日本書紀 暦

日本書紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 08:25 UTC 版)

『日本書紀』は紀年・暦日を有する史書であり、日本書紀上の紀年は原則として天皇の即位年を太歳干支によって示す[77]。太歳とは天球上で木星の線対称点に存在するとされた架空の天体である。木星は約12年で軌道を一周するため、1年に天球を12分の1だけ移動する。このため、十二次に分割された天球上の木星の位置によって年次を示すことが可能であった。さらに木星を基準とした場合、方角が十二辰と逆になるため、これを合致させるために架空の天体、太歳が考案された(詳細は太歳十二辰を参照)。さらに十二辰を表すのに使われる十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)と十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、中国では代より、10日ごとに日を区切ってとしていた)を組み合わせて六十干支を作り、これによって年を表した。例えば応神天皇の即位の年は「太歳庚寅」といった具合である。ただし神武天皇の太歳は即位年の辛酉には記されず、東征開始の年である甲寅に記されるなど若干の異例がある[注 8]。この書法は『日本書紀』独特であるが、継体天皇25年(531年)に引用される『百済本記』に「太歳辛亥」とあることから、これに倣ったことが考えられる。

歴史について語る際に年月日を付して時間的認識、「いつ」のことであるのかを明らかにするのは現代的感覚では普通のことであるが、古代においては必ずしもそうではなかった。『日本書紀』と同じく天皇の即位に関わる情報を記録する『古事記』には同様の天皇の即位記事において年代を提示しない[78]。そのため、年次を明確化する意図を持って書かれていることは『日本書紀』を『古事記』と比べた場合の大きな特徴である[77]

暦法

一定の法則によって時間を区切り年月日を数え(暦法)、それによって構築されたカレンダー(暦表)、またその方法論を暦という。『日本書紀』が紀年・暦日を有し、時間を明示していることは即ち、ある暦法によって計算された年次・日が記された資料に基づいて書かれたか、あるいは編纂時に暦の計算が行われたことを意味する。暦法は天体運動を基準に作成されるのが基本であり、太陽暦太陰太陽暦太陰暦の3種に大別されるが(詳細はを参照)、『日本書紀』の暦法は中国に起源を持つ太陰太陽暦に依っている。

『日本書紀』には約900個の月朔(その月の1日の干支)が記載されている[79]。これもまた十干と十二支の組み合わせによって表現される。例えば、『日本書紀』2番目の暦日である神武天皇が東征に出発した日は「太歳甲寅」の年の「冬十月丁巳朔辛酉[注 9]」の日であり、即位の日は「辛酉」の年の「春正月庚辰朔[注 10]」と表記される。

この六十干支による日付表記は、実際の天体運動が完全な等速運動でないことや、基準になる月や太陽の運動周期が厳密には整数でないこと、地球の自転公転周期と同期しないことから様々な調整を要する。具体的には、朔望月(月の満ち欠け)の周期[注 11]が約29.53日であることから、一か月の日数を30日とする大の月と29日とする小の月を設定し、月の周期と暦を同期させる調整が必要になる。さらに、朔望月による12か月(約354.36日)と地球の公転周期(約365.24日)が同期しないため、適時13カ月目(閏月)を挿入する年を作る必要がある(詳細は閏月を参照)。この調整の仕方、暦法によって、同じ日の干支や閏月が異なる場合がある。

日本では江戸時代以来、『日本書紀』が用いている暦法を復元する試みが行われており、初期の頃は日本独自の暦、あるいは百済の暦などの説が出されていたが[80][81]、20世紀半ばに東京天文台(現:国立天文台)の職員・天文学者であった小川清彦によって中国からもたらされた元嘉暦儀鳳暦(麟徳暦)が使用されていることが明らかにされた[79]

即ち、『日本書紀』は神武天皇の時代から儀鳳暦によって暦日を記述しており、5世紀以降は元嘉暦に切り替わっている[79]。しかし、儀鳳暦は7世紀にで作られた新しい暦であり、日本にもたらされたのは持統天皇代であるのに対し、元嘉暦は5世紀に作られた古い暦であり、時代の新旧が逆転している。このことから、『日本書紀』の暦日は古い時代、5世紀前半以前の時代のものは『日本書紀』編纂時に最新の暦であった儀鳳暦を使って推算したものであることが明らかとなっている[80]

