経歴・生涯
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彼は、カテテ地区フェレイラ・ヴィアナ74番地において、父:Sebastião Joaquim de Oliveira(セバスチアゥン・ジョアキン)、母:Aída Gomes de Oliveira(アイダ・ゴメス)の7人兄弟の4番目として生まれた。幼少時から音楽に接して育ち、地域のコルダゥン(チーム)に出入りしてパレードに参加していた。しかし11歳の頃に彼の家計を支えていた祖父が亡くなると、マンゲイラの丘であるキンタ・ダ・ボア・ヴィスタ付近へ移り住んだ。しかし15歳で母親と死別。17歳の時に彼は父親から自活するように言い渡され、家を追い出された。当初、彼は印刷屋に就職したが歌が歌えず口笛も吹けないので辞職し左官として建設現場で働くようになった。前述の通り、彼の愛称名はこの時につけられたものである。 彼が住んでいた地域では、Bloco dos Arengueiros(ブロコ・ドス・アレングェイロス、現在のマンゲイラの前身)が発足。Mestre Candinho(メストリ・カンヂーニョ)が近所の荒くれた若者をまとめていたが、カルトーラもこのブロコに参加し、Chico Porrão(シコ・ポハォン)や、曲作りの盟友であるCarlos Cachaça(カルロス・カシャーサ)たちと共にカンヂーニョを支援していた。翌1928年にブロコはエスコーラへと発展しマンゲイラを結成した。前述の通り、カルトーラは“Mangueira”と命名し、チームーカラーを緑とバラと定め、また彼自身もその音楽面でのリーダーとしてカルロス・カシャーサと一緒に曲を作った。 彼が有名になったのは1929年頃である。この時、カルナヴァルのサンバコンテストでマンゲイラが優勝した。このことで彼は一躍有名になった。また当時の大スターであった歌手、Mário Reis(マリオ・ヘイス)がカルトーラの噂を聞き訪ねてきて、彼の自作曲“Que Infeliz Sorte”を300ミウ・ヘイスで買った。マリオはFrancisco Alves(フランシスコ - 略称:シコ・アルヴィス)とデュエットでこの曲を歌い彼の名前が世に出ることになった。カルトーラはこれに気を良くして、シコ・アルヴィスと同様の契約して“Divina Dama”や“Tenho Um Novo Amor”など多くの自作曲を売った。当時はカルトーラに限らず多くの黒人サンビスタは生活の為に自作した曲を売っていた。 しかし、他の作曲家のサンバは単純で誰でもが覚えやすいものが多い中、彼の曲は独特だったためか、音楽関係者の間では有名になったが、大衆に広く知られるまでには至らなかった。 また、シコと契約したといっても他の黒人の作曲家と同様、いつも金が入ってくるわけではない。そこでNoel Rosa(ノエル・ホーザ)と一緒に、シコに前借りを願い出たりしたが、シコがケチだったので1曲と交換に何らかとしての金を支払うことになった。そこで彼らは近くの居酒屋で“Qual foi o mal que te fiz?”(何か悪いことをしたか? - 1932年)を作ったという。これは当時のカリオカのミュージシャンにおける噂話として伝えられる話である。また、ノエル・ホーザは親友としてカルトーラの曲がコンテストに入選しなかったことを知ると猛烈に抗議したという話もある。 1940年、USAコロムビア・レコードの企画で、レオポルド・ストコフスキー率いるアメリカ青年交響楽団がブラジルで録音する際、ヴィラ・ロボスがカルトーラを紹介した。彼はカシャーサと“Quem me ve Sorrindo”(笑って見ているのは誰?)を演奏、録音した。しかしこれらは常にある仕事ではないため、結局は左官を続けることに変わりなかった。そして、これ以降10年以上、彼は目立った活動がなくなってしまう。 特に1949年、カシャーサとの共作曲が複雑でみんなが歌えないという理由から、ヂレトール(音楽監督)と対立しマンゲイラを離れることになった。当時マンゲイラはじめ多くのエスコーラが肥大化し、この頃から多くのエスコーラのコミュニティーが賭博の元締めによって仕切られるようになるなどの背景にあるとされる。ちなみにカンデイアなどもエスコーラの内紛からポルテーラを離れている。