日本最初の女子留学生
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明治4年(1871年)に仙は北海道開拓使嘱託となり、津田家は三田へ移った。同年10月、アメリカ訪問時に男女平等・女子教育の必要性を実感した開拓次官黒田清隆が太政官正院に伺出て実現させた開拓使による女子留学生のアメリカ派遣事業に、仙は梅子を応募する。結果、募集に応じた最年少の梅子(満6歳)を含む女子5名を開拓使が推挙し、正院にて承認された。出発に先立ち、女子留学生5人は士族の子女としては歴史上初めて皇后に拝謁を賜り、11月に他の官費留学生とともに岩倉使節団に随行して渡米した。新暦1871年12月23日(本節は以下新暦で記す)に横浜を出港し、1872年1月15日にサンフランシスコに入港。同年1月31日にサンフランシスコを5両編成の貸切列車で出発し、大陸横断鉄道を経由してワシントンD.C. ヘ向かったが、40年ぶりとされる大雪により日程が遅れた(ソルトレイクシティで18日間待機)。2月25日にシカゴに到着、翌日の夜にはワシントンに向けて出発した。5人の女子留学生はアメリカに到着後もなかなか洋服を買ってもらえずにいたが、岩倉具視に談判の末シカゴでようやく洋服を買い与えられた。その時に撮影したとされる5人の記念写真が残されている。
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