経歴・略伝
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1916年(大正5年)6月26日、群馬県勢多郡大胡町(現・前橋市)に生まれる。 1935年(昭和10年)4月、日本国民高等学校入学。同校は、農本主義者で満蒙開拓の中心的推進者であった加藤完治が茨城県の友部町に開設した農業学校で、戸谷はその加藤に師事して農業生産技術や加工技術を学ぶ。 1935年(昭和10年)10月、日本国民高等学校販売部(本部・東京神田岩本町)へ転出。当初、西小山支部、その後、田園調布支部所属。 1937年(昭和12年)満州へ渡り、満蒙開拓ハルビン訓練所入所。 1939年(昭和14年)7月、新京特別市双徳区曲家屯付近に清明村開拓団を作り、団長として入植。 1942年(昭和17年)小平権一満州国参議(元農林次官)、杉野忠夫博士らの勧めにより、千村秋代と結婚。 1945年(昭和20年)敗戦により開拓地を放棄。一時、新京市内にとどまって引き揚げ準備。 1946年(昭和21年)日本へ引き揚げ。国内開拓対策推進準備へ。同年、全国開拓自興会設立に参加し、理事。茨城県開拓自興会副会長。 1946年(昭和21年)11月、茨城県新治郡志士庫村(現・かすみがうら市)の神立地区に入植(新生開拓)。翌年、神立開拓報徳組合を設立して組合長。 1946年(昭和21年)農業協同組合法施行に伴い、神立開拓報徳組合を新生開拓農業協同組合に改組し引き続き組合長。「新生」の名称は志士庫村中学校の生徒達から募集して決定した。 1953年(昭和28年)土浦酪農業協同組合組合長 1957年(昭和32年)日本農業農民団として訪中。国交正常化前の中国において農業情勢を視察するとともに、王震・中華人民共和国農墾部長(当時・後の国家副主席)と会談して、情報交換とともに満州での遺骨収集、家族墓参、残留孤児引き揚げ等について要請。 1961年(昭和36年)全日本開拓者連盟委員長(昭和42年まで) 1963年(昭和38年)全国酪農業協同組合連合会理事 1967年(昭和42年)日本酪農政治連盟委員長。乳価の向上のほか、酪農ヘルパー制度導入などに尽力。 1973年(昭和48年)第一回日本人・中国人遺骨交換代表団として訪中。 1974年(昭和49年)全国開拓自興会(昭和57年以降、全国拓友協会)会長理事。 1975年(昭和50年)日本ホルスタイン登録協会理事 1975年(昭和50年)藍綬褒章(農業功労) 1978年(昭和53年)全国牛乳普及協会理事 1987年(昭和62年)厚生省中国残留日本人孤児調査委員会座長 1988年(昭和63年)勲四等瑞宝章 1990年(平成2年)社団法人日本国民高等学校理事長 2007年(平成19年)老衰のため死去
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経歴・略伝
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1884年(明治17年)1月9日、石黒忠悳の長男として、東京に生まれる。 1896年(明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。 1901年(明治34年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 1908年(明治41年)、第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)を経て東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省。農務局属。 1910年(明治43年)、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 1914年(大正3年)、ヨーロッパに農政を研究するため留学する。 1919年(大正8年)、農務局農政課長。 1924年(大正13年)、農務局小作課長。小作慣行調査、小作調停法案作成に関わる。農林省農務局長、蚕糸局長を歴任。部下に芹沢光治良がいる。 1931年(昭和6年)、農林次官に就任。 1934年(昭和9年)、農林省を退官。農村厚生協会会長、産業組合中央金庫理事長などを歴任。 1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣の農林大臣に就任。 この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。また、戦争に対する態度としては日独伊三国軍事同盟に閣内では唯一最後まで反対していたという。 1941年(昭和16年)、病気のため大臣を辞任、この年父・忠悳が死去したが、父の遺言により子爵の爵位を相続せずに返上している。 1943年(昭和18年)、貴族院勅選議員となる(1月14日、東郷茂徳の誘いで2月5日無所属倶楽部入会)。 1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣の農商大臣に任命される。 1946年(昭和21年)、公職追放される(2月16日に貴族院議員辞職)。 1952年(昭和27年)、公職追放解除後、第2回参議院議員補欠選挙に静岡県選挙区から立候補し、当選する。 1960年(昭和35年)3月10日、死去。享年76。叙従二位、叙勲一等授旭日大綬章。 参議院議員時代は、緑風会に所属し、同会で議員総会議長を務める。憲法調査会委員も務めたほか、戦後も全国農民連合会会長、全国農業会議所理事、全国農業協同組合中央会理事等、農業関係諸団体の要職を歴任した。だが、七高時代からの親友で鈴木内閣で同じ閣僚であった東郷茂徳(元外務大臣、極東国際軍事裁判で有罪となり獄死)との約束を守り、国政上の要職への就任は一切断って農業の再建と平和主義の推進に力を尽くした。 ちなみに憲法27条1項の勤労の義務条項の制定は、敗戦後の混乱下で日本人が二宮尊徳以来の勤労の美徳を失うことを恐れた石黒が友人の代議士の竹山祐太郎に相談して、竹山が勤労の重要性を新憲法でも取り上げるべきだと主張したことがきっかけであったといわれている。
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