またカルトーラの場合は、当時一緒に暮らしていたデオリンダという女性が亡くなったことも精神的にショックだったという。 また、彼は髄膜炎にかかり、3日間もの間寝たきりで、当時同棲していた女性が彼をニロポリスに運び、そこで回復するまでに1年以上もかかり、杖をついて歩くほどになったこともあったという。足下がふらつき時たまにめまいも起こしていたので、左官の仕事もできなくなり、イパネマで夜警や洗車の仕事をするようになっていた。しかしこの間も作曲は続けていた。ジャーナリストのセルジオ・ポルトは偶然会った彼にこれらの話を聞くと、ラジオに出演させるかわりに、洗車の仕事を辞めて作曲を続けるよう勧め、彼もその助言を受け入れた。 彼は1952年にはマンゲイラの丘へ戻り、次第に体調も回復して官庁に勤めることで定職を得た。そしてDona Zica(ドナ・ジカ、本名:エウゼビア・シゥヴァ・ド・ナシメント)と知り合う。彼は“Arrepiados”、ジカは“Bloco do Seu Júlio”というブロコにそれぞれ参加し、同じ道をパレードしていたことが縁で、一緒に暮らすようになる。なお2人は知り合ってから12年後の1964年に結婚。 そしてまた転機が訪れる。1959年に映画・黒いオルフェの撮影の際、カルトーラとジカは雑用で雇われたが、たまたま映画の1シーンに出演することになった。映画は世界的に大ヒット。いわゆる“リオのカーニバル”が知れ渡ったことで観光局がバックアップした。 これにより彼とジカの家では毎週金曜日にサンバを演奏するようになり、Zé Keti(ゼー・ケチ)やNelson Sargento(ネルソン・サルジェント)、ネルソン・カヴァキーニョなど、多くのサンビスタが演奏するために集まった。 またジカの作る料理が評判を呼び、周囲の助言から1963年に、ZiCartola(ジカルトーラ)という店を開いた。店自体は1965年に閉店してしまうが、サンビスタに限らず、ジャーナリストや知識人、そして国民的大歌手のエリゼッチ・カルドーゾ、またトム・ジョビンやナラ・レオン、カルロス・リラなどのボサノヴァのアーチストなども出入りし、時には即興で出演することも多かった。 特に、Elton Medeiros(エルトン・メディロス)とPaulinho da Viola(パウリーニョ・ダ・ヴィオラ)はジカルトーラで知り合い、以後コンビで数多くのサンバを生み出したことで知られる。 またボサノヴァのアーチストとして知られるナラ・レオンは、すでにこの当時にボサノヴァと決別し、彼女のファーストアルバムにおいてカルトーラの"O sol Nascerá"(日は昇る)を録音し、これがヒットした。この時に得た金で長年大きく腫れていた鼻の手術を行ったというエピソードが残っている。 しかし、景気に左右されジカルトーラが閉店。ベント・ヒベイロ地区にあったカルトーラの父親の家で暮らすようになる。カルトーラには自分の子どもはいなかったが、最初の妻の連れ子・フチ、ジカの連れ子・ヘジーナとその2人の子、ジカの養子・ホナウド、また友人アマデウの娘・クレウーザなどを抱えて養っていたためにいつも生活に苦慮していた。 そんな中さらに転機が訪れる。1970年に“カルトーラは招く”というショーを開催し、リオやサンパウロで学生の支持を得た後、1974年にマルクス・ペレイラのプロデュースでカルトーラが65歳にして初のアルバム“Cartola”を録音、サンパウロでは再びジカルトーラを開店した。また1976年には続編となる2枚目のアルバム“Cartola”を録音、翌1977年には3枚目“Verde Que Te Quero Rosa”、そして1978年には、70歳を迎えたカルトーラのアルバム“Cartola 70 Anos”を発売。リオで70歳を祝うミサが開かれ、ギリェルミ・ジ・ブリートなどの友人や多くのファンが集まって“沈黙のバラ”を大合唱したという。 しかし、1980年11月30日、癌のためリオの病院で死去。翌日の新聞には彼の死を追悼する記事を載せた。彼は毀誉褒貶の激しい人生であったが、いわゆる大器晩成で、最後の数年に4枚のLPを録音しブラジル音楽を語る上で外すことのできないと評される不朽の名作を残した。
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経歴・生涯
