文禄・慶長の役
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朝鮮出兵においては小早川隆景率いる六番隊として渡海し、全羅道の攻略を担当。占領地の支配も行った。この間、「夏に酒を冷やす蔵まである」と朝鮮の兵糧の豊かさに驚嘆する文書を送ったり、現地の子供を集めいろはを教え、髪型を日本風に変えさせ召し使うなどの活動が散見する。戦闘にも参加しており、忠清道で決起した趙憲・霊圭らの私軍を立花宗茂とともに錦山に撃破し、両名を討ち取っている。
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文禄・慶長の役
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万暦20年(1592年)文禄の役が始まると、副総兵として四川兵を中心とする5,000の家丁を率いて朝鮮へ来援し、万暦21年(1593年)4月末に鴨緑江を渡って本隊と合流した。この頃、既に日本軍は漢城から南方へ退いていたため、劉綎・査大受・祖承訓らは尚州の鳥嶺を通り、大丘から忠州まで進出した。この頃、日本側が第2次晋州城の戦いにより活発に作戦して全羅道に迫った事に対応して、総兵の李如松は南原に李平胡・査大受、咸陽に祖承訓・李寧、陜川に劉綎を配置して守備させた。その後、戦局は和平交渉のために膠着した。9月に明朝廷は宋応昌と李如松を帰国させたが、劉綎(副総兵)・呉惟忠(遊撃)ほか7600人を朝鮮に駐留させ、劉綎の軍は朝鮮陸水軍も指揮下に入れて日本軍と対峙した。万暦22年(1594年)春には、明側の沈惟敬-小西行長のラインとは別に劉綎から朝鮮僧の惟政を介して加藤清正に別ルートで交渉を行っている。その後、劉綎が一時帰国するのは万暦22年(1594年)7月9日のことだった。宋応昌の帰国により朝鮮軍務経略が顧養謙になると両名は前後して帰国した。 休戦期も朝鮮に留まり、慶長の役では総兵に昇進して三路のうち西路軍の大将として、万暦26年(1598年)順天倭城の戦いにおいて水軍を率いた陳璘と共に水陸から順天城を攻撃したが被害を多く出して敗退した。三路のうち東路軍も第二次蔚山城の戦いで日本軍に撃退され、中路軍に至っては泗川の戦いで大敗を喫し壊滅的被害を受けていた。しかし、豊臣秀吉が死去したことにより撤退命令が小西ら日本軍に伝えられると、再び順天倭城を包囲したが、守将の小西らと劉綎は和議を結び、劉綎は一族の劉天爵を日本軍に人質として送り撤退を促した。日本軍が撤退した後、劉綎は無人の順天倭城を接収した。
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文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)
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「日朝関係史」の記事における「文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)」の解説
ファイル:Gyeongbokgung map.jpg 朝鮮国王の住む景福宮の想像復元図。宣祖の逃亡で起きた朝鮮民衆の蜂起によって放火掠奪され、約270年後に興宣大院君が再建した 日本を統一した豊臣秀吉は中国の明の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めた。対馬の宗義智は、秀吉の命令を変えて、朝鮮には秀吉の天下統一を祝賀する朝鮮通信使を送ってほしいと要請した。こうして約150年ぶりに通信使が派遣されて秀吉に謁見したが、秀吉は対馬が命令を変えたことを知らないために、李朝が降伏しに来たと錯覚した。秀吉は朝鮮国王に対して明の征服を先導するように求める書を渡す。 李朝には、通信使の派遣前から秀吉の朝鮮侵攻の噂が伝わっていた。そのため通信使の目的は、名目上は秀吉の日本統一を祝いつつ、噂の真偽を確かめることだった。しかし、通信使の正使黄允吉と副使金誠一は、それぞれ西人党と東人党という異なる党派に属して対立関係にあった。西人党の黄允吉は侵攻があると報告し、一方で東人党の金誠一は侵攻はないと報告をした。当時の李朝では東人党が力を持っており、金誠一の意見が採用された。のちに日本軍が一気に進軍できたのは、この誤情報も一因とされる。文禄の役ののちに通信使をつとめた黄慎は、関白は人臣であるため礼分の面では対等ではないが、天皇は政治に無縁であると観察した。 秀吉は明に行くために朝鮮半島を通行する要求を行ったが、李朝から良い回答がなかったため、朝鮮半島を攻撃した(文禄・慶長の役)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌や咸鏡道まで進撃したが、伸びた戦線に対して義勇軍の抵抗を受け、李朝が宗属している明軍も参戦する。戦争の長期化を望まない小西行長などの領主がおり、明との講和交渉を優先させて、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。秀吉の死去にともない日本軍が撤退して終戦となり、日本と中国・朝鮮軍との間で展開したこの戦争は16世紀東アジア最大の戦闘ともいわれる。交戦と治安悪化、食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。 文禄・慶長の役で荒廃した朝鮮半島の様子は、日本軍に従軍した僧の慶念による『朝鮮日々記』や、興福寺の僧による『多聞院日記』にも書かれた。
