日本書紀第十段とは? わかりやすく解説

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日本書紀第十段

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 02:27 UTC 版)

山幸彦と海幸彦」の記事における「日本書紀第十段」の解説

日本書紀巻二の'本文では、兄(え)の火闌降命には自(おの)ずから海幸(釣針)があり、弟(おと)の彦火火出見尊には自づから山幸(弓矢)があった。はじめに兄弟二人(ふたはしら)は語り合い「試(こころみ)に幸(さち)易(か)えんと欲(おも)う」と交換したが、どちらも獲物得られなかった。兄は悔やんで弟の弓箭(ゆみや)を返し自分釣針求めた。弟は兄の釣針失していて、探し出せなかった。そこで別の釣針作って兄に渡したが、兄は許さず、元の釣針要求する悩んだ弟は、自分の横刀(たち)から釣針作り、一箕(ひとみ)に山盛りにして渡したが、兄は怒って、「我が故(もと)の鉤(ち)に非(あらず)ば、多(さわ)なりといえども取らずと言い、ますます責めた故に彦火火出見尊深く憂(うれ)い苦しみ海辺行って吟(さまよ)った。すると、そこで出会った塩土老翁が「また憂うること勿(なか)れ。我、まさに汝が為に計らん」と言って無目籠まなしかたま)を作り彦火火出見尊を籠に入れて海に沈めた。すると自然(おのず)から可怜小汀(うましおはま)に着いた。そこで籠を棄てて進むと、すぐに海神の宮に行き着く、とある。 その宮は雉(たかがきひめがき整頓(ととの)いて臺宇(たかどの玲瓏(てりかかや)いていた。門の前の井戸のほとりに湯津ゆつかつら)のがあって枝・葉、扶疏(しきも)いて(広げて)いた。彦火火出見尊がそのの下に進んで、徙倚(よろぼ)い彷徨(さまよ)っていると、一人美人(おとめ)が扉を開けて出て来た。そして玉鋺(たまのまり)(綺麗なお椀)にを汲もうとしたので、擧目(あお)いで見つめた。そこで美人驚いて帰り戻り、その父母かぞいろは)に、「一(ひとり)の希(めずら)しき客(ひと)有り。門の前のの下に在り」と申し上げた。 そこで、海神八重の畳を重ね敷いて招き入れ、坐(まし)て定(しず)ませ、来た理由尋ねた彦火火出見尊事情話した聞いた海神大小集めて問いただすと、皆は、「識(し)らず。ただ赤女(あかめ)(の名) 比のごろ口の疾(やまい)有りて来たらず」と言う召してその口を探すと、失った釣針が見つかる、とある。 そうして彦火火出見尊海神の娘の豊玉姫を娶り、海の宮に住んで三年経った。そこは安らか楽しかったが、やはり故郷思う心があり、たまにひどく太息(なげ)き(溜息をつく)ことがあった。豊玉姫はそれを聞いて、その父に、「天孫(あめみま)悽然(いた)みて數(しばしば)歎く(けだ)し土(くに)を懐しむ憂いありてか」と語った海神彦火火出見尊を招くと、「天孫若(も)し郷に還らんと欲わば、我、まさに送り奉らん」と従容おもむろ)に語り、すでに探し出した釣針渡して、「此の鉤(ち)を以ちて汝が兄(え)にあたえん時は、ひそかにこの鉤(ち)を呼びて『貧鉤(まぢち)』と曰いて、然る後あたえたまえ」と教えたまた、潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を授けて、「潮満瓊(しおみつたま)を漬(つ)けば、潮、たちまち満つ。これを以ちて汝が兄を溺(おぼ)せ。若し兄が悔(く)いて祈(の)らば、還りて潮涸瓊(しおひのたま)を漬(つ)けば、潮、自ずから涸(ひ)ん。これを以ちて救いたまえ。如此(かく)逼(せ)め惱まさば、汝が兄は自ずから伏(したが)わん」と教えた。そして帰る時になり、豊玉姫天孫に、「妾はすでに娠(はらみ)ぬ。まさに産(こうむ)こと久しからず。妾、必ず風・濤急峻(はや)き日を以ちて海濱(うみのへ)に出で到らん。請(ねが)わくは、我が為に産室(うぶや)を作りて相い持ちたまえ」と語った彦火火出見尊は元の宮に帰り、一(ひとつ)(まるごと海神教え従った。すると兄の火闌降命厄い困(なやま)されて自ら平伏し、「今より以後、吾は汝が俳優(わざおさ)の民となさん。請(ねが)わくは施恩活(いけたまえ)」と言った。そこで、その願い通り容赦した。その火闌降命は、吾田君(あたのきみ)小橋(おはし)等が本祖(もとつおや)である。 その後豊玉姫は前(さき)の約束通りその女弟(いろど)の玉依姫連れて波風逆らって海辺やって来る。産む時が迫ると、「妾、産(こうむ)時、幸(ねが)はくは看ること勿(なか)れ」と頼んだ天孫忍ぶ能(あた)わず、こっそり訪れて覘(うかが)う。豊玉姫は産もうとして龍に姿を変えていた。そして大い恥じて、「如(も)し我を辱(はずか)しめず有れば則ち海(うみ)陸(くが)相い通わしめて、永く隔て絶ゆること無し。今、既に辱(はずか)しめつ。まさに何を以ちてか親しく昵(むつま)じき情(こころ)を結ばんや」と言って(かや)で御子包んで海辺棄て、海途(うみぢ)を閉(とざ)してすぐに去りき。そこで、その子の名を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことと言うその後しばらくして彦火火出見尊亡くなられた。日向(ひむか)の高屋山(たかやのやま)の上の陵(みささぎ)に葬りまつる、とある。

※この「日本書紀第十段」の解説は、「山幸彦と海幸彦」の解説の一部です。
「日本書紀第十段」を含む「山幸彦と海幸彦」の記事については、「山幸彦と海幸彦」の概要を参照ください。

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