スポーツと平和の祭典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 13:03 UTC 版)
スポーツと平和の祭典(スポーツとへいわのさいてん)は、新日本プロレスがイラクのバグダードで開催したプロレス興行。
概要
1990年、湾岸戦争の危機が叫ばれていたイラクの大統領であるサッダーム・フセインは日本人を含む在留外国人を国外出国禁止として事実上人質とした。日本政府は外務省主導で人質解放交渉を行ってきたが遅々として進まなかった。そんな状況下で人質解放を目指して国会議員であったアントニオ猪木が被害者家族等を率いてバグダードで12月2日と12月3日にイベントを開催。猪木の趣旨に賛同した各国の選手、ミュージシャンたちが参加して初日はアル・シャープ・スタジアムでサッカー、ナショナル・シアターでコンサート、2日目はサダム・アリーナでメインイベントの長州力&マサ斎藤組対馳浩&佐々木健介組戦を含めた全3試合によるプロレス興行が開催された[1]。また、青柳政司による空手のデモンストレーション、河内家菊水丸による河内音頭の披露が行われた[2]。この熱意が実って日本人人質36人、在留邦人5人が無事解放されて、これを契機としてイラク政府は全人質を解放に踏み切った[3]。
脚注
- ^ “アントニオ猪木がイラクで「平和の祭典」人質36人解放に貢献! 青柳政司さんも参加【週刊プロレス昔話】 | BBMスポーツ | ベースボール・マガジン社”. www.bbm-japan.com. 2023年8月31日閲覧。
- ^ ★YouTube『河内家菊水丸公式・岸本家のアーカイブ②湾岸戦争前のイラク・バグダット公演-1』 | 河内家菊水丸オフィシャルブログ「河内音頭」Powered by Ameba
- ^ “祝喜寿アントニオ猪木の伝説検証!(2)カストロとモハメド・アリと湾岸戦争。(原悦生)”. Number Web - ナンバー. 2023年8月31日閲覧。
スポーツと平和の祭典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 03:03 UTC 版)
「河内家菊水丸」の記事における「スポーツと平和の祭典」の解説
1990年、イラクのサダム・フセイン大統領が、イラク国内の在留外国人の出国を禁止したことにより、現地の日本人は事実上の人質となったが、外務省の人質解放交渉は進展をみなかった。そこで同年12月、アントニオ猪木が被害者家族を率いて、イラクでスポーツと平和の祭典を開催するという趣旨のもとイラクへ向かうことになる。 当時の菊水丸のマネージャーが猪木と知り合い、なんばグランド花月での興行を持ち掛け、実現した同年7月の興行の前座で菊水丸が歌ったのが縁であるという。猪木は祭典の日本の伝統音楽の部門を担当し、現地のイラク人や日本人の前で河内音頭を披露した。祭典は結果として無事に終わり、猪木とフセインの協議のすえ日本人人質は戦争が始まる前に解放された。なお、この祭典において菊水丸は大統領から金色の壺を直接手渡されている。 身の危険を覚悟していた菊水丸は、1990年末イラクへ発つ前に生命保険に加入しようとしたが、危険性が高すぎるということで、どの海外臨時保険会社にも断られた。その1か月後の1991年1月に湾岸戦争が始まっている。 フセインが処刑されたとき、処刑されたのは本物のフセインなのか否か(フセインに整形した影武者ではないか)と議論になったが、各メディアの取材に対して菊水丸は「間違いなく本物です」と答えている。 イラク滞在中にはバビロンの遺跡も見学した。
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