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文禄・慶長の役(1592 ~ 1598)
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「倭城」の記事における「文禄・慶長の役(1592 ~ 1598)」の解説
1592年4月、文禄・慶長の役開戦直後、釜山に上陸した日本軍は補給拠点を設けるため、釜山倭城を築造した。 同年11月、平壌を占領した小西軍が平壌に倭城を築城し、浮田は漢城の南である南山には倭城を築城した。 しかし、翌年1月、朝明連合軍の反撃に追われ始めた日本軍は、1593年5月から現在の慶尚南道海岸一帯に約20カ所の倭城を築造した。 文禄・慶長の役講和交渉が決裂し、再侵攻してきた日本軍は、これまで築城していた倭城を再び占拠し、日本の水軍は熊川倭城を占拠して根拠地とした。 この当時、日本軍は占領地を確実に確保するとともに、日本本土との連結のため、従来の築城した海岸一帯の倭城を補修し、東は蔚山、西は順天まで戦線が拡大し、この一帯にも倭城が新たに築城された。 倭城の一覧を示す(ほぼ北から順)。 番号砂塵名称とき築城守備所在地管理者(団体)兵力参照1 訥次倭城(Nulcha Waeseong) 1592年 第6軍 毛利輝元第6軍司令官 小早川隆景 第6軍司令官 小早川隆景第6軍 毛利秀包 立花宗茂 島津忠恒 日本軍 釜山広域市 江西区 訥次洞 山84-7 江西区 訥次倭城(2008年 発掘, 韓国文物硏究院)加徳島倭城 2 加徳支城(加徳島倭城支城) 1593年 第4軍 高橋元種第6軍 筑紫広門 立花宗茂 毛利秀包 立花直次 釜山広域市 江西区 城北洞 山43 江西区 城北倭城 3 加徳島城北倭城(Seongbuk Waeseong) 1593年 第6軍司令官 小早川隆景 左軍総大将 小早川秀包立花統虎 釜山広域市 江西区 城北洞 山43, 53, 52番地 江西区 4 機張城(機張 竹城里倭城)(Waeseong in Jukseong-ri, Gijang) 1593年 第3軍司令官 黒田長政 父子 黒田孝高 第2軍司令官 加藤清正 釜山広域市 機張郡 機張邑 竹城里 601 機張郡 33,000人 竹城里倭城, 豆毛浦倭城 (2002年 発掘)釜山広域市 記念物 第48号 5 金海 竹島倭城(Gimhae Jukdo Japanese Castle) 1593年 第2軍 鍋島直茂 鍋島勝茂 父子 第2軍 鍋島直茂 釜山広域市 江西区 竹林洞 787番地 一円 江西区 駕洛城, 竹島城, 金海倭城(2004年 発掘)釜山広域市 記念物 第47号 6 亀浦倭城(カードカイ城)(Gupo Japanese Fortress) 1593年 1次第6軍司令官 小早川隆景(責任)第6軍 筑紫広門 立花宗茂 立花直次 毛利秀包2次友軍司令官 毛利秀元 2次第3軍司令官 黒田長政 釜山広域市 北区 徳川第1洞 山93番地 釜山広域市 北区 5,000人 甘同浦城, 義城(2002, 2004年 発掘)釜山広域市 記念物 第6号 7 金海 農所倭城址(Nongso Waeseong) 1593年 第2軍 鍋島直茂 父子 慶尚南道 金海市 酒村面 農所里 山22-5 農所公民館 5,000人 農所倭城神々倭城(2001年発掘), 竹島倭城の知城2001年(慶南文化財研究院) 8 馬沙倭城址(Masa Waeseong) 1593年 第2軍 鍋島直茂 父子 慶尚南道 金海市 翰林面 金谷里 山61-2 金海市 5,000人 土城, 竹島倭城の 知城 9 東萊倭城(東萊邑城址)(Dongnae Waeseong) 1593年 領主 吉川広家 第1軍司令官 小西行長 釜山広域市 東萊区 漆山洞 1-9 東萊区 釜山広域市 記念物 第5号『大東地志』 城池 甑山城 倭人所築. 10 東三洞倭城 1593年 第6軍 毛利輝元 釜山広域市 影島区 東三洞 188 椎木島倭城, 影島倭城東三洞倭城, 椎木島城, 絶影島 椎木島丹城 11 釜山鎮城(丸山城, まるやまじょう)(Busanjinseong) 1593年 第6軍 毛利輝元 父子友軍司令官 毛利秀元奉行 浅野長政(慶長の役の際に収縮·増築) 第6軍 毛利輝元 父子 釜山広域市 東区 子城路 99 (凡一洞) 釜山広域市 東区 18,700人 釜山広域市 記念物 第7号子城台倭城小西城、丸山城、釜山倭城の 支城 12 西生浦倭城(Seosaengpo Japanese Fortress) 1593年 第2軍司令官 加藤清正 第3軍司令官 黒田長政 蔚山広域市 蔚州郡 西生面 西生里 711番地 一円 蔚州郡 100,000人 蔚山広域市 文化財資料 第8号烽火城(2012年 発掘) 13 林浪浦倭城(せいぐわん城)(Imnangpo Japanese Fortress) 1593年 第4軍司令官 毛利勝信第4軍 