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東京府東京市葛飾区(現:東京都葛飾区金町)に生まれ育つ。少年時代は『漫画少年』に投稿。手塚治虫選考の『漫画教室』に投稿した4コマ漫画が2点同時に掲載されたのが初入選だった。 やがて投稿仲間の石森章太郎が主宰する東日本漫画研究会の同人となり、肉筆回覧同人誌『墨汁一滴』の執筆陣に加わる。石森や赤塚不二夫らが住む豊島区椎名町のトキワ荘に出入りしていたため、新漫画党員ではないが広義の「トキワ荘メンバー」に含める場合がある。同じ東日本漫画研究会員で、トキワ荘に入居または出入りしていたメンバーには、横田とくお、横山孝雄、高井研一郎、山内ジョージなどがいた。 1955年の高校三年の夏休みに、東京の小松川で就職をしていた赤塚不二夫と共に、上京してきた石森章太郎を出迎えて、三人で初めて手塚治虫のいた並木ハウスを訪ねた。翌日、石森と二人で初めてトキワ荘を訪れ、寺田ヒロオや藤本弘(藤子・F・不二雄)、安孫子素雄(藤子不二雄A)の三人とも対面する。 同年、『漫画少年』の廃刊の知らせを受けて、赤塚と二人で学童社の編集部を訪ねる。そこで次号が出ていれば、寺田ヒロオ選考の『漫画つうしんぼ』への投稿が入選していた事実を知り怒りに打ち震えた。石森の『二級天使』の原稿を回収。自身の入選作は『墨汁一滴』に掲載した。 東京都立芝商業高等学校を卒業後、塩野義製薬に就職したが、結核の兆候が発見されたため、入社3ヶ月で退職。餞別に抗結核薬のパラアミノサリチル酸カルシウム顆粒の大瓶を貰う。 退職したあとは漫画一本の生活に入る。デビューは若木書房の『爆発五分前』。3冊目からは曙出版を中心に貸本マンガを1964年まで約7年間執筆した。この時期、徳南晴一郎の仕事を手伝ったこともある。 1957年、SF小説同人誌宇宙塵が創刊されると連絡をとり、星新一や光瀬龍らの同人と交流を持った。また主宰の柴野拓美の勧めで同誌において初めて短編小説『石段』を発表する。手塚治虫も参加した日本SF大会の第一回からの参加者でもあり、石森章太郎にも参加するように呼びかけた。 1965年、トキワ荘グループが創立したアニメ企画会社スタジオゼロに藤子・石森に請われて入社する。同社雑誌部のチーフアシスタントになり、『オバケのQ太郎』や『レインボー戦隊ロビン』を手掛ける。また、赤塚の『まかせて長太』のアイデア・アシスタントをよこたとくおと務めた。 同年スタジオゼロの新宿十二社の市川ビル移転に伴い、雑誌部は、藤子スタジオ、つのだプロ、赤塚のフジオ・プロダクションに分割される。長谷はフジオプロ所属となった。この時から古谷三敏と二人で、赤塚作品のアイデア・スタッフを務めるようになる。またマネージャー業務、ペン入れ作業なども手伝い始める。この時期、赤塚不二夫にキャラクターを描いてもらった『しびれのスカタン』を、少年画報で連載開始する。 1966年、『おそ松くん』ブームの最中、華書房の依頼により赤塚不二夫名義で『シェー!!の自叙伝―ぼくとおそ松くん』を書き下ろす。これが文章本の初めての書き下ろし仕事となるが、文章が90ページにしかならず、後半は赤塚漫画の収録になった。 1968年、フジオプロのスタッフ増加に伴い、マネージャー的役割から外れて、アイデアなど漫画制作専任になる。つげ義春の『ねじ式』に大いに衝撃を受ける。 1969年、『COM』にパロディ漫画『バカ式』(『ねじ式』と『天才バカボン』の混合)、『ゲゲゲの星』(『ゲゲゲの鬼太郎』と『巨人の星』の混合)などを次々と発表。一連の混合パロディ漫画シリーズは、当時流行っていた漫画評論におけるギャグ漫画軽視や、過剰解釈に対する強烈なメッセージであった。しかし掲載誌の変更に伴い、そういったメッセージ性は減少していった。 またこの年に朝日ソノラマのサンコミックスから筒井康隆原作をもとに長谷邦夫がコミカライズした『東海道戦争』が出版される。 1970年、赤塚不二夫名義で『ニャロメのうた』『ケムンパスでやんす』で初の作詞に挑戦する。つづけて『ココロのシャンソン』など赤塚キャラクターソングの作詞を手掛ける。音楽方面の仕事がきっかけで、井上陽水の売り込みの相談を受けたり、山下洋輔と面識を得る。 曙出版より『フジオプロ作品集 長谷邦夫*盗作全集 バカ式』が発売。 1971年、実業之日本社より『盗作漫画全集 少年マネジン』の単行本が出る。当時パロディ漫画を、自虐的に盗作漫画と称していた。 