日本書法芸術院の誕生
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河西三省の働きかけで、昭和26年東京都主催の成人学校が開催され初代書道講師となった。1期が3ヶ月であったが、署名運動まで起こりもう1期続けた。今度は大田区でも成人学校をやることになり、そこでも10期講師を務める事になった。ところが役所の方から「同じ講師が続けていては1派に偏るから困る」という意見が出始めた。当時大田区には日展の審査委員長をしていた鈴木翠軒など著名な書家がたくさんいたため、哲仙と交代させなければ顔が立たなかった。役所にはやめてほしいと言われるが、生徒にはもっと続けてほしいと言われた。ならばここにいる皆で書道会を作ろうとなり、昭和29年日本書法芸術院が誕生することになった。 日本書法芸術院の名前は、戦後「日本は平和を愛する民族である」ということを理解してもらう為、ダグラス・マッカーサーとマッカーサーの上官リッジウェイ大将に細字で綴られた肖像画を贈る事にした。その時「個人名では受け取ってもらえない」と新聞記者からアドバイスを受け、付けた名前が「日本書法芸術院会長堀野哲仙」であった。その後、戦後日本とアメリカの窓口役になっていたキャピー原田の夫人と哲仙が矢口小学校のPTA会長と副会長だった関係から知り合いとなり、肖像画の事を聞いてみると「間違いなく本人に渡っている」と聞かされ大喜びした。
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