島津豊久 伊東祐兵 高橋元種 秋月種長 第4軍司令官 毛利勝信第4軍 島津豊久 伊東祐兵 高橋元種 秋月種長 釜山広域市 機張郡 長安邑 林浪里 山48 機張郡 せいぐわん城発掘調査 : 2001年 14 永登倭城址(Yeongdeungpo Waeseong) 1592年 第4軍 島津義弘 父子 慶尚南道 巨済市 長木面 舊永里 山6-17番地出城: 長木面 舊永2道 34番地 巨済市 2,000人 唐島城, 永登倭城永登浦倭城舊永登倭城 15 松真浦倭城(Songjinpo Waeseong) 1593年 第5軍司令官 福島正則第5軍 戸田勝隆 長宗我部元親 慶尚南道 巨済市 長木面 長木里 山6-3 巨済市 甑城幼名: Jisepo慶尚南道非指定文化財 16 巨済 長門逋 倭城(Geoje Jangmunpo Castle) 1594年 11月 第5軍司令官 福島正則第5軍 蜂須賀家政 生駒親正 戸田勝隆 第5軍 長宗我部元親 生駒親正 慶尚南道 巨済市 長木面 長木里 130-43番地 巨済市 慶尚南道 文化財資料 第273号長木倭城軍港浦倭城 17 昌原 子馬山城(Jama Japanese Fortress) 1593年 第1軍 宗義智 慶尚南道 昌原市 鎮海区 城内洞 山15 昌原市 子馬倭城熊川倭城の支城 18 昌原 明洞倭城(Myeongdong Japanese Fortress) 1593年 第1軍 松浦鎮信 宗義智 慶尚南道 昌原市 鎮海区 明洞 山13 昌原市 熊川倭城の支城 19 昌原 安骨倭城(Angol Japanese Fortress) 1593年 水軍 脇坂安治 加藤嘉明水軍司令官 九鬼嘉隆 慶尚南道 昌原市 鎮海区 安骨洞 山27番地 外 昌原市 慶尚南道 文化財資料 第275号日本第一水軍基地(倭水軍第1基地、2009年発掘·東洋文物研究院)熊川 安骨倭城 20 昌原 熊川倭城(Ungcheon Japanese Fortress) 1593年 第1軍司令官 小西行長第1軍→ 宗義智大名 上杉景勝 慶尚南道 昌原市 鎮海区 南門洞 山211-1番地 昌原市 5,000人 慶尚南道 文化財資料 第79号南山倭城. 日本第二水軍基地(倭水軍第2基地) 21 迫門口倭城 1593年 7月 第6軍 毛利輝元 小西行長 部下 釜山広域市 中区 中央洞 Japanese castles in Busan (Korea) Sengoku Forum'迫門口' 22 梁山 架山里 孤浦倭城址(Hopo Waeseong in Gasan-ri, Yangsan) 1593年 日本軍 慶尚南道 梁山市 東面 架山里 山52-4, 山57梁山市 東面 湖浦路 26梁山市 東面 架山里 1120-6(梁山川下流の京釜線の下、)梁山市 東面 架山里1026-1, 1027-26, 1028-11梁山市 東面 架山里 1045-1 国有 孤浦城址文化財管理局、1977、『文化遺跡総覧』(文化財管理局、1977、「文化遺跡総覧」) 23 固城邑城(Goseong Japanese Fortress) 1597年 領主 吉川広家 桂元綱 第2軍 鍋島直茂 慶尚南道 固城郡 固城邑 城内里、西外里、水南里 一帯固城倭城: 固城邑 城內路136番道 42 固城郡 7,000人 慶尚南道 文化財資料 第89号固城倭城, 水南里倭城固城倭城は固城邑水南里64-1番地一帯に位置する。築城時期は丁酉再乱の時の宣祖30年(1597年)と宣祖31年(1598年)、吉川広家らによって築城された。固城邑城の南方の雪上に突き出たそごう地に築城した城で、固城邑城と接している。築城法は、日本式築城で最も高い場所に本丸があり、西側の本丸より低いが、規模が少し大きい2環が確認されており、本丸の東部から南部にへし折って大郭があるが、これが三環である。現在も本丸と2環、3環の両方が確認されており、城のかなりの部分が残存している残った本丸は傾斜度70度ほどで、倭城の築城方法を示しており、石材は自然石を用い、隙間には小さなくさびを入れた。 24 見乃梁倭城 1597年 第1軍 宗義智脇坂 安治辛島瀬戸口 柳川調信 慶尚南道 巨済市 沙等面 徳湖海岸道 147-1 . 倭城洞倭城, 廣里倭城, 土城見乃梁倭城3Dモデルの図案のみ残っている状態1593年に日本軍が朝鮮の水軍を制御するために築城した城で、1592年、豊臣秀吉は脇坂安治に巨済島に城を築城し、朝鮮の水軍に対する守備を堅固にしろ」と指示したという。本土から巨済に入る関門である堅内梁海岸沿いに位置し、日本軍が南海岸に築城した本城11ヶ所と支城7ヶ所のうち、一つの知性に見えたという記録がある。 25 南海 船所倭城(Namhae Castle) 1597年 水軍 脇坂安治第1軍 宗義智 第1軍 宗義智 慶尚南道 南海郡 南海邑 船所路 149 南海郡 1,000人 慶南発展研究院 歴史文化センター, 2004『文化遺跡分布地図-南海郡-』.高田徹, 2000, 「南海倭城の繩張り」 『倭城の硏究』4城郭談話會. 堀口健貳, 2005「畝狀空堀群を持つ倭城について」 『愛城硏報告, 愛知中世城郭硏究會』.