380001-n1.html
  28. ^ “猪木古希パーティーに豪華メンバー集結” (日本語). 東京スポーツ. (2013年2月21日). http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/110392/ 2013年3月14日閲覧。 
  29. ^ “神様”カール・ゴッチの墓建てる!猪木氏が7・24記念興行 - デイリースポーツ・2017年5月25日
  30. ^ 「整理される訳にはいきません」アントニオ猪木氏から見放されたNEWが開幕戦で存続求める署名活動 - スポーツ報知・2017年6月2日
  31. ^ 猪木氏の「整理発言」で大ピンチ IGFは再び存続を訴えたが… - 東京スポーツ・2017年6月7日
  32. ^ アントニオ猪木氏設立のIGF 猪木夫人に返金訴訟 - 日刊スポーツ・2017年6月28日
  33. ^ 報告 - IGF公式サイト・2018年3月22日
  34. ^ 【INOKI ISM】10・21両国で「猪木生前葬」 - 東京スポーツ・2017年9月15日
  35. ^ ジャイアント馬場没後20年追善興行に猪木、初代タイガー、新間寿、坂口征二、ハンセンらが集結!76歳のマスカラスが空を舞い勝利!新日本vs全日本の全面対抗戦は全日本に軍配?!” (日本語). バトル・ニュース (2019年2月20日). 2019年2月20日閲覧。
  36. ^ アントニオ猪木氏、馬場さん追善興行に登場「私もそろそろ送られ人に…」/デイリースポーツ online” (日本語). デイリースポーツ online (2019年2月19日). 2019年2月20日閲覧。
  37. ^ アントニオ猪木さんが難病「心アミロイドーシス」を告白。症状は?どのような病気?”. マイナビニュース (2020年8月28日). 2021年6月14日閲覧。
  38. ^ a b アントニオ猪木闘病番組が大反響 病名公表、入退院の連続「こんなにも脆い、弱い」 – 東京スポーツ新聞社” (日本語). 東スポWeb. 2021年11月27日閲覧。
  39. ^ 1989年(平成元年)7月29日中央選挙管理会告示第14号「平成元年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」
  40. ^ 議員について:よくある質問:参議院 参議院公式サイト
  41. ^ 参議院会議録情報 第116回国会 予算委員会 第4号”. kokkai.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2019年12月14日閲覧。
  42. ^ 1992年(平成4年)8月3日中央選挙管理会告示第11号「平成四年七月二十六日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」
  43. ^ 当初は公設第2秘書であったが、第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格。
  44. ^ 1995年(平成7年)7月12日参議院比例代表選出議員選挙選挙長告示第1号「平成七年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員の選挙において、政党その他の政治団体から参議院名簿の届出があった件」
  45. ^ アントニオ猪木氏、参院選出馬表明「元気を日本のために」 スポーツニッポン 2013年6月5日閲覧
  46. ^ (平成25年)7月26日中央選挙管理会告示第25号「平成二十五年七月二十一日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における参議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」
  47. ^ 2013年(平成25年)7月31日『官報』第6099号8ページ「議員氏名」
  48. ^ 比例当選のアントニオ猪木氏、北朝鮮訪問へ 読売新聞 2013年7月27日閲覧
  49. ^ アントニオ猪木氏25日訪朝へ 維新幹部「まだ民間人」 朝日新聞 2013年7月27日閲覧
  50. ^ 訪朝の猪木氏、金永南氏と会談 朝鮮中央通信伝える 朝日新聞 2013年7月29日
  51. ^ アントニオ猪木氏25日訪朝へ 維新幹部「まだ民間人」 朝日新聞 2013年7月25日
  52. ^ アントニオ猪木氏、訪朝強行の構え 参院議運は許可せず msn産経ニュース 2013年11月1日
  53. ^ 猪木氏、北朝鮮へ出発…参院の許可なしで強行 読売新聞 2013年11月1日
  54. ^ 猪木氏懲罰動議を可決、参院 山本氏は厳重注意 日本経済新聞 2013年11月13日
  55. ^ アントニオ猪木参院議員:登院停止処分に…無許可訪朝で 毎日新聞 2013年11月21日
  56. ^ 猪木氏、登院停止30日=63年ぶり懲罰決定-参院 時事通信 2013年11月22日
  57. ^ アントニオ猪木氏「言葉控える」 張氏と11月に会談 2013.12.13 22:08産経新聞』 2013年12月13日 12月14日閲覧
  58. ^ (日本語) 猪木氏が平壌入り 16日まで滞在、北朝鮮要人と会談へ”. MSN産経ニュース (2014年1月13日). 2014年1月14日閲覧。
  59. ^ (日本語) 「バカヤローと怒鳴ってやる」訪朝終えたアントニオ猪木氏が吠える (更新 2014/1/22 11:30)”. 週刊朝日(1月31日号) (2014年1月22日). 2014年3月27日閲覧。
  60. ^ (日本語) アントニオ猪木が独白「誰も知らない訪朝の理由」 PRESIDENT 2014年2月3日号”. PRESIDENT Online (2014年3月24日). 2014年3月27日閲覧。
  61. ^ “猪木氏ら維新5議員 連休中の訪朝計画”. MSN産経ニュース. (2014年4月15日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140415/stt14041519480003-n1.htm 2014年8月8日閲覧。 
