イラク共和国の成立から湾岸危機まで(1958~1990年)
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「日本とイラクの関係」の記事における「イラク共和国の成立から湾岸危機まで(1958~1990年)」の解説
1958年の革命によりイラクは一転して東側陣営になったものの、日本との友好関係は継承された。1960年1月、在イラク日本公使館が大使館に格上げ。同年、在日イラク公使館も大使館に格上げされた。1963年2月8日、王政打倒のクーデターの立役者で約4年半ほど権力の座にあったアブドルカリーム・カーシム首相がクーデターに遭って失脚、翌日に処刑される。以後、1968年7月17日にバアス党による無血クーデターが起こってバアス党による一党独裁体制が確立するまで、バアス党とアラブ民族運動(アラビア語版、英語版)の二派を中心とした権力闘争が続くが、いかな凄惨な権力闘争であろうとも、それがイラク国内にとどまる限りは日本との関係を阻害する要因とはならなかった。この間、1964年9月7日には日本とイラクとの間で貿易協定が発効し、1968年5月7日には司法共助取極が発効している。 1968年7月にイラクでバアス党による一党独裁体制が確立したが、この頃から日本とイラクの関係は際立った強化を見せ始めた。1970年代には両国の間で3つの協定が結ばれ、1974年11月11日に技術協力協定が発効、1979年3月7日に文化協定と航空協定が発効した。民主主義体制の日本と一党独裁体制のイラクとでは価値観が相容れないようにも見えるが、1973年と79年の石油危機により産油国イラクとの関係強化が急務となっていた日本と、1968年に世界第二の経済大国に躍り出たばかりの新興国日本(その後、2009年まで約40年に渡って2位を維持)との経済協力や技術協力を必要としていたイラクとの間で、利害が一致したのである。 1979年にイラクの隣国イランで革命が起こって王制が倒れ、イスラム共和国が成立すると、同年11月に首都テヘランのアメリカ大使館に暴徒が乱入してアメリカ人を人質に取る事件が起こるなど、ホメイニー師率いるイランはアメリカとの敵対姿勢を露わにした。1980年4月、アメリカはイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。また、少なからぬシーア派住民を抱える湾岸諸国にとっても、イランの革命の輸出による王制転覆は考え得る最悪のシナリオであった。去る1979年7月17日にイラクの大統領に就任したばかりのサッダーム・フセインは、こうしたアメリカや湾岸諸国の反イラン感情を奇貨として、1980年9月22日、イランに対して戦争を仕掛けた。サッダーム大統領の目論見は図に当たり、アメリカと湾岸諸国からの支援はもとより、ソビエト連邦やヨーロッパ諸国からも支援を得ることに成功した。日本も引き続き戦時体制のイラクとの交流を保ち、民間企業の住友商事なども現地の拠点を引き揚げずに商売を続けていた。イランとイラクの戦争は1988年8月20日まで続いたが、この8年弱に渡る戦争を仕掛けたサッダーム大統領が国際的に糾弾されることはなく、日本とイラクの関係もまた良好なものであり続けた。1989年1月、昭和天皇が崩御。イラクからは、マアルーフ副大統領、ザハウィ上級外務次官、アルリファイ駐日大使及び夫人の4名が大喪の礼に参列した。
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