南海倭城 26 釜山日本城(Busan Japanese Fortress) 1598年 第6軍 毛利輝元第1軍司令官 小西行長 左軍総大将 小早川秀包 釜山広域市 東区 凡一洞 釜山広域市 東区 史跡 第35号 (解紙)『增補文獻備考』21) 釜山浦城 甑山城 備局謄錄 並有倭人. 27 馬山日本城(Masan Japanese Fortress) 1597年 招待 伊達政宗第2軍 鍋島直茂 鍋島勝茂 父子 慶尚南道 昌原市 馬山合浦区 龍馬山道 142(山湖洞) 昌原市 12,000人 史跡 第36号(解紙)昌原倭城, 龍馬城『大東地志』 城池 江馬山城 倭人所築.『增補文獻備考』 舊江馬山城 備局謄錄 並有倭城. 28 泗川船津里城(Waeseong in Seonjin-ri, Sacheon) 1597年 第4軍司令官 毛利勝信第4軍(左軍) 島津義弘大名 池田景雄武将 中川秀成 立花直次 第4軍(左軍) 島津義弘第4軍司令官 毛利勝信第7軍 毛利輝元 慶尚南道 泗川市 龍見面 船津里 770番地 外龍見面 船津里 1082 一円 泗川市 10,000人 慶尚南道 文化財資料 第274号船津里倭城(2005年 発掘) 29 順天倭城(Suncheon Castle) 1597年 第1軍司令官(左軍) 小西行長(先鋒)総大将 兼 第7軍司令官(左軍司令官) 宇喜多秀家(先鋒)水軍 藤堂高虎(先鋒) 第1軍司令官(左軍) 小西行長水軍 藤堂高虎 全羅南道 順天市 海龍面 新城里 山1番地 外 順天市 13,700人 全羅南道 地方記念物 第171号(1999年2月26日指定)倭橋城、礼橋城(2001、2002、2004年 発掘) 30 勿禁 甑山里 倭城(Waeseong in Jeungsan-ri, Yangsan) 1597年 第3軍司令官(友軍) 黒田長政大名 伊達政宗第7軍 毛利輝元左軍総大将 小早川秀包 第3軍司令官(友軍) 黒田長政 黒田孝高 慶尚南道 梁山市 勿禁邑 曾山里 山15 梁山市 慶尚南道 文化財資料 第276号甑山里倭城日本による植民地時代朝鮮総督府宝物古跡名勝天然記念物昭和14年古跡指定台帳指定日本による植民地時代朝鮮総督府(宝物古跡名勝天然記念物 昭和14年古跡指定台帳指定) 31 蔚山倭城(Ulsan Japanese Fortress) 1597年 12月 第2軍司令官(友軍) 加藤清正第8軍 浅野幸長(公社)友軍司令官 毛利秀元(公社)監察官および監督(武士) 太田一吉部長 宍戸元続 加藤淸兵衛加藤安政大河内秀元 第2軍司令官(友軍) 加藤清正 蔚山広域市 中区 鶴城公園3道 54、一円(鶴城洞) 蔚山広域市 中区 16,000人 蔚山広域市 文化財資料 第7号(1997年10月30日指定)鶴城, 島山城(1985年 発掘)太田一吉
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文禄・慶長の役
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天正20年(1592年)から始まる文禄の役では1,500の兵士を率いて朝鮮に出兵。全羅道攻略の際、大鼓城の攻城でも一番旗の戦功を挙げた。碧蹄館の戦いでは明将・李平胡の襲撃を受けても、隆景・立花宗茂と共に明軍を撃破している。のち幸州山城の戦いにも参戦した。それらの戦功により筑後久留米のまま5万5千石を加増されて13万石となり、筑後守に叙任された。 また第二次晋州城攻防戦では、攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥金命元・平安巡辺使李薲・全羅巡察使権慄・全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将李継鄭・鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが、日本軍先鋒隊の立花宗茂と高橋統増と小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法を連携してこれを敗走させた。部分の朝鮮軍は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入る。よって日本軍は昌原より咸安・宜寧を通過して晋州城へ進軍した。 『問註所家譜』により文禄2年(1593年)9月2日、問註所統景・問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって明の劉綎と晋州城外西南方二十里の河東郡に遭遇し以下数百兵は戦死した、立花宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る。 文禄3年(1594年)、秀吉の養子の木下秀俊(後の小早川秀秋)が隆景の養子となったために廃嫡され、別家を創設する。慶長2年(1597年)から始まる慶長の役においても参戦。竹島城と星州谷城で防戦し、大いに手柄を立てた。 慶長3年(1598年)11月18日、秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、秀包は立花宗茂・高橋直次・島津義弘・宗義智・寺沢広高・筑紫広門 (主水正)らと共に水軍を編成して救援に向かい、陳璘率いる明水軍や李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い(露梁海戦)、自ら愛用の鉄砲を持って敵と激戦した。 慶長4年(1599年)頃に秀直(ひでなお)、慶長5年(1600年)には秀兼(ひでかね)と改名した。
