若乃花幹士 (初代)とは? わかりやすく解説

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若乃花幹士 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 14:53 UTC 版)

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、青森県弘前市青女子(あおなご)出身で、入門当時は二所ノ関部屋1953年花籠部屋の独立とともに移籍)に所属した大相撲力士、第45代横綱。本名は花田 勝治(はなだ かつじ。身長179cm、体重107kgで、血液型はB型。弘前市名誉市民。通称土俵の鬼と呼ばれ、戦後最軽量横綱[3]である。 引退後二子山部屋を創設し、のち弟でもある大関初代貴ノ花(のち藤島二子山)、横綱・2代目若乃花(のち間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(のち松ヶ根二所ノ関)らを育て、日本相撲協会の理事長も務めた[1]


注釈

  1. ^ 韓国名・朴祐賛。1972年7月誕生、韓国・ソウル生まれ。1985年12月に養子縁組を行い13歳で日本へ移住。引退後の2002年5月に父・初代若乃花から認知してもらい、花田河成を名乗ると同時に帰化。その後、起業して日韓を往来している。自著『花田家の隠し子―アボジと呼ばせて』(主婦と生活社)では、移住してから民族差別を受けたことで素行が荒れた結果として高校進学が困難になったため藤島部屋に身を寄せ、大相撲時代には従兄にあたる3代目若乃花の付き人を務めていたことが語られている。暴露の内容としては嫡外子、そして韓国人としての境遇を強いた父・初代若乃花への恨みがつづられており、自身が引退したと同時に初代若乃花が若剛志の母への仕送りを打ち切ったことが認知を求める動機であったとも明かされている。他に、3代目若乃花が遺産を相続放棄した背景には初代若乃花が入れ知恵をしたという説も唱えている。叔父であり師匠でもあった貴ノ花や当時女将を務めていた藤田紀子、従兄弟の3代目若乃花、貴乃花兄弟への恩義も語られている。なお、若剛志が入門当時に実は当時の相撲協会理事長の隠し子であるという素性を協会関係者で知っていたのは身内である師匠で叔父の貴ノ花と女将の藤田紀子、師匠夫妻の息子で若剛志から見れば兄弟子で従兄弟の3代目若乃花と貴乃花だけで、他の部屋及び協会関係者には素性は秘密になっていた。ただし、父親が協会を定年退職後に相撲博物館館長に就任前後から父親自ら息子だと漏らす様子があり、同じ二所一門の行司で花田家とも親しい間柄だった29代木村庄之助に呼ばれて小遣いを頂いた(29代庄之助は初代若乃花と少年期に同じ釜の飯を食べた仲で、29代庄之助の弟子の12代式守錦太夫が若剛志と同期入門)エピソードがあったそうである。
  2. ^ 「私が軍隊から戻って一番元気なときだよ。若乃花は上背はあったがせいぜい70キロ台、こっちