死と遺体盗掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 03:56 UTC 版)
「ジョン・スコット・ハリソン」の記事における「死と遺体盗掘」の解説
彼は1878年5月25日に73歳で亡くなった。ウィリアム・ヘンリー・ハリソンの子供の最後の生存者であった。彼はノースベンドのハリソン家の墓(現在のウィリアム・ヘンリー・ハリソン墓州立記念碑(英語版))に両親や他の家族とともに埋葬された。 ハリソンの死亡当時の医学界では解剖や検視を教えるために新鮮な遺体を求めて墓荒らしから買う事案が多発していた。この世相もあり、ハリソンの墓を守るためにセメントで固められたレンガの金庫を築いたり、重い石を混ぜた土で墓を埋めたり、監視員を雇って巡回させるといった多くの対策措置が取られていた。 ハリソンの葬式当日、その前週に隣接する墓に埋葬されていたアウグストゥス・デヴィン(Augustus Devin)の遺体が盗まれていたことが発覚した。翌日、ジョンの息子の1人は友人であるデヴィン家の人間と主に遺体を捜しにシンシナティに向かった。捜索令状を持ってオハイオ医科大学を訪れた彼らはデヴィンの遺体ではなくロープで吊されたジョン・スコット・ハリソンの全裸体を発見した。デヴィンの遺体もその後、ミシガン大学の医科大で塩水に漬けられた状態で発見された。 この一件は1881年のオハイオ州解剖学法の成立のきっかけの1つとなった。この法律は引き取り手のない遺体を医学部に提供することで墓荒らし市場を縮小させて阻止するという趣旨である。ハリソンの遺族は1万ドルの損害賠償訴訟をオハイオ医科大学に対して起こしたが、この結果と判決に関する資料は失われている。
※この「死と遺体盗掘」の解説は、「ジョン・スコット・ハリソン」の解説の一部です。
「死と遺体盗掘」を含む「ジョン・スコット・ハリソン」の記事については、「ジョン・スコット・ハリソン」の概要を参照ください。
- 死と遺体盗掘のページへのリンク