日本書紀の潤色と編年の疑問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:49 UTC 版)
「改新の詔」の記事における「日本書紀の潤色と編年の疑問」の解説
昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出された。これにより、それまでの郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』の改新の詔の文書が奈良時代に書き替えられたものであることが明白になった。潤色が確実となったため、日本書紀による編年は、他の史料による多面的な検討が必要となった。しかし内容については、詔から実践された公地公民制、租庸調の税制、班田収授法などの主要政策は、地方社会への影響が大きいものばかりであり、これらの政策が浸透するには相当の時間を要したと考えられ、事実政策を反映した事績は天智期・天武期から文武期に引用や用例が多く見られる。詔が実践できていない矛盾や事実もあり、これらが書紀の編纂者らによる潤色であることは間違いないが、大化の改新は後世の律令制に至る端緒であった可能性は高く、また大化年間だけにとどまらず以降の律令完成までの一連の諸改革をいうとする解釈が近年は強い。
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