日本最初の中空重力ダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 05:55 UTC 版)
計画段階で井川ダムは堤高100mを超える大ダムとして計画された。中部電力としては100m級のダムは初の試みであり、その施工法等についてはGHQの下部組織である海外技術顧問団 (OCI) の助言を得る事とした。OCIは九州電力の上椎葉ダム(耳川)においてアーチ式コンクリートダムの施工を助言するなど、海外の最新土木技術を日本の施工業者に助言・指導する組織であるが、井川ダムについてはこれまた日本初の試みとなる中空重力式コンクリートダムでの施工を提案した。 中空重力式コンクリートダムは重力式コンクリートダムの一種であるが、堤体内部が空洞となっているものである。比較的広い河谷の存在が建設の適地であるが、井川地点はその好適地であった。内部が空洞である為当時高価だったコンクリートの使用量を抑える事が出来、かつ基礎地盤との接地面を広く取れる事から経済性と安定性に優れる型式であった。だが、有数の地震国である日本において初の試みとなる為に耐震性や技術的な問題もあったことから、中部電力は中空重力ダムの建設が盛んだったイタリアに社員を派遣し、ダムを視察し図面などを入手して建設の参考とした。 こうした経緯を経て、井川ダムは高さ103.6mの中空重力式コンクリートダムとして施工が開始された。後述する大井川鐵道井川線を敷設して資材を運搬し、昼夜問わず工事を行った。1956年(昭和31年)に先ず奥泉ダムが完成、そして翌1957年(昭和32年)、井川ダムが完成し認可出力62,000kWの井川発電所の稼動が開始。中部電力初の大プロジェクトは遂に完成へと至った。なお、井川ダムは別名井川五郎ダムとも呼ばれる。これは中部電力の初代社長で井川ダム建設の陣頭指揮を執った井上五郎の「五郎」を取ったものであるが、竣工式の際にダム工事を担当した間組社長・神部満之助の「フーバーダムの様に人名を冠したダムがあってもいいじゃないか」という提案がきっかけとなっている。 これ以降中空重力ダムは全国的に施工が行われ、同じ大井川に1962年(昭和37年)に完成した畑薙第一ダムは堤高125.0mと世界最高の堤高を誇った。だが、次第にコンクリートの価格が安値になる一方で、施工に手間が掛かるため人手が多く要る中空重力ダムは人件費の高騰が問題となり、通常の重力式コンクリートダムの方が安価で済む様になった事から、次第に中空重力ダムの施工は行われなくなり、1974年(昭和49年)新潟県新発田市に完成した内の倉ダム(内の倉川)を最後に、この方式のダムは造られなくなった。現在は台形CSGダムやダム施工の合理化(RCD工法)など事業費を圧縮できる手法が次々開発されており、今後中空重力ダムが建設される事はまずないと考えられる。
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