経歴・生涯とは? わかりやすく解説

経歴・生涯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/08 14:16 UTC 版)

カルトーラ」の記事における「経歴・生涯」の解説

彼は、カテテ地区フェレイラ・ヴィアナ74番地において、父:Sebastião Joaquim de Oliveira(セバスチアゥン・ジョアキン)、母:Aída Gomes de Oliveira(アイダ・ゴメス)の7人兄弟4番目として生まれた幼少時から音楽接して育ち地域のコルダゥン(チーム)に出入りしてパレード参加していた。しかし11歳の頃に彼の家計支えていた祖父亡くなると、マンゲイラの丘であるキンタ・ダ・ボア・ヴィスタ付近移り住んだ。しかし15歳母親死別17歳時に彼は父親から自活するように言い渡され、家を追い出された。当初、彼は印刷屋に就職したが歌が歌え口笛吹けないので辞職し左官として建設現場で働くようになった前述通り彼の愛称名はこの時につけられたものである。 彼が住んでいた地域では、Bloco dos Arengueiros(ブロコ・ドス・アレングェイロス、現在のマンゲイラの前身)が発足Mestre Candinho(メストリ・カンヂーニョ)が近所荒くれた若者まとめていたが、カルトーラもこのブロコに参加しChico Porrão(シコ・ポハォン)や、曲作り盟友であるCarlos Cachaça(カルロス・カシャーサ)たちと共にカンヂーニョを支援していた。翌1928年にブロコはエスコーラへと発展しマンゲイラを結成した前述通りカルトーラは“Mangueira”と命名し、チームーカラーを緑とバラ定め、また彼自身その音楽面でのリーダーとしてカルロス・カシャーサと一緒に曲を作った。 彼が有名になったのは1929年頃である。この時、カルナヴァルのサンバコンテストでマンゲイラが優勝した。このことで彼は一躍有名になった。また当時の大スターであった歌手、Mário Reis(マリオ・ヘイス)がカルトーラの噂を聞き訪ねてきて、彼の自作曲Que Infeliz Sorte”を300ミウ・ヘイスで買ったマリオFrancisco Alves(フランシスコ - 略称:シコ・アルヴィス)とデュエットでこの曲を歌い彼の名前が世に出ることになったカルトーラはこれに気を良くして、シコ・アルヴィスと同様の契約してDivina Dama”や“Tenho Um Novo Amor”など多く自作曲売った当時カルトーラ限らず多く黒人サンビスタは生活の為に自作した曲を売っていた。 しかし、他の作曲家サンバは単純で誰でも覚えすいものが多い中、彼の曲は独特だったためか、音楽関係者の間では有名になったが、大衆広く知られるまでには至らなかった。 また、シコ契約したといっても他の黒人作曲家と同様、いつも金が入ってくるわけではない。そこでNoel Rosa(ノエル・ホーザ)と一緒にシコ前借り願い出たりしたが、シコケチだったので1曲と交換何らかとしての金を支払うことになった。そこで彼らは近く居酒屋で“Qual foi o mal que te fiz?”(何か悪いことをしたか? - 1932年)を作ったという。これは当時カリオカミュージシャンにおける噂話として伝えられる話である。また、ノエル・ホーザは親友としてカルトーラの曲がコンテスト入選しなかったことを知ると猛烈に抗議したという話もある。 1940年USAコロムビア・レコード企画で、レオポルド・ストコフスキー率いアメリカ青年交響楽団ブラジル録音する際、ヴィラ・ロボスカルトーラ紹介した。彼はカシャーサと“Quem me ve Sorrindo”(笑って見ているのは誰?)を演奏録音した。しかしこれらは常にある仕事はないため、結局は左官続けることに変わりなかった。そして、これ以降10年以上、彼は目立った活動なくなってしまう。 特に1949年カシャーサとの共作曲が複雑でみんなが歌えないという理由から、ヂレトール(音楽監督)と対立しマンゲイラを離れることになった当時マンゲイラはじめ多くのエスコーラが肥大化し、この頃から多くのエスコーラのコミュニティー賭博元締めによって仕切られるうになるなどの背景にあるとされるちなみにカンデイアなどもエスコーラの内紛からポルテーラを離れている。