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文禄・慶長の役
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文禄元年(1592年)からの文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。年末には京畿道竹山の守備についた。 この後、正則はいったん日本に帰国し、文禄3年(1594年)1月に再び朝鮮に渡った。講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。10月、朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した。 文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという事件が起こった。この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えている。同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。 慶長3年(1598年)、羽柴の名字が確認される。青木重吉に同じく羽柴名字・豊臣姓を与えられ、侍従任官によって諸大夫から公家成したのである(青木氏と福島氏は羽柴氏の親戚の家であった)。 続く慶長の役には参加しなかった正則であったが、慶長4年(1599年)に秀吉は朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として石田三成と増田長盛とともに抜擢されていた。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、この計画は実施されることなく日本軍は大陸から撤兵した。
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文禄・慶長の役
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文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。 出兵前年の天正19年(1591年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している。肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が、1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いであった。清正の家臣の中には新参の家臣が多く、実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数であった。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となった。 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。だが、清正の本意は秀吉の意向が明本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないという考え方で、日本側が取った八道分遣策には批判的であった。 清正の危惧通り、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまう。一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けたため、一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている(反対に、この時期以前に清正と彼らの不仲を裏付ける一次史料は存在していない)。 更に清正は朝鮮の国境である豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻した(加藤清正のオランカイ侵攻(英語版))。しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き揚げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣した。日本軍の去った咸鏡北道では朝鮮人の義兵が決起して吉州を攻撃したが、これを撃破する。その後、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ、咸鏡道を引き払い漢城に入った。文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久と飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になると見て、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正は京に戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。しかし、この帰国に関しては講和進展と明使の来日に伴う軍の一部撤退による帰国であるとする説も出されている。その後、慶長伏見地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許されたとされる「地震加藤」の逸話があるが、この話も清正が地震の2日後に領国に送った書状の中に秀吉一家の無事とともに、「(自分が無事だったのは)伏見の屋敷が完成していなかったから」「(地震の為に)京から胡麻を取り寄せて領国に送るのが遅くなる」とあることから、清正がいたのは(伏見でも京でもなく)大坂であったことが推定され、清正が大坂から伏見の秀吉の許に駆けつけた可能性はあっても、真っ先に駆けつけたとする逸話は史実ではなかったことが明らかとなっている。 一方、名護屋城の築城以来、清正領国を含めた九州各地は、朝鮮での軍役やその軍勢を維持するための物資調達で多大の負担を強いられ、不穏な動きを見せ始めていた。文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣である梅北国兼が清正の支城の1つ佐敷城を奪う梅北一揆が発生する。一揆は間もなく鎮圧されるが、人夫としての動員や徴税、その他の物資徴発に由来する過大な負担は家中や領民を動揺させた。文禄2年8月、釜山郊外の西生浦倭城にいた清正が冬に備えて留守を守る重臣に対して51か条に及ぶ物資調達を督促する書状を出している。ただ、この時の調達に国元は難渋した模様で、翌文禄3年4月には早くも冬に備えた物資調達とともに、重臣達の怠慢を叱責する書状を送っている。徴税時や人夫動員時には、あらかじめ百姓を人質を取ったり、逃亡した人夫を出した村に対しては日割りで欠員期間の夫銭を徴収するなどの制裁措置を取ったりすることで、未進や逃亡の阻止を図った。そして、領内では一部の加藤家家臣を巻き込む形で百姓の動員拒否や逃亡の動きが盛んになる。ついには、肥後本国の百姓が朝鮮に陣夫として連れて来られた百姓に対して「今なら集団で肥後に逃げ帰っても、代官たちが百姓改めをしないから村に戻るなら今のうちだ」という内容の書状を送り、清正がそれを見つけてしまう事件まで発生したのである。文禄2年2月14日付で秀吉が肥後に残った加藤家の重臣に対して直接朝鮮半島から逃げ帰った百姓の取締を命じる朱印状を発給しているのも、清正ら九州諸将の留守の領国における不穏な動きに対応した措置とみられている。また、この時期の清正は財政難の克服や軍需品の調達を意図してルソンに貿易船を派遣して、日本では米に比べて廉価であった麦類を輸出して硝薬などの軍需品を輸入しようとしたが、朝鮮出兵によってルソンの軍事的緊張が高まり、思うように成果が上がらなかった。 慶長2年(1597年)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。しかし敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けなかった。 日本軍の作戦目標は先ず全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道へも進撃することと、その達成後は後退して拠点となる城郭群を建設することであった。西生浦倭城を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出し、ここに最初の作戦目標を達成した。 日本軍の諸将は築城予定地まで後退。清正は西生浦倭城の東方に新たに築城される蔚山の地に入り、自ら縄張りを行った後、加藤安政等を配備して西生浦倭城に移った。蔚山倭城の建設は帰国予定の浅野幸長と宍戸元続等の毛利勢(毛利氏は他に梁山倭城の築城も担当)が担当した。清正は西生浦倭城に加え蔚山倭城の守備担当であった。 慶長2年(1597年)12月、完成が間近に迫った蔚山倭城へ57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で、毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、この戦いを明・朝鮮軍に20,000人の損害を与える勝利へと導いた。この当時の朝鮮における明軍の総司令官であった楊鎬は、勝利と偽って本国に報告したが、惨敗したことがばれ、解任された。 慶長3年(1598年)9月、再び蔚山倭城は攻撃を受けるが、この時には城も完成しており、前回ほど苦戦せずに撃退した。 清正は朝鮮の民衆から「鬼(幽霊)上官」と恐れられた。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承(本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている)が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。 京都市北区の大徳寺総見院には清正が持ち帰ったとされる石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸が残る。
