日本紀講筵と書紀古訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
奈良・平安時代における『日本書紀』の受容状況について注目されるのは、『日本書紀』が完成した翌年の養老5年(721年)から開催されている朝廷主催の『日本書紀』の講義(日本紀講筵、書紀講筵)である。 講筵の内容については、甲乙丙丁の四種が残る講書の筆記記録の不完全な伝本(『日本書紀私記』)によって伝わる。そのうち甲乙丙の三種の内容は本文中の語句の訓読法に終始しており、丁は語句の疑義に対する問と博士の解答が集積されたものである。これらのことから、講筵では『日本書紀』の漢語の訓読が主要な論題であったことがわかり、『日本書紀』をいかに読む(訓む)かが学生と博士との間の問答を通じて聴衆に伝えられたものと見られる。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられた。 講筵はまた官人たちに日常において意識することのない大きな物語としての国史を想起させる儀式でもあり、概ね体制が整った元慶2年(878年)以降の形式について10世紀の儀式書『西宮記』に記録が残されている。その記録から、「天皇の命で開催が決定される公式な会であること」「博士以下学生に至る講読の実行主体の外側に監督者・見学者としての公卿層以下が配置される公開行事であること」「開催期間が複数年と長期間にわたること」が日本紀講筵の基本構造であったと考えられる。 以下に過去の講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。 養老5年(721年) 博士は太安万侶。私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。 弘仁4年(813年) 博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。 承和6年(839年) 博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。 元慶2年(878年) 博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。 延喜4年(904年) 博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。 承平6年(936年) 博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。 康保2年(965年) 博士は橘仲遠。私記は現存しない。 養老以降、100年近くにわたって開催されなかった日本紀講筵が9世紀に再開されたことは朝廷の修史事業と関係すると考えられる。『日本書紀』は日本初の正史として権威を持ち、その記述に基づいた「歴史」「記憶」が諸官人・氏族に徐々に定着していくと共に、また各氏族の起源を語る根本台帳としての機能を持つものとして受容されていった。そして8世紀後半に新たな正史『続日本紀』が『日本書紀』に代わる新たな歴史を示すものとしてではなく、『日本書紀』に続くものとして編纂されたことで建国神話を持つ『日本書紀』が正典化し、新たな受容形態が求められた。こうして9世紀に日本紀講筵が行われるようになり、六国史の編纂が継続した間、ほぼ定期的に儀式として繰り返されるようになったと見られる。11世紀に入り、官選の正史の編纂が実施されなくなると共に日本紀講筵の開催も途絶えた。このことは、正史の編纂と日本紀講筵が一体のものであったことを示唆する。
※この「日本紀講筵と書紀古訓」の解説は、「日本書紀」の解説の一部です。
「日本紀講筵と書紀古訓」を含む「日本書紀」の記事については、「日本書紀」の概要を参照ください。
- 日本紀講筵と書紀古訓のページへのリンク