1972年に赤塚不二夫責任編集と題した雑誌『まんがNo.1』が創刊されると編集長を任された。しかし赤塚は多忙を理由に編集作業には一切関わらず、事実上は長谷の個人誌のような有様になり、配本の不手際など実務の不慣れも重なって赤字を垂れ流すだけになり、一度も利益を出さないまま廃刊になった。 1973年、中村誠一から、博多のタモリの存在を聞かされて興味を持つ。彼を呼び寄せるために新宿のバー「ジャックと豆の木」で交通費のカンパを募った。やがてカンパで上京してきたタモリの芸に圧倒され、赤塚不二夫に紹介しようとするが、最初はそんな芸達者な素人がいるとは信じようとしなかった。しかしタモリを見た赤塚はたちまち虜になり、この年に離婚をして一人暮らし用に借りていた目白のマンションを、無償でタモリに提供することになる。 1974年に二度目の単行本書き下ろし『人生破壊学』を発行(赤塚不二夫名義、執筆は奥成達と共同)。 その年、フジオプロの経理担当による数億ともいわれる横領事件が、マネージャー業務を担当していた横山孝雄らの調査により発覚。これによって長谷も含むフジオプロ在籍の各作家の印税プール金の支払いに支障をきたすことになった。古谷三敏や芳谷圭児らはアシスタントを引き連れフジオプロを離脱しファミリー企画を設立。長谷は北見けんいちや、あだち勉、斎藤あきらなどと共にフジオプロに残留した。 1977年3月8日、「赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ」が開催されると、それに出演した。 1978年、長谷が赤塚不二夫名義で書いた自叙伝『笑わずに生きるなんて―ぼくの自叙伝』が海竜社より出版される。 1981年、NHK特集『現代マンガ家立志伝』で、『ギャグゲリラ』のアイデア会議の様子を撮影される。また、取り壊される前のトキワ荘を手塚治虫や赤塚ら元住人で訪問する際も、通い組としてつのだじろう、横山孝雄と共に参加。 1984年、本格長編推理〈私〉小説と銘打った『マンガ狂殺人事件』を赤塚不二夫名義で作品社より出版。 1988年、赤塚自身が赤塚作品それぞれを分析するという体裁の『ラディカル・ギャグ・セッション―挑発する笑いの構造』を、赤塚不二夫名義で書き下ろし。河田書房新社より出版される。(同書は2018年に『ギャグ・マンガのヒミツなのだ!』と改題、フジオプロ監修で追補・再構成され文庫化された)。長谷邦夫としてのエッセイ単行本『1の思想』をMG出版より発表。 1989年、『まんが「消費税戦略」入門―この対策であなたの会社は得します』を赤塚不二夫名義でダイヤモンド社より描き下ろす。二ヶ月で描き上げるためホテル・カンヅメ生活が続き、2月9日に亡くなった手塚治虫の通夜には行けなかった。3月2日の本葬には、赤塚不二夫、北見けんいちの三人で出席した。 講談社より『赤塚不二夫の名画座・面白館』を赤塚不二夫名義で描き下ろす。 1990年、原作を担当した描き下ろし単行本『カーマスートラ』(作画・永井豪)、『コミック・スウェデンボルグの大霊界 ヴィジョン1』(作画・かきざき和美)が徳間書店より発売される。 1992年に長谷や赤塚の先輩格だった寺田ヒロオが過度な飲酒の末に亡くなる。同じ頃に赤塚のアルコール依存症も進行して漫画活動に支障を来たすようになり長谷はフジオ・プロを退職した。退職に至る直接のきっかけは、91年から週刊女性に連載していたリメイク版『へんな子ちゃん』のアイデア会議に呼ばれなくなったことによる。机も私物もそのままで電話で退職を伝えたと本人は語る。 飛鳥新社の『日刊アスカ』の編集部・マンガ班顧問を務めたが、休刊になったのちは単独で仕事をしていた。 1997年、冒険社より『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』を発表。赤塚不二夫との思い出をイラストや漫画を交えて表現した。 1999年、『詩の雑誌 midnight press』にて、ポエトリィ・コミックと題する2ページ漫画の連載を開始。2004年まで、全20回掲載された。 2004年5月に、ノンフィクション小説『漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語』を発表。赤塚不二夫に出会ってから、トキワ荘時代とスタジオゼロを経て、全盛期のフジオプロ時代、そして決別に至るまでの出来事を詳細に綴っており、自身による赤塚不二夫論の集大成になり、赤塚ファンや関係者の間で話題になる。 この本の出版をきっかけに、元赤塚番記者の武居俊樹と数十年ぶりに面会し、自身も赤塚との思い出を文章にまとめると伝えられる。これは翌2005年に『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』と題した単行本として発表された。この年は長谷も、赤塚不二夫の生涯を、今度は漫画作品『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』として描き下ろした。 2011年12月には『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』を発表。半世紀近い漫画家人生を文章で振り返った。 2012年にはトキワ荘時代の棚下照生と寺田ヒロオの関係テーマにした、SF・パロディ漫画『伝説 トキワ荘の真実』を発表した。これが最後の単行本作品となる。 続いて自信が漫画家を志すきっかけとなった手塚治虫の「手塚論」の執筆にとりかかっているとブログで報告していたが、2013年4月30日、脳出血で倒れ、以後本人に変わって長男がブログを代筆するようになる(この時点で事実上、活動は終了となった)。11月には特別養護老人ホームに入所していたことが報告された。 それから5年ほど動静が途絶えていたが、2018年11月25日、うっ血性心不全のために死去していたことが12月2日に公式サイト及び公式ブログにて報告された。81歳没。報告によると、栃木県高根沢町の特別養護老人ホームに入所していたが、2017年夏頃に痰の吸引が必要となって同町内の病院に移り、誤嚥性肺炎を繰り返し身体の衰弱が進行して亡くなる半年ぐらい前から心不全状態であったという。 2017年には、西武池袋線椎名町駅自由通路の「椎名町駅ギャラリー」にて、トキワ荘ゆかりの漫画家の一人として、「長谷邦夫展」が開催されていた。
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経歴・生涯
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「バージェス・メレディス」の記事における「経歴・生涯」の解説
メレディスはオハイオ州クリーブランドで、カナダ人の血を引く父ウィリアム・ジョージ・メレディスと、母アイダ・ベス(旧姓バージェス)の間に生まれた。Hoosac Schoolを卒業後、1931年卒業予定クラスの一員としてアマースト大学に入学したが、1929年にはエヴァ・ル・ガリエンヌがニューヨークに設立したレパートリー・シアターCivic Repertory Theatreの一員となった。 ジョン・スタインベック原作、1939年公開の映画『廿日鼠と人間』におけるジョージや、1945年公開の『G・I・ジョウ』におけるアーニー・パイル通信兵などといった役で人気を博した。後者を原作としたコミック・ストリップは後にアクションフィギュアを生み出すほどの人気を出し、1987年にはこのアクションフィギュアを元にしたアニメ映画『G.I.ジョー』が公開され、メレディスは悪役ゴロブュラスの声を当てた。また、『セカンド・コーラス』(1940年)で共演したポーレット・ゴダードと1944年に結婚、『小間使の日記』(1946年)、『我が道は楽し』(1948年)でも共演した。その一方で、第二次世界大戦の間はアメリカ空軍に従軍し、大尉まで昇進した。戦後、下院非米活動委員会による共産主義者狩りの影響がハリウッドの映画業界にまで及び、1950年代の間メレディスの名がハリウッド・ブラックリストに載ってしまった。 それから約10年後、メレディスはテレビドラマシリーズ『怪鳥人間バットマン』のペンギンの役で知られるようになった。彼のキャラクターは人気が出たため、メレディスが可能な時にはペンギンが登場するようにされた。また、ペンギンの総登場回数は他の悪役より多く、バットマンが初めて実写映画になったときもペンギンを演じた。また、オットー・プレミンジャーは自身の監督作品である『野望の系列』(1962年)、『枢機卿』(1963年)、『危険な道』(1965年)、『夕陽よ急げ』(1967年)、『Skidoo』(1968年)、『男と女のあいだ』(1971年)にメレディスを出演させるほど彼を気に入っていた。なお、プレミンジャー自身もバットマン・シリーズで悪役「ミスター・フリーズ」(日本語訳名「冷凍人間」)を演じた何人かの俳優の一人でもあった。 メレディスはレイ・ハリーハウゼンの最後のストップ・モーション映画である『タイタンの戦い』(1981年)に脇役で出演した。 また、『ロッキー』シリーズでは主人公ロッキー(シルヴェスター・スタローン)のトレーナー、ミッキー・ゴールドミルを演じた。メレディスは物語の展開上『ロッキー3』で降板するものの、『ロッキー5』(1990年)では、回想という形で短い出番ながらも再登場した。リー・メジャースと競演した1981年の映画『ラスト・カーチェイス』では朝鮮戦争時代の古参兵キャプテン・J・G・ウィリアムズを演じた。『トワイライト・ゾーン』とは長いこと親しみがあったため、この作品を基にした映画ではナレーターを担当した。この他には『ファール・プレイ』でゴールディ・ホーンの家主役を演じた。 『イナゴの日』(1975年)と『ロッキー』(1976年)で、アカデミー助演男優賞に2度ノミネートされた。 晩年は『ラブリー・オールドメン』(1993年)とその続編『ラブリー・オールドメン/釣り大将LOVE LOVE日記』(1995年)で、ジャック・レモンが演じたキャラクターの祖父役を務めた。 1956年(昭和31年)7月に映画『東京特ダネ部隊』の日本ロケと1962年(昭和37年)1月に来日している。
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経歴・生涯
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シルヴァン・レヴィはパリに生まれた。家族はユダヤ系アルザス人の血を引いていた。友人の父がエルネスト・ルナンの知り合いであり、ルナンの勧めに従って高等研究実習院でアベル・ベルゲーニュにサンスクリットを学んだ。1884年にアジア協会に入会し、ロンドンを訪れてインド省の所有するインドの写本の調査を行った。1885年に『ブリハットカターマンジャリー』の作者クシェーメーンドラを主題として最初の論文を書いた。 1888年にベルゲーニュが事故死すると、レヴィはその後任として25歳で高等研究実習院のサンスクリット主任に就任した。1890年に博士の学位を取得した。1894年には高等研究実習院を去ってコレージュ・ド・フランスのサンスクリット教授に就任し、没するまでその職にあった。レヴィはサンスクリットに加えてチベット語と中国語を学び、エドゥアール・シャヴァンヌと協力しあって仏教の歴史を研究した。 1897年にインドとネパール各地を訪問した後、日本を訪れ、シベリア経由で帰国した。レヴィのネパール研究は大著『ネパール』にまとめられた。 1913年にトカラ語写本の研究のためにサンクトペテルブルクを訪れた。 レヴィはユダヤ人の権利のために早くから努力した。1885年にユダヤ学会に入会し、1903年から翌年にかけてその会長をつとめた。ドレフュス事件ではドレフュスを擁護する側に立ち、1898年に世界イスラエル同盟の中央協議会に参加した。第一次世界大戦中にフランスのシオニスト学協議会のためにエジプト・シリア・パレスチナおよびアメリカ合衆国を訪問した。またパリ講和会議には世界イスラエル同盟の利益代表として出席した。1920年に同盟の会長に選出され、没するまでその地位にあった。パレスチナにユダヤ人の国家を作ることは西洋のユダヤ人の市民権剥奪につながるとして反対した。 1921年に再びインド・ネパール各地を訪問した後、東南アジアを経由して日本に渡った。東京帝国大学で講義を行ったのち、中国・ソ連をまわって1923年に帰国した。 1925年にはアジア協会の副会長、1928年からは会長に就任した。 1926年から1928年まで三たび日本に滞在し、日仏会館の初代所長をつとめた。1927年に「日仏会館学報」を創刊し、また高楠順次郎とともに日本と中国の文献による巨大な仏教百科事典『法宝義林』の編纂を開始した。『法宝義林』は1937年に第4巻が出版された後に第二次世界大戦により中断したが、その後再開して1979年に第5巻が出版、現在も刊行中である。ジャワ、バリ、インド、ネパールを訪問した後に帰国した。
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