日本最初の全国的な内乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
「治承・寿永の乱」の記事における「日本最初の全国的な内乱」の解説
日本において、この乱以前にも大規模な内乱は発生しているが、それらの反乱は大規模であっても辺境地域に留まる性格のものか中央地域(畿内周辺)における短期間の内乱に限定されていた。だが、この乱は中立的な立場を取った奥州藤原氏が支配する東北地方以外の当時の日本の国土のほぼ全域を巻き込んでおり、かつ5年近くにわたって続くものとなった。ところが、当時の朝廷の軍制はあくまでも京都およびその周辺の短期間の騒擾(僧兵や盗賊など)や海賊対策には十分であったものの、こうした大規模な内乱に対応できる体制にはなっていなかった。平氏政権にしてもその成立のきっかけとなった保元・平治の乱において重代相伝の家人などからなる少数の直属部隊で勝利を収め、政権掌握後は必要に応じて公権力の発動を行うことによって諸国の兵士を動員することで補う形態を採っていた。ところが、この乱において当初小規模勢力でかつ「反乱軍」の扱いを受けていた源頼朝勢力は、関東地方の支配権確保とその後の平氏政権打倒という長期的・領域的な目標を達成するため、傘下の武士に対して独自の本領安堵や占領した土地の給付などを実施し、これを梃子にして長期戦に耐え得る軍制の確立に成功した。これに対して平氏政権側は朝廷内の旧勢力(王家、貴族、寺社)との兼ね合いからこうした大胆な措置を採ることが困難であり、それが平氏政権側の苦戦につながったと考えられている。 それまでの合戦は従者を従えた正規の武士が名乗りを上げ騎射から始めるなど、一定の作法がある戦いであったが、この乱では戦闘の大規模化により正規の武士と従者だけでは人員が不足し、動員対象が騎射に習熟していない未熟な武士や、本来は非武士階級である村落領主クラスにまで拡大したとされる。また馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬による体当たりが行われるようになり、本来は矢が無くなったり馬を下りた際に使う太刀の馬上使用も増加した。これ以降、弓騎兵だった武者は太刀を使う打物騎兵に変化していった。
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