善淵愛成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 09:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動善淵 愛成(よしぶち の ちかなり)は、平安時代前期の貴族・儒学者。氏姓は六人部(無姓)のち善淵朝臣。官位は従五位上・大学博士。
経歴
清和朝前半に讃岐少目・少外記を歴任し、貞観10年(868年)外従五位下・大外記に叙任される。この間、貞観4年(862年)兄の永貞と一族の行直と共に六人部から善淵朝臣に改姓。また、貞観9年(867年)には永貞と共に本拠地を美濃国厚見郡から左京に改めている。
のち、従五位下・山城権介に叙任される。貞観17年(875年)清和天皇が『群書治要』の講読を行った際、都講(尚復)を務める。貞観19年(877年)夜間に日食が発生したため、廃務(忌日に朝廷が政務を停止すること)を行うことの是非について、明経博士・文章博士・明法博士に議論が命じられた際、愛成は助教・善淵永貞らと共に、『経書』においては日食や月食は昼夜関係なく国家の大忌であるとして、廃務すべき旨を言上している[1]
元慶2年(878年)に始まった日本紀講筵では博士として講義を行った。元慶8年(884年)従五位上に叙せられ、仁和2年(886年)には大学博士に任ぜられている。またこの間、元慶3年(879年)に完成した『日本文徳天皇実録』の編修にも参画した。
仁和4年(888年)4月28日、阿衡についての勘文を上り、10月9日に周易を進講、寛平2年3月には、天皇が蔵人を遣して、病を慰問している。
官歴
『日本三代実録』による。
- 時期不詳:従七位上。讃岐少目
- 貞観4年(862年) 2月10日:少外記?[2]。5月13日:六人部(無姓)から善淵朝臣に改姓
- 時期不詳:従六位下。
- 貞観9年(867年) 8月29日:本拠を美濃国厚見郡から左京に変更
- 時期不詳:正六位上
- 貞観10年(868年) 正月7日:外従五位下。正月16日:大外記
- 貞観14年(872年) 6月24日:兼播磨大掾[2]
- 貞観16年(875年) 正月13日:山城権介[2]
- 時期不詳:従五位下(内位)
- 貞観17年(875年) 4月25日:見山城権介
- 貞観19年(877年) 4月1日:見助教
- 元慶3年(879年) 5月7日:見図書頭
- 元慶6年(882年) 8月29日:見助教
- 時期不詳:伊予介
- 元慶8年(884年) 11月25日:従五位上
- 仁和2年(886年) 正月16日:大学博士
脚注
参考文献
- 善淵愛成のページへのリンク