  62. ^ “猪木氏訪朝の自粛要請 逢沢議運委員長”. MSN産経ニュース. (2014年4月24日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140424/stt14042411250006-n1.htm 2014年8月8日閲覧。 
  63. ^ “猪木氏ら正式に訪朝断念、許可出ず”. MSN産経ニュース. (2014年4月25日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140425/stt14042522370011-n1.htm 2014年8月8日閲覧。 
  64. ^ ““幻”となる維新訪朝団 渡航自粛の壁、遺恨の火種にも”. MSN産経ニュース. (2014年4月23日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140423/stt14042320130009-n1.htm 2014年8月8日閲覧。 
  65. ^ “猪木氏の北朝鮮渡航、問題なし 官房長官”. MSN産経ニュース. (2014年7月7日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140707/plc14070722470011-n1.htm 2014年8月8日閲覧。 
  66. ^ “猪木氏が北朝鮮に出発 「スポーツ交流」…拉致問題も意見交換”. MSN産経ニュース. (2014年7月9日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140709/stt14070913410002-n1.htm 2014年8月8日閲覧。 
  67. ^ “アントニオ猪木氏ら国会議員6人が訪朝 朝・日関係について幅広く意見交換”. 朝鮮新報. (2014年7月14日). http://chosonsinbo.com/jp/2014/07/0714sm/ 2014年8月8日閲覧。 
  68. ^ ““闘魂外交”への風向き変わった!猪木氏に自民党議員もエール”. 東京スポーツ. (2014年7月16日). http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/290186/ 2014年8月8日閲覧。 
  69. ^ 2014年(平成26年)10月3日総務省告示第358号「政党助成法第二十三条第四項の規定による未交付金の交付を受けようとする分割政党の届出があったので公表する件」
  70. ^ 次世代の党:アントニオ猪木氏が離党届 執行部預かりに 毎日新聞 2014年12月18日閲覧
  71. ^ マララさん「日本にぜひ行きたい」 アントニオ猪氏が訪日要請
  72. ^ マララさん父は猪木ファンだった デイリースポーツ 2014年1月23日閲覧
  73. ^ “参院新勢力が確定=舟山氏民進入り、元気解散”. 時事通信. (2016年7月28日). http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072700748&g=pol 
  74. ^ 国民民主、参院で野党第1会派に”. 日本経済新聞 (2019年2月25日). 2019年2月25日閲覧。
  75. ^ 猪木氏が「参院選不出馬」激白 2期12年の政治家人生に終止符 東京スポーツ2019年6月6日付
  76. ^ “アントニオ猪木氏が参院選不出馬「出ない」と明言”. 産経新聞. (2019年6月5日). https://www.sankei.com/politics/news/190605/plt1906050035-n1.html 2019年6月6日閲覧。 
  77. ^ 「もうよぼよぼだ」参院選、猪木氏が不出馬の意向 高齢を理由に” (日本語). 毎日新聞. THE MAINICHI NEWSPAPERS. (2019年6月7日). 2019年6月10日閲覧。
  78. ^ The NWAHW matches fought by Antonio Inoki in 1964”. Wrestlingdata.com. 2015年9月2日閲覧。
  79. ^ The GAC matches fought by Antonio Inoki in 1965”. Wrestlingdata.com. 2015年9月2日閲覧。
  80. ^ All Asia Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年9月8日閲覧。
  81. ^ JWA 1970 The 1st Annual NWA Tag Team League”. Puroresu.com. 2015年9月8日閲覧。
  82. ^ NWA United National Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年9月8日閲覧。
  83. ^ NJPW 1972 Opening Series”. Puroresu.com. 2015年9月2日閲覧。
  84. ^ 古舘伊知郎『弓を引くナックルパート』と表現したこともある。
  85. ^ a b c フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。
  86. ^ 猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる藤田和之は、オーケストレーション・バージョンを入場曲とする。
  87. ^ スマホ時代に着信メロディ復活元年 GIGAエンタメロディ「着信メロディ15年間ランキング」発表 歴代No.1アーティストはEXILE、PRTIMES(株式会社フェイス・ワンダワークス)、2015年1月20日。
  88. ^ アントニオ猪木、2011、「北朝鮮とは対話で勝負しよう!-北朝鮮訪問22回の経験から」、『世界』(2011年12月号 No.824)、岩波書店、ISSN 0582-4532 pp. pp.234-240
