イラク在留邦人人質解放までの真相とは? わかりやすく解説

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イラク在留邦人人質解放までの真相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 23:07 UTC 版)

アントニオ猪木」の記事における「イラク在留邦人人質解放までの真相」の解説

1990年平成2年湾岸戦争危惧される中、イラクサッダーム・フセイン大統領は、在留外国人国外出国禁止事実上人質)とした。その中に多く日本人含まれており、安否気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉遅々として進まなかった。 解決糸口さえ見えない外務省人質交渉痺れ切らした猪木は、被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行うため、バグダードに向かうということ決断する猪木に対して外務省イラク行き止めるよう説得するもこれを拒否。すると今度人質被害者家族対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうして猪木議員イラクに行く場合は、……それはあなた方含めて命の保証が無いという意味です」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省動かないために、猪木全て託すことにしたのである1990年平成2年11月猪木日本の各航空会社イラクへの出航要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社拒否してきたことでイラクへの直行便計画暗礁に乗り上げたやむなく猪木は、園遊会会場当時駐日トルコ特命全権大使懇願したところチャーター機費用猪木個人負担することが条件で、トルコ大使仲介によりトルコ航空協力バグダード入りが可能となった1990年平成2年12月1日平和の祭典関係者人質被害者41家族46と共にトルコ経由バグダード入り果たした。この時サッダーム・フセイン大統領は、一国会議員しかない猪木国賓級の扱い迎えたという。 イラクでのスポーツと平和の祭典邦人人質中心に人質被害者家族イラク観衆会場中心に向き合う中で始まり12月2日3日両日渡り、ロックコンサートと、日本大太鼓初めとする伝統芸能空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典成功を収める一方イベント開催中に家族面談許されたものの解放までには至らなかった。 焦り落胆の中、帰路に着くべく機中着いた時、フライト直前猪木イラク政府から「大統領からお話あります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機降り、この結果まず12月5日在留邦人解放決まり7日には人質全員解放決定する猪木はかつて新日本プロレスパキスタン遠征において、格闘技英雄アクラム・ペールワン対戦し腕を折るなどして勝利を収める一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木国王並んで国民挨拶をする姿が当地マスメディア大きく紹介された。その後パキスタン人ジャーナリストフマユン・A・ムガール計らいにより4度パキスタン遠征行いパキスタンでは毎年12月8日猪木の日として登録されている。

※この「イラク在留邦人人質解放までの真相」の解説は、「アントニオ猪木」の解説の一部です。
「イラク在留邦人人質解放までの真相」を含む「アントニオ猪木」の記事については、「アントニオ猪木」の概要を参照ください。

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