経歴・研究業績
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1898年東京帝国大学理科大学地質学科卒業。工学博士。農商務省技師を経て1918年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科教授に就任。農商務省技師の時代から、日本全国の鉱床、特に黒鉱鉱床の調査を綿密に行い、多くの知見を明らかにしている。平林は当時黒物と呼ばれていた鉱石の鉱床学的特徴を明らかにし,学術用語としての「黒鉱」を定義し、今日一般に使われ、定着している「黒鉱鉱床」なるものの成因解明に端緒を開いた。 平林武の遺族から東京大学総合研究博物館に寄贈された資料は、フィールドノート50余冊、調査した鉱山やダムなどの調査資料・地質図など約1万点、その他講義資料、執筆原稿・別刷り・古写真などからなり、いずれも明治末から昭和初期にかけて、平林が日本の数多くの鉱山やダム工事現場を調査して収集した極めて貴重な資料群である。
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経歴・研究業績
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旧制暁星中学校・第一高等学校を経て、1922年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業、ただちに同学部講師に就任。同時に理学部地質学科大学院に2年間在籍し、教授の加藤武夫や助教授の坪井誠太郎の訓育を受け、また助手であった鈴木醇や坪谷幸六の知遇を得る。1924年に助教授に昇進し、鉱山学科において当時の教授であった平林武を補佐し,鉱物学・地質学・鉱山学などの実習を担当する。 1940年、東京帝国大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「別子鉱山含銅黄鉄鉱ノ研究」。同年6月より、文部省在外研究員としてアメリカ合衆国のカリフォルニア大学に留学するも、1941年11月、日米関係の悪化により派遣された引き揚げ船である龍田丸に乗船して帰国。同年12月に教授に昇進。その後、1959年3月の定年退職まで後進の指導や鉱床学の研究、鉱山学科や関係学会の運営において、大きな足跡を残す。特に博士論文の研究にも関連して、加藤武夫・堀越義一・渡辺武男らと別子鉱山の鉱床学的研究を行い、我が国における研磨薄片による鉱石の検鏡手法を確立したことは特筆に値する。1954~1955年日本鉱山地質学会会長、1953~1955年日本鉱業会会長などを歴任。また、海外製鉄原料委員会・金属鉱物探鉱促進事業団・海外技術協力事業団・アジア経済研究所などに関係し、業界の発展に尽力した。
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経歴・研究業績
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1929年旧制東京府立第五中学校を卒業後、朝鮮の金山や日本の喜茂別・大土森鉱山などに勤務。1940年早稲田大学理工学部採鉱冶金学科に入学、1943年に同学科を修業、1945年に早稲田大学専門部工科講師となる。1949年4月新制大学発足に伴い理工学部鉱山学科講師となり、同年10月助教授に昇進。1950年同大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「松尾硫黄鉱床の成因と採鉱」。退任まで鉱物学実験・岩石学実験などを担当、該博な知識と長年の実務経験を生かし、多くの学生を育てる。また、松尾鉱山・幌別鉱山などの硫黄鉱床の研究に力を注ぐとともに、浮選法・精錬法などの鉱業技術の開発研究や、鉱物の物理・化学的諸性質の解明と鉱山工学への応用などに多大の貢献をした。1957年国連の技術援助局派遣の硫黄鉱業指導者としてチリに赴き、以来数度にわたって南米各国の硫黄鉱業の技術指導に当たった。1962年アルゼンチン共和国政府の懇望により、陸軍省軍需局顧問となり、早稲田大学を退任。1965年同国南部国立大学地質学科教授に就任し、後進の研究指導と同国の資源開発研究に大きな足跡を残した。1977年バイアブランカ市にて病没。享年66。勲四等瑞宝章が贈られている。
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