経歴・略伝とは? わかりやすく解説

経歴・略伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:15 UTC 版)

戸谷義次」の記事における「経歴・略伝」の解説

1916年大正5年6月26日群馬県勢多郡大胡町現・前市)に生まれる。 1935年昭和10年4月日本国民高等学校入学同校は、農本主義者で満蒙開拓中心的推進者であった加藤完治茨城県友部町開設した農業学校で、戸谷はその加藤師事して農業生産技術加工技術を学ぶ。 1935年昭和10年10月日本国民高等学校販売部(本部東京神田岩本町)へ転出当初西小山支部その後田園調布支部所属1937年昭和12年満州へ渡り満蒙開拓ハルビン訓練所入所1939年昭和14年7月新京特別市双徳区曲家屯付近に清明開拓団作り団長として入植1942年昭和17年小平権一満州国参議(元農林次官)、杉野忠夫博士らの勧めにより、千村秋代と結婚1945年昭和20年敗戦により開拓地放棄一時新京市内にとどまって引き揚げ準備1946年昭和21年日本引き揚げ国内開拓対策推進準備へ。同年全国開拓自興会設立参加し理事茨城県開拓自興会副会長1946年昭和21年11月茨城県新治郡志士庫村(現・かすみがうら市)の神立地区入植新生開拓)。翌年神立開拓報徳組合設立して組合長1946年昭和21年農業協同組合法施行に伴い神立開拓報徳組合新生開拓農業協同組合改組引き続き組合長「新生」の名称は志士庫村中学校生徒達から募集して決定した1953年昭和28年土浦酪農業協同組合組合長 1957年昭和32年日本農業農民団として訪中国交正常化前の中国において農業情勢視察するとともに王震中華人民共和国農墾部長(当時・後の国家副主席)と会談して、情報交換とともに満州での遺骨収集家族墓参残留孤児引き揚げ等について要請1961年昭和36年全日本開拓者連盟委員長昭和42年まで) 1963年昭和38年全国酪農業協同組合連合会理事 1967年昭和42年日本酪農政治連盟委員長。乳価の向上のほか、酪農ヘルパー制度導入などに尽力1973年昭和48年第一回日本人中国人遺骨交換代表団として訪中1974年昭和49年全国開拓自興会(昭和57年以降全国拓友協会会長理事1975年昭和50年日本ホルスタイン登録協会理事 1975年昭和50年藍綬褒章農業功労1978年昭和53年全国牛乳普及協会理事 1987年昭和62年厚生省中国残留日本人孤児調査委員会座長 1988年昭和63年勲四等瑞宝章 1990年平成2年社団法人日本国民高等学校理事長 2007年平成19年老衰のため死去

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経歴・略伝

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石黒忠篤」の記事における「経歴・略伝」の解説

1884年明治17年1月9日石黒忠悳長男として、東京生まれる。 1896年明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校卒業1901年明治34年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校卒業1908年明治41年)、第七高等学校造士館鹿児島大学前身)を経て東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省入省農務局属。 1910年明治43年)、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 1914年大正3年)、ヨーロッパ農政研究するため留学する1919年大正8年)、農務農政課長。 1924年大正13年)、農務小作課長小作慣行調査小作調停法案作成に関わる農林省農務局長蚕糸局長歴任部下芹沢光治良がいる。 1931年昭和6年)、農林次官就任1934年昭和9年)、農林省退官農村厚生協会会長産業組合中央金庫理事長などを歴任1940年昭和15年)、第2次近衛内閣農林大臣就任この間農業報国連盟理事長満州移住協会理事長日本農業研究理事長歴任している。農業振興農村救済取り組み戦前における農政第一人者として「農政神様」と称せられた。また大正末期以降小作立法制定精力費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。また、戦争対す態度としては日独伊三国軍事同盟閣内では唯一最後まで反対していたという。 1941年昭和16年)、病気のため大臣辞任この年父・忠悳が死去したが、父の遺言より子爵の爵位相続せずに返上している。 1943年昭和18年)、貴族院勅選議員となる(1月14日東郷茂徳誘い2月5日無所属倶楽部入会)。 1945年昭和20年)、鈴木貫太郎内閣の農商大臣に任命される1946年昭和21年)、公職追放される(2月16日貴族院議員辞職)。 1952年昭和27年)、公職追放解除後、第2回参議院議員補欠選挙静岡県選挙区から立候補し当選する1960年昭和35年3月10日死去享年76。叙従二位叙勲一等旭日大綬章参議院議員時代は、緑風会所属し、同会で議員総会議長務める。憲法調査会委員務めたほか、戦後全国農民連合会会長全国農業会議所理事全国農業協同組合中央会理事等、農業関係諸団体要職歴任した。だが、七高時代からの親友鈴木内閣で同じ閣僚であった東郷茂徳(元外務大臣極東国際軍事裁判有罪となり獄死)との約束守り国政上の要職への就任一切断って農業再建平和主義推進に力を尽くしたちなみに憲法271項勤労の義務条項制定は、敗戦後混乱下で日本人二宮尊徳以来勤労美徳を失うことを恐れた石黒友人代議士竹山祐太郎相談して竹山勤労重要性新憲法でも取り上げるべきだと主張したことがきっかけであったといわれている。

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