  89. ^ 「拉致解決したら幸せになれるのか」 アントニオ猪木氏が特派員協会で独自見解”. ジェイ・キャスト (2013年8月5日). 2013年11月22日閲覧。
  90. ^ A.猪木氏「俺なら命がけで拉致問題を解決してみせる」と宣言 NEWSポストセブン
  91. ^ a b 猪木氏 北朝鮮幹部の“本音”明かす「核実験は米国に向けてのもの」 ライブドアニュース
  92. ^ “金正恩元帥に日本国会参院議員から花かご”. ネナラ. (2016年5月12日). http://www.naenara.com.kp/ja/news/news_view.php?0+95464 2016年6月4日閲覧。 
  93. ^ 新宿・アントニオ猪木酒場がコロナの影響で31日で閉店、最終日に別れ惜しむ(eFight 2020年7月31日)
  94. ^ https://ch.nicovideo.jp/nekketsu/blomaga/ar1104147 サイモン猪木インタビュー
  95. ^ 日刊スポーツ 2006年9月13日
  96. ^ 日刊スポーツ2006年9月17日
  97. ^ 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p32-33
  98. ^ “猪木さんが馬場さんに漏らした一言…渕正信<4>”. YOMIURI ONLINE. (2016年1月28日). http://www.yomiuri.co.jp/life/special/prowres/20160127-OYT8T50058.html?page_no=2 2016年11月27日閲覧。 
  99. ^ 「戦いのロマンと企業戦争」(『G SPIRITS vol.30』辰巳出版、2013年、ISBN 9784777812660)P18の坂口征二による証言
  100. ^ 但し、日本プロレス時代や新日本プロレス旗揚げ当初は緑色や紺色のタオルを首に巻いてリングに上がっていたこともあり、Youtubeなどで視聴出来る猪木の古い映像ではそれが確認出来る。
  101. ^ “猪木氏「闘魂」応援演説ダ~!!”. デイリースポーツ. (2015年4月21日). http://www.daily.co.jp/gossip/2015/04/21/0007940893.shtml 2016年3月21日閲覧。 
  102. ^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.36-37
  103. ^ 桑田佳祐「ただの歌詩じゃねえか、こんなもん」(1984年、新潮社、p215)
  104. ^ アントニオ猪木 Wikipedia「CAに機内で闘魂ビンタ」真相を直撃」『週刊FLASH』2012年3月20日号、光文社、2012年3月、2012年9月17日閲覧。
  105. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 p.67
  106. ^ 『東スポお宝写真館』-1967年11月 東京スポーツ 2013年6月21日付7面
  107. ^ 4度目の結婚も発覚! アントニオ猪木や川越シェフ…実はバツ2以上の芸能人4人!
  108. ^ 猪木妻死去も遺言守り仕事のスケジュール変更せず - 日刊スポーツ 2019年8月28日
  109. ^ 猪木の実兄でブラジル在住の相良寿一が、ブラジル空手道協会の最高師範で、軍の中にも多くの弟子を抱えていたことから、相良を通じて軍隊の協力を得ることができたという。
  110. ^ 『プロレスリング醜聞100連発!!』P90-91 竹内宏介著(1998年、日本スポーツ出版社ISBN 4930943108
  111. ^ “野党よ、こんな国会質問でいいのか 「猪木」「共産党のアイドル」内容が酷すぎる”. 産経ニュース (産業経済新聞社・産経デジタル). (2015年2月16日). https://www.sankei.com/premium/news/150216/prm1502160005-n1.html 2018年10月17日閲覧。 
  112. ^ 100万人に数人の難病…アントニオ猪木が語る「闘って死にたい」 - 女性自身 2020年10月19日
  113. ^ アントニオ猪木、有馬温泉で殺人事件に巻き”. ニュースウォーカー (2016年5月19日). 2016年5月25日閲覧。






固有名詞の分類

日本のプロレスラー タイガースマスク  フラッシュムーン  アントニオ猪木  戸井克成  佐藤耕平
プロレス・トレーナー 神取忍  ピート・セネルシア  アントニオ猪木  トム・プリチャード  成国晶子
WWE殿堂 ファビュラス・ムーラ  デビッド・フォン・エリック  アントニオ猪木  ワイルド・サモアンズ  ティト・サンタナ
新日本プロレスに所属したプロレスラー 安田忠夫  垣原賢人  アントニオ猪木  佐野直喜  越中詩郎
日本プロレスに所属していたレスラー 大熊元司  キラー・カーン  アントニオ猪木  ミスター林  力道山
格闘技の関係者 矢部良  豊永稔  アントニオ猪木  ラウンドガール  レニー・ハート
東京プロレスに所属していたレスラー 北沢幹之  マサ斎藤  アントニオ猪木  大剛鉄之助  大磯武
日本の芸能人 千波丈太郎  白鳥哲  アントニオ猪木  高橋真唯  大村学
日本の実業家 與田尚志  河端作兵衛  アントニオ猪木  舩橋晴雄  青井忠治
神奈川県の政治家 中本太衛  森島守人  アントニオ猪木  沢たまき  岡部三郎

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントニオ猪木」の関連用語

アントニオ猪木のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントニオ猪木のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントニオ猪木 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS