死と贖罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 15:46 UTC 版)
「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事における「死と贖罪」の解説
中世の教会で好まれた装飾絵画のモチーフは「最後の審判」だった。1348年にヨーロッパを襲ったペストの大流行が多くの死者を出し、残された人々は宗教的な懺悔や赦免に救いを求めた。逃れることのできない死、悔悟に対する報い、罪への罰といったモチーフがフレスコ画に繰り返し描かれ、超現実的な苦痛に満ちた恐ろしい地獄の光景が絵画作品中に強調された。ジョットの弟子と考えられているオルカーニャの1350年ごろの作品『死の勝利』には、このようなモチーフがすべて描かれており、ピサのドゥオモ広場にある記念墓所カンポサント (en:Camposanto Monumentale) にも、『死の勝利』と呼ばれる同様の作品が存在する。ピサの『死の勝利』の作者は伝わっておらず、フランチェスコ・トライーニ (en:Francesco Traini) かブオナミーコ・ブファルマッコではないかとされている。これらの作品が描かれた時期は定かではないが、1348年以降だと考えられている。 14世紀後半のパドヴァでは、アルティキエーロとジュスト・デ・メナブオイ (en:Giusto de' Menabuoi) の二人の重要なフレスコ画家が活動していた。ジュストの代表作としてパドヴァ大聖堂洗礼堂の装飾壁画があり、これは洗礼堂の内陣に「人類創造」、「堕落」、「救済」、そして絵画に取り上げられるのは珍しいモチーフである「黙示録」などが描かれた一連のフレスコ画である。非常に大規模な作品で、質の高さ、保存状態の良好さにも定評があるが、描かれている人物の感情表現は、アルティキエーロがパドヴァのサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂に描いた『キリスト磔刑』と比べると保守的な描写といえる。ジュストの作品の人物は、それまでの様式化されたポーズで描かれているのに対し、アルティキエーロの『キリスト磔刑』は処刑されたキリスト遺骸を取り囲む人々の激しい感情が描き出されている。 フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の通称「スペイン人礼拝堂」は、アンドレア・ディ・ボナイウート (it:Andrea di Bonaiuto) に、自分たちの教会がドミニコ修道会派のなかで贖罪の役割を担っていることを広める作品の制作を依頼した。このときに描かれたフレスコ画『Chiesa militante e trionfante』(1365年 - 1367年)には建築中のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も描かれており、フレスコ画制作当時には存在しておらず、15世紀になってから完成したドームが描かれていることは注目に値する。
※この「死と贖罪」の解説は、「ルネサンス期のイタリア絵画」の解説の一部です。
「死と贖罪」を含む「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事については、「ルネサンス期のイタリア絵画」の概要を参照ください。
- 死と贖罪のページへのリンク