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文禄・慶長の役
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文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られている。戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い、東萊城の戦い、尚州の戦い、忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退した。この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。 行長は休戦期日を過ぎても講和交渉の明側の返答を待ち続けていたが、この間、明では李如松率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向かって進行していた。文禄2年(1593年)1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで退却する。同年5月に島津忠辰が仮病を使って出陣を拒否し、改易された際には身柄を預かるなど、国内でも活動した。 漢城周辺の日本軍は、進撃してきた明軍を碧蹄館の戦いで破った(このとき行長軍は漢城に駐留)。その後、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍(朝鮮半島の山がちな地形は荷駄による輸送が大変なうえ、朝鮮側からの度重なるゲリラ攻撃で兵糧が不足していた)との間に講和交渉が開始される。行長は石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとしたといわれる。だが、秀吉の条件は朝鮮南四道の割譲など到底受け入れられるものではなかったため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長・石田三成らは、惟政らに秀吉の講和条件を伝えた清正が講和の邪魔になると見て、彼を秀吉に讒訴。清正は京に戻され謹慎となる。その後、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に向かい、交渉を行っている。 この結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。冊封の内容はアルタン・ハーンのものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するものであった(秀吉の王冊封以外にも宇喜多秀家、小西行長、増田長盛、石田三成、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、前田利家、徳川家康、上杉景勝らが地方の都督指揮に任じられる。この意図としては、豊臣陣営が明との貿易再開のお墨付きをもらい交易することで、徳川方に財力で差をつけ、豊臣の世を維持しようとしたもの)。しかし、これは明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何ら含まれないものだった。これを秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。このため講和は破綻し、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。 慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び出兵を命じられ、特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加後、全州を占領し全羅道方面を制圧した後、順天倭城に在番。翌慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて行われた順天倭城の戦いでは、戦いに先立って明将・劉綎から講和が持ちかけられ、行長はこれに応じて交渉に臨もうと城を出たが、これは行長を捕縛しようとする明側の謀略であった。この謀略は明側の不手際のため寸前のところで窮地を脱し城内に駆け込んで籠城することができた。続いて明・朝鮮軍による水陸からの攻撃が開始されたが、これを撃退する。その後、秀吉死去による帰国方針が伝えられ、明軍と交渉して円滑な帰国を認める旨の同意を取り付けた。しかし、朝鮮水軍の李舜臣の反対で、海上封鎖による帰国妨害が続けられたが、立花宗茂、島津義弘等の救援により無事帰国することができた。 そもそもこの戦は、国内と違い、前へ進むたびに民衆が敵となることから、海外での戦は難しく、たとえ戦で勝っても明という大国を平定していくことの非現実性を行長たちは肌で感じていた。 なお、文禄の役の際の進軍、戦闘の模様は従軍僧・天荊の『西征日記』に詳しく記されている。
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