成立のきっかけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:45 UTC 版)
かつてはこの讃歌は、藤原定家の『源氏物語巻名歌』の影響を受けたものと考えられていたが、晶子自身の書簡の記述により、小林一三の自宅に招かれた際に見て感動を受けた「上田秋成の源氏五十四帖の歌の屏風」の影響によって作られるようになったことが明らかになった。 与謝野鉄幹と晶子の夫妻は、自身の生活や借金返済等のために地方へ赴いて、人々の求めに応じて(対価を得た上で)自身の和歌を屏風・色紙・短冊などに揮毫する「歌行脚」を、生涯に何度か行っている。この「歌行脚」の最初のものは、欧州行きの資金を集めるために1917年(大正6年)5月28日から7月9日までの間、関西及び九州の各地に滞在して行われたものであった。 小林一三は、この歌行脚の途中で小林天眠宅に滞在していた与謝野夫妻を自宅に招待したらしく、一三の没後にその蒐集物を管理している池田文庫に残されている与謝野晶子の1917年(大正6年)6月4日付小林一三宛書簡によると、晶子はこの招待に対して「8日か11日ならば」と返事しており、正確な日付不明ながらこの後間もなく小林一三邸を訪れたと見られる。このとき晶子は、小林一三が1917年(大正6年)4月に購入したばかりの「上田秋成の源氏五十四帖の歌の屏風」を見て感動を受けたらしく、逸翁美術館に残る「源氏物語短冊五十四枚」に付された1920年(大正9年)1月25日付小林一三宛与謝野晶子書簡において「いつか自分もあのようなものを作りたいと思った」と述べている。
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