暦法の研究史と小川清彦

『日本書紀』に記載されている暦日に基づいて当時の日本の暦法を再構築しようという試みが具体的に始まるのは江戸時代のことである。渋川春海(1639年生-1715年死)は『日本書紀』の暦についての推算を行い、日本初となる長暦日本長暦)を作成した[81]。春海は『日本書紀』の暦法について「日本固有のものであり、神武天皇以降推算されたもので、途中2回改暦があったもの」と想定した[81]18世紀後半には本居宣長(1730年生-1801年死)が「唐暦による推算であろう」と述べ、伴信友(1775年生-1848年死)は「百済の暦日を用いたものである」とした[81]

明治・大正期には暦日の研究は目立った進展を見せなかった。画期となったのは昭和初期の東京天文台の天文学者であった小川清彦による研究である。彼は第二次世界大戦前から戦時中にかけて、『日本書紀』に記載されている月朔について、中国から伝わった各種の暦法による推算値との比較を行い、『日本書紀』の暦法が元嘉暦、儀鳳暦であること、その暦日は当時のものではなく後世(8世紀)の偽作であることを明らかにした[82]。小川の分析結果は当初ごく限られた人物の間に少数のコピーで配布されたのみであった。これは近代に入ると『日本書紀』は日本の国家史・国民史の根幹としての地位が与えられるようになり、昭和期に入った頃にはその内容、特に誤りについての批判を行うことには政治的危険を伴ったためである[83]。戦後、小川の業績は広く知られるようになり、現在では定説となっている[84]

小川が作表した『日本書紀』の暦日と、元嘉暦、儀鳳暦の暦日を示す表を元に、暦法の切り替わりを示す箇所を抽出したものを以下に示す。

『日本書紀』の月朔・閏月と元嘉暦、儀鳳暦の月朔・閏月
西暦換算 日本書紀記載の月朔 儀鳳暦の月朔 元嘉暦の月朔
太歳甲寅 -666[注 12] 11月丙戌 丙戌 丁亥
戊午 -662 6月乙未 乙未 丙申
神武元年 -659 正月庚辰 庚辰 辛巳
垂仁15年 -14 2月乙卯 乙卯 丙辰
垂仁23年 -6 10月乙丑 10月乙丑 10月乙丑
景行12年 82 9月甲子 甲子 乙丑
成務2年 132 11月癸酉 癸酉 甲戊
仲哀元年 192 閏11月乙卯 閏11月乙卯 閏12月甲申
仲哀9年 200 3月壬申 壬申 癸酉
仁徳87年 399 10月癸未 癸未 甲申
履中5年 404 9月乙酉 9月乙酉 9月乙酉
安康3年 456 8月甲申 癸未 甲申
雄略4年 460 8月辛卯 庚寅 辛卯
清寧4年 483 閏5月 - 閏6月戊申 閏5月戊寅
欽明31年 570 4月甲申 4月甲申 4月甲申
舒明2年 630 正月丁卯 閏正月丁卯 正月丁卯
皇極2年 643 (閏7月戊寅)8月戊申 8月戊寅、閏8月戊申 閏7月戊寅、8月戊申
天智6年 667 閏11月丁亥 12月丁亥 閏11月丁亥

この表に示される通り、垂仁23年、履中5年、欽明31年4月の「閏」字が筆写時に脱落したものと仮定した場合、4世紀頃以前の月朔の干支は儀鳳暦に、5世紀頃以降のそれは元嘉暦に一致する[79]

当時既に『日本書紀』が指し示す紀年が古い時代において信用に足らないことは理解されていたが、儀鳳暦・元嘉暦を用いた小川の推算値と『日本書紀』記載の暦日は比較的高い一致を示した。年代が疑わしいものであるにもかかわらず、暦日の月朔がその疑わしい年代と良く合致することは、『日本書紀』の月朔が同時代史料の記載にあったものを写したのではなく、後世に設定された紀年に合わせて計算されたものであることを意味する[85][注 13]

古事記の崩御年干支

なお、『古事記』は年次を持たないが分注の形で15人の天皇について崩御年干支と崩御月が記され、第10代崇神天皇と第18代反正天皇を除く13人は崩御日も記されている。崇神天皇、第13代成務天皇~第19代允恭天皇、第21代雄略天皇、第26代継体天皇、第30代敏達天皇の11人は『日本書紀』の崩御年の干支と一致しないが、

は一致する。


注釈

  1. ^ 数は森博達 (1991)まえがき冒頭部に拠る。
  2. ^ この点を象徴するものとして、坂本太郎の「六国史、歴史を研究する前に、六国史、研究する段階が必要だと思うのである[15]」という指摘が、しばしば引用される[16]
  3. ^ 例えば「倭」が「日本」、「大王」が「天皇」になっている等。
  4. ^ 高句麗の『新集』は古記(留記)を改削したものであるとされる。
  5. ^ ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照
  6. ^ 笹川説によれば、建皇子の生母と葬地に関する記述の整合性に問題があり、天武天皇の時代から国家的事業として『日本書紀』の編纂作業が行われたとすれば、天武天皇の皇后(持統天皇)の実弟に関する疑問点は彼女から尋ね得た筈だとする。 また、川島皇子らは「上古の諸事」に関する編纂を命じられたとされているのに、当の天武天皇の時代の出来事(=現代史)を含める『日本書紀』の実態は天武天皇の命と矛盾するとしている、とも指摘している。
  7. ^ 森博達 (1991)の評価・要約については遠藤慶太 (2015), p. 24、笹川尚紀 (2016), pp. 127–128、荊木美行 (2018), pp. 13–14、および森博達 (2011)にある森本人による学界からの反応のまとめなどを参考にした。
  8. ^ 他には綏靖天皇紀で2回、神功皇后紀で3回記され、天武天皇紀では元年でなく2年に記されている。
  9. ^ 太歳甲寅の年、十月一日(月立ち、即ち朔)の干支が丁巳、その月の辛酉の日の意。六十干支の並びは丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉...と続くことから、辛酉の日は朔(1日)の4日後である。つまり神武天皇の東征開始は太歳甲寅の年の10月5日であることがわかる。
  10. ^ 辛酉の年の春正月(1月1日)、朔の日の干支は庚辰。
  11. ^ 公転周期ではない。
  12. ^ 天文学的紀年法に依る。計算上の利便のため、西暦0年を設定するため、-666年は紀元前667年である。以下の年次も同じ。
  13. ^ なお、小川によれば『日本書紀』で用いられている儀鳳暦は中国で作られた本来の儀鳳暦ではなく、計算を簡便にするために簡略化されたものである。同論文に付された斎藤国治の解説を次に引用する。「儀鳳暦は本来『定朔法』(日月の天球上運動を不等速とする)をとる暦法であるが、『書紀』編纂当時の暦算家は逆算の手間をはぶくため、より簡単な『経朔法』(日月の天球上運動をそれぞれ等速と仮定する)を採用して算定する。」
  14. ^ 国産みの一書第一では天神が太占で時日を定めたとあり、日神アマテラスと月神ツクヨミの誕生後、弟のヒルコが三歳になっても脚が立たなかったという記事が最初の年数経過である。また国民の死と誕生の起源を語るイザナミイザナギの会話は一日の概念に基づいており、ツクヨミが保食神を殺す神話では月の満ち欠け、春と秋の起源が語られる。
  15. ^ なお、平安時代公卿三善清行は、昌泰4年(901年)辛酉の年に、当年が革命の年に当たることから改元すべきことを醍醐天皇に上奏した。この時彼が提出した上申書は「革命勘文[94]という名で知られており、『易緯』の鄭玄注はこの革命勘文の中で引用されているものである。この中では「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」とあり、一蔀は1320年とされている[95]。しかし、「革命勘文」の説明に従えば一蔀は「廿一元」であり1260年であるはずである。那珂通世は三善清行の計算違いを指摘し、推古朝を起点とする説を提唱した大津は、三善清行は昌泰4年の改元を実現するために一蔀を1320年とする作為を加えたようにも見えるとする。一蔀1320年とした場合、神武天皇即位から一蔀後の斉明7年が蔀首となる。三善清行は、そこから4×60(240)年後の901年大変革命の年となると主張した。
  16. ^ 現存の『三国志』では景初二年とあるが、『日本書紀』始め『梁書』、『翰苑』など古い時代の引用文が景初三年とすることから、誤写として景初三年に修正するのが通説である。
  17. ^ なお、『日本書紀』は越年称元法(前君主の翌年を元年とする)、『三国史記』は当年称元法(前君主の死去の年を元年とする)で記述されているため、『日本書紀』の「百濟王子貴須が王となった」年は『三国史記』では近仇首王二年に相当する(倉西)。
  18. ^ 神功皇后39年を239年、雄略天皇5年を461年とする。
  19. ^ 允恭天皇と雄略天皇の間は安康天皇であるが、安康天皇の崩御年干支は『古事記』分註に無い。
  20. ^ 実際に遣使があったかは疑問視されている。
  21. ^ 倉西は百済の武寧王誕生記事を基準に雄略5年を461年として『日本書紀』記載の歴代在位年数を遡ると、応神天皇元年が270年(計算は461年-4年〈雄略〉-3年〈安康〉-42年〈允恭〉-1年〈空位〉-5年〈反正〉-6年〈履中〉-87年〈仁徳〉-2年〈空位〉-41年〈応神〉=応神元年〈270年〉)となり、阿花王即位記事を基準にして応神天皇元年を390年とした場合と120年の差分が生じることから、干支二運の繰り上げが神功紀だけではなく、応神紀から雄略紀までの間にも存在しているとしている。なお、応神天皇元年を390年として、雄略5年までを逆に積算すると雄略5年は581年となるが、雄略5年を461年とする紀年は『日本書紀』最後の紀年である持統天皇11年(697年)と整合的であるため、これは成立しない[112]
  22. ^ 弘仁4年(813年)以降、概ね30年毎に講筵が行われているのに対し、時期的に孤立している養老5年(721年)については明確な実施記録が無く、開催自体が虚構であるという説や弘仁以降の講筵とは性質的に異なるとする見解、即ち『日本書紀』完成の翌年に開かれたことから考えて完成披露という意味合いの強いものであったとする意見が有力である。ただしそれでも他の講筵と基本構造を同じくしていると考えられており、「私記」の作成も記録に残されてはいる[123]
  23. ^ 士清自身が「例言」の中で「儒典梵書ヲ引用スルハ、要ハ字義ヲ証ス」と述べているが、ここには今井似閑の弟子である樋口宗武に学んだという学問的背景もあった[135]
  24. ^ 春満の『日本書紀』研究については、渡邉卓 (2012)に詳しい。また『新編荷田春満全集』全12巻(2003年6月~2010年2月)の第2巻と第3巻には、未公開資料も含めて春満の講義録などが翻刻されている[139]
  25. ^ むろん、祖先として伝説上の人物を書いた各種系図であって近代的な意味では正確な内容とはいえない。
  26. ^ 百済三書記事の中には、百済王が天皇の「黎民」と「封」建された領土とを治め、自分たちの国は天皇に「調」を貢いで仕えまつる「官家(みやけ)」の国、元来の天皇の「封」域を侵して「新羅の折れる」加羅諸国を天皇の命令で「本貫に還し属け」てほしい、自分は天皇の「蕃」(藩屏)をなす「臣」であるなどの記述があふれ、地の文には、百済王が、天皇から全羅北道の地を「賜」与されたとある。
  27. ^ 他に、「阿花王立つ、貴国に礼なし」、(木刕満致は)「我が国に来入りて、貴国に往還ふ」
  28. ^ 天皇が百済王に「賜」わったという地は、忠清道の洪城、維鳩、公州付近から全羅道の栄山江、蟾津江流域にまで及んでいる。これは、滅亡時の百済王が独立して、かつ正当に統治していた国家の領土とほぼ一致する。しかし、7、8世紀の交の在日百済王族、貴族はそれを天皇から委任された統治と表現せざるを得ない臣下の立場にあった。このような観念を実体化して、「高麗、百済、新羅、任那」は「海表の蕃屏として」「元より賜はれる封の限」をもつ「官家を置ける国」だった(『継体紀』)などというのは信頼し難い[157]
  29. ^ この他に「伊勢系」を分けて考える説もある[164]

出典

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