またカルトーラ場合は、当時一緒に暮らしていたデオリンダという女性亡くなったことも精神的にショックだったという。 また、彼は髄膜炎にかかり、3日間もの間寝たきりで、当時同棲していた女性が彼をニロポリスに運び、そこで回復するまでに1年以上もかかり、をついて歩くほどになったこともあったという。足下ふらつき時たまにめまいも起こしていたので、左官仕事もできなくなりイパネマ夜警洗車仕事をするようになっていた。しかしこの間作曲続けていた。ジャーナリストのセルジオ・ポルトは偶然会った彼にこれらの話を聞くと、ラジオ出演させるかわりに洗車仕事辞めて作曲続けるよう勧め、彼もその助言受け入れた。 彼は1952年にはマンゲイラの丘へ戻り次第体調回復して官庁勤めることで定職得た。そしてDona Zica(ドナ・ジカ、本名:エウゼビア・シゥヴァ・ド・ナシメント)と知り合う。彼は“Arrepiados”、ジカは“Bloco do Seu Júlio”というブロコにそれぞれ参加し、同じ道をパレードしていたことが縁で、一緒に暮らすようになる。なお2人知り合ってから12年後1964年結婚。 そしてまた転機訪れる。1959年映画黒いオルフェ撮影の際、カルトーラジカ雑用雇われたが、たまたま映画の1シーン出演することになった映画世界的に大ヒットいわゆるリオのカーニバル”が知れ渡ったことで観光局バックアップした。 これにより彼とジカの家では毎週金曜日サンバ演奏するようになり、Zé Keti(ゼー・ケチ)やNelson Sargento(ネルソン・サルジェント)、ネルソン・カヴァキーニョなど、多くサンビスタ演奏するために集まった。 またジカ作る料理評判呼び周囲助言から1963年に、ZiCartola(ジカルトーラ)という店を開いた。店自体1965年閉店してしまうが、サンビスタ限らずジャーナリスト知識人、そして国民的大歌手のエリゼッチ・カルドーゾ、またトム・ジョビンナラ・レオンカルロス・リラなどのボサノヴァアーチストなども出入りし時には即興出演することも多かった。 特に、Elton Medeiros(エルトン・メディロス)とPaulinho da Viola(パウリーニョ・ダ・ヴィオラ)はジカルトーラで知り合い以後コンビ数多くサンバ生み出したことで知られる。 またボサノヴァアーチストとして知られるナラ・レオンは、すでにこの当時ボサノヴァ決別し、彼女のファーストアルバムにおいてカルトーラの"O sol Nascerá"(日は昇る)を録音し、これがヒットした。この時に得た金で長年大きく腫れていた鼻の手術行ったというエピソード残っている。 しかし、景気左右されジカルトーラが閉店。ベント・ヒベイロ地区にあったカルトーラ父親の家で暮らすようになるカルトーラには自分の子どもはいなかったが、最初の妻連れ子フチジカ連れ子・ヘジーナとその2人の子ジカ養子ホナウド、また友人アマデウの娘・クレウーザなどを抱えて養っていたためにいつも生活に苦慮していた。 そんな中さらに転機訪れる。1970年に“カルトーラは招く”というショー開催しリオサンパウロ学生支持得た後、1974年マルクス・ペレイラプロデュースカルトーラ65歳にして初のアルバムCartola”を録音サンパウロでは再びジカルトーラを開店した。また1976年には続編となる2枚目のアルバムCartola”を録音、翌1977年には3枚目“Verde Que Te Quero Rosa”、そして1978年には、70歳迎えたカルトーラアルバムCartola 70 Anos”を発売リオ70歳を祝うミサ開かれギリェルミ・ジ・ブリートなどの友人多くファン集まって沈黙バラ”を大合唱したという。 しかし、1980年11月30日、癌のためリオ病院死去翌日新聞には彼の死を追悼する記事載せた。彼は毀誉褒貶激し人生であったが、いわゆる大器晩成で、最後数年に4LP録音しブラジル音楽を語る上で外すことのできない評される不朽の名作残した

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経歴・生涯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 02:09 UTC 版)

長谷邦夫」の記事における「経歴・生涯」の解説

東京府東京市葛飾区(現:東京都葛飾区金町)に生まれ育つ少年時代は『漫画少年』に投稿手塚治虫選考の『漫画教室』に投稿した4コマ漫画2点同時に掲載されたのが初入選だった。 やがて投稿仲間石森章太郎主宰する東日本漫画研究会同人となり、肉筆回覧同人誌墨汁一滴』の執筆陣に加わる。石森赤塚不二夫らが住む豊島区椎名町トキワ荘出入りしていたため、新漫画党員ではないが広義の「トキワ荘メンバー」に含め場合がある。同じ東日本漫画研究会員で、トキワ荘入居または出入りしていたメンバーには、横田とくお横山孝雄高井研一郎山内ジョージなどがいた。 1955年高校三年夏休みに、東京小松川就職をしていた赤塚不二夫と共に上京してきた石森章太郎出迎えて三人初め手塚治虫のいた並木ハウス訪ねた翌日石森二人で初めトキワ荘訪れ寺田ヒロオ藤本弘藤子・F・不二雄)、安孫子素雄藤子不二雄A)の三人とも対面する同年、『漫画少年』の廃刊知らせ受けて赤塚二人で学童社編集部訪ねる。そこで次号出ていれば、寺田ヒロオ選考の『漫画つうしんぼ』への投稿入選していた事実知り怒り打ち震えた石森の『二級天使』の原稿回収自身入選作は『墨汁一滴』に掲載した東京都立芝商業高等学校卒業後、塩野義製薬就職したが、結核兆候発見されたため、入社3ヶ月退職餞別抗結核薬パラアミノサリチル酸カルシウム顆粒大瓶を貰う。 退職したあとは漫画一本の生活に入る。デビュー若木書房の『爆発五分前』。3冊目からは曙出版中心に貸本マンガ1964年まで約7年執筆した。この時期徳南晴一郎仕事手伝ったこともある。 1957年SF小説同人誌宇宙塵創刊されると連絡をとり、星新一光瀬龍らの同人交流持った。また主宰柴野拓美勧めで同誌において初め短編小説石段』を発表する手塚治虫参加した日本SF大会第一回からの参加者でもあり、石森章太郎にも参加するように呼びかけた。 1965年トキワ荘グループ創立したアニメ企画会社スタジオゼロ藤子石森請われ入社する同社雑誌部のチーフアシスタントになり、『オバケのQ太郎』や『レインボー戦隊ロビン』を手掛けるまた、赤塚の『まかせて長太』のアイデア・アシスタントをよこたとくお務めた同年スタジオゼロ新宿十二社市川ビル移転に伴い雑誌部は、藤子スタジオ、つのだプロ赤塚フジオ・プロダクション分割される長谷フジオプロ所属となった。この時から古谷三敏二人で赤塚作品のアイデア・スタッフを務めるようになる。またマネージャー業務、ペン入れ作業なども手伝い始める。この時期赤塚不二夫キャラクター描いてもらった『しびれのスカタン』を、少年画報連載開始する。 1966年『おそ松くん』ブーム最中書房依頼により赤塚不二夫名義で『シェー!!の自叙伝―ぼくとおそ松くん』を書き下ろす。これが文章本の初めての書き下ろし仕事となるが、文章90ページにしかならず、後半赤塚漫画収録になった1968年フジオプロスタッフ増加に伴いマネージャー役割から外れてアイデアなど漫画制作専任になる。つげ義春『ねじ式』大い衝撃を受ける1969年、『COM』にパロディ漫画『バカ式』(『ねじ式』『天才バカボン』混合)、『ゲゲゲの星』(『ゲゲゲの鬼太郎』と『巨人の星』の混合)などを次々と発表一連の混合パロディ漫画シリーズは、当時流行っていた漫画評論におけるギャグ漫画軽視や、過剰解釈対す強烈なメッセージであった。しかし掲載誌変更に伴いそういったメッセージ性は減少していった。 またこの年朝日ソノラマサンコミックスから筒井康隆原作をもとに長谷邦夫コミカライズした『東海道戦争』出版される1970年赤塚不二夫名義で『ニャロメのうた』『ケムンパスでやんす』で初の作詞挑戦するつづけてココロシャンソン』など赤塚キャラクターソング作詞手掛ける音楽方面仕事きっかけで、井上陽水売り込み相談受けたり山下洋輔面識を得る。 曙出版より『フジオプロ作品集 長谷邦夫盗作全集 バカ式』が発売1971年実業之日本社より『盗作漫画全集 少年マネジン』の単行本が出る。当時パロディ漫画を、自虐的に盗作漫画称していた。 1972年赤塚不二夫責任編集題した雑誌まんがNo.1』が創刊されると編集長任された。しかし赤塚多忙理由編集作業には一切関わらず事実上長谷個人誌のような有様になり、配本不手際な実務不慣れ重なって赤字垂れ流すだけになり、一度利益出さないまま廃刊になった1973年中村誠一から、博多タモリ存在聞かされ興味を持つ。彼を呼び寄せるために新宿バージャックと豆の木」で交通費カンパ募った。やがてカンパ上京してきたタモリの芸に圧倒され赤塚不二夫紹介しようとするが、最初はそんな芸達者素人がいるとは信じようとしなかった。しかしタモリ見た赤塚はたちまちになり、この年離婚をして一人暮らし用に借りていた目白マンションを、無償タモリ提供することになる。 1974年二度目単行本書き下ろし人生破壊学』を発行(赤塚不二夫名義執筆奥成達共同)。 その年、フジオプロ経理担当による数億ともいわれる横領事件が、マネージャー業務を担当していた横山孝雄らの調査により発覚。これによって長谷も含むフジオプロ在籍の各作家印税プール金支払い支障をきたすことになった古谷三敏芳谷圭児らはアシスタント引き連れフジオプロ離脱しファミリー企画設立長谷北見けんいちや、あだち勉斎藤あきらなどと共にフジオプロ残留した1977年3月8日、「赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ」が開催されると、それに出演した1978年長谷赤塚不二夫名義書いた自叙伝笑わず生きるなんて―ぼくの自叙伝』が海竜社より出版される1981年NHK特集現代マンガ家立志伝』で、『ギャグゲリラ』のアイデア会議様子撮影されるまた、取り壊される前のトキワ荘手塚治虫赤塚元住人訪問する際も、通い組としてつのだじろう横山孝雄と共に参加1984年本格長編推理〈私〉小説と銘打ったマンガ殺人事件』を赤塚不二夫名義作品社より出版1988年赤塚自身赤塚作品それぞれ分析するという体裁の『ラディカル・ギャグ・セッション―挑発する笑い構造』を、赤塚不二夫名義書き下ろし河田書房新社より出版される。(同書2018年に『ギャグ・マンガヒミツなのだ!』と改題フジオプロ監修追補再構成され文庫化された)。長谷邦夫としてのエッセイ単行本『1の思想』をMG出版より発表1989年、『まんが「消費税戦略入門―この対策であなたの会社得します』を赤塚不二夫名義ダイヤモンド社より描き下ろす。二ヶ月描き上げるためホテル・カンヅメ生活が続き2月9日亡くなった手塚治虫通夜には行けなかった。3月2日本葬には、赤塚不二夫北見けんいち三人出席した講談社より『赤塚不二夫名画座面白館』を赤塚不二夫名義描き下ろす1990年原作を担当した描き下ろし単行本カーマスートラ』(作画永井豪)、『コミック・スウェデンボルグの大霊界 ヴィジョン1』(作画かきざき和美)が徳間書店より発売される1992年長谷赤塚先輩格だった寺田ヒロオ過度な飲酒の末に亡くなる。同じ頃に赤塚アルコール依存症進行して漫画活動支障を来たすようになり長谷フジオ・プロ退職した退職に至る直接きっかけは、91年から週刊女性連載していたリメイク版へんな子ちゃん』のアイデア会議呼ばれなくなったことによる私物そのまま電話退職伝えた本人は語る。 飛鳥新社の『日刊アスカ』の編集部マンガ顧問務めたが、休刊になったのちは単独仕事をしていた。 1997年冒険社より『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』を発表赤塚不二夫との思い出イラスト漫画交えて表現した1999年、『詩の雑誌 midnight press』にて、ポエトリィ・コミックと題する2ページ漫画連載を開始2004年まで、全20掲載された。 2004年5月に、ノンフィクション小説漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語』を発表赤塚不二夫出会ってから、トキワ荘時代スタジオゼロ経て全盛期フジオプロ時代、そして決別に至るまでの出来事詳細に綴っており、自身による赤塚不二夫論の集大成になり、赤塚ファン関係者の間で話題になる。 この本の出版きっかけに、元赤塚番記者武居俊樹数十年ぶりに面会し自身赤塚との思い出文章にまとめると伝えられる。これは翌2005年に『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』と題した単行本として発表された。この年長谷も、赤塚不二夫生涯を、今度漫画作品赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』として描き下ろした。 2011年12月には『あるマンガ家自伝 三月散歩道』を発表半世紀近い漫画家人生文章で振り返った2012年にはトキワ荘時代棚下照生寺田ヒロオの関係テーマにした、SFパロディ漫画伝説 トキワ荘真実』を発表した。これが最後単行本作品となる。 続いて自信漫画家志すきっかけとなった手塚治虫の「手塚論」の執筆とりかかっているとブログ報告していたが、2013年4月30日脳出血倒れ以後本人変わって長男ブログ代筆するようになる(この時点事実上活動終了となった)。11月には特別養護老人ホーム入所していたことが報告された。 それから5年ほど動静途絶えていたが、2018年11月25日うっ血性心不全のために死去していたことが12月2日公式サイト及び公式ブログにて報告された。81歳没。報告によると、栃木県高根沢町特別養護老人ホーム入所していたが、2017年夏頃に痰の吸引が必要となって町内病院移り誤嚥性肺炎繰り返し身体の衰弱進行して亡くなる半年ぐらい前から心不全状態であったという。 2017年には、西武池袋線椎名町駅自由通路の「椎名町駅ギャラリー」にて、トキワ荘ゆかりの漫画家一人として、「長谷邦夫展」が開催されていた。

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経歴・生涯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 15:07 UTC 版)

バージェス・メレディス」の記事における「経歴・生涯」の解説

メレディスオハイオ州クリーブランドで、カナダ人血を引く父ウィリアム・ジョージ・メレディスと、母アイダ・ベス(旧姓バージェス)の間に生まれた。Hoosac School卒業後、1931年卒業予定クラス一員としてアマースト大学入学したが、1929年にはエヴァ・ル・ガリエンヌがニューヨーク設立したレパートリー・シアターCivic Repertory Theatre一員となったジョン・スタインベック原作1939年公開映画廿日鼠と人間』におけるジョージや、1945年公開の『G・I・ジョウ』におけるアーニー・パイル通信兵などといった役で人気博した後者原作としたコミック・ストリップは後にアクションフィギュア生み出すほどの人気出し1987年にはこのアクションフィギュア元にしたアニメ映画『G.I.ジョー』公開されメレディス悪役ゴロブュラスの声を当てたまた、『セカンド・コーラス』(1940年)で共演したポーレット・ゴダード1944年結婚、『小間使の日記』(1946年)、『我が道は楽し』(1948年)でも共演した。その一方で第二次世界大戦の間はアメリカ空軍従軍し大尉まで昇進した戦後下院非米活動委員会による共産主義者狩り影響ハリウッド映画業界にまで及び、1950年代の間メレディスの名がハリウッド・ブラックリスト載ってしまった。 それから約10年後、メレディステレビドラマシリーズ怪鳥人間バットマン』のペンギンの役で知られるようになった彼のキャラクター人気出たため、メレディス可能な時にはペンギン登場するようにされた。また、ペンギンの総登場回数は他の悪役より多くバットマン初め実写映画になったときもペンギン演じたまた、オットー・プレミンジャー自身監督作品である『野望の系列』(1962年)、『枢機卿』(1963年)、『危険な道』1965年)、『夕陽よ急げ』(1967年)、『Skidoo』(1968年)、『男と女のあいだ』(1971年)にメレディス出演させるほど彼を気に入っていた。なお、プレミンジャー自身もバットマン・シリーズで悪役ミスター・フリーズ」(日本語訳名「冷凍人間」)を演じた何人かの俳優一人でもあった。 メレディスレイ・ハリーハウゼン最後ストップ・モーション映画である『タイタンの戦い』(1981年)に脇役出演したまた、ロッキーシリーズでは主人公ロッキーシルヴェスター・スタローン)のトレーナー、ミッキー・ゴールドミルを演じたメレディス物語の展開上『ロッキー3』で降板するものの、『ロッキー5』(1990年)では、回想という形で短い出番ながらも再登場した。リー・メジャース競演した1981年の映画『ラスト・カーチェイス』では朝鮮戦争時代の古参キャプテンJ・Gウィリアムズ演じた。『トワイライト・ゾーン』とは長いこと親しみがあったため、この作品を基にした映画ではナレーター担当したこの他には『ファール・プレイ』でゴールディ・ホーン家主役を演じた。 『イナゴの日』(1975年)と『ロッキー』(1976年)で、アカデミー助演男優賞2度ノミネートされた。 晩年は『ラブリー・オールドメン』(1993年)とその続編ラブリー・オールドメン/釣り大将LOVE LOVE日記』(1995年)で、ジャック・レモン演じたキャラクター祖父役を務めた1956年昭和31年7月映画東京特ダネ部隊』の日本ロケ1962年昭和37年1月来日している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 06:14 UTC 版)

シルヴァン・レヴィ」の記事における「経歴・生涯」の解説

シルヴァン・レヴィパリ生まれた家族ユダヤ系アルザス人血を引いていた。友人の父がエルネスト・ルナン知り合いであり、ルナン勧めに従って高等研究実習院でアベル・ベルゲーニュにサンスクリット学んだ1884年アジア協会入会しロンドン訪れてインド省所有するインド写本調査行った1885年に『ブリハットカターマンジャリー』の作者クシェーメーンドラを主題として最初論文書いた1888年ベルゲーニュ事故死すると、レヴィその後任として25歳高等研究実習院サンスクリット主任就任した1890年博士学位取得した1894年には高等研究実習院去ってコレージュ・ド・フランスサンスクリット教授就任し没するまでその職にあったレヴィサンスクリット加えてチベット語中国語学びエドゥアール・シャヴァンヌ協力しあって仏教の歴史研究した1897年インドネパール各地訪問した後、日本訪れシベリア経由帰国したレヴィネパール研究大著ネパール』にまとめられた。 1913年トカラ語写本研究のためにサンクトペテルブルク訪れたレヴィユダヤ人権利のために早くから努力した1885年ユダヤ学会に入会し1903年から翌年にかけてその会長つとめたドレフュス事件ではドレフュス擁護する側に立ち、1898年世界イスラエル同盟中央協議会参加した第一次世界大戦中フランスシオニスト協議会のためにエジプト・シリア・パレスチナおよびアメリカ合衆国訪問した。またパリ講和会議には世界イスラエル同盟利益代表として出席した1920年同盟会長選出され没するまでその地位にあったパレスチナユダヤ人国家作ることは西洋ユダヤ人市民権剥奪につながるとして反対した。 1921年に再びインド・ネパール各地訪問した後、東南アジア経由して日本渡った東京帝国大学講義行ったのち、中国ソ連まわって1923年帰国した1925年にはアジア協会副会長1928年からは会長就任した1926年から1928年まで三たび日本滞在し日仏会館初代所長つとめた1927年に「日仏会館学報」を創刊し、また高楠順次郎とともに日本中国文献による巨大な仏教百科事典法宝』の編纂開始した。『法宝』は1937年第4巻出版された後に第二次世界大戦により中断したが、その後再開して1979年第5巻出版、現在も刊行中である。ジャワバリインドネパール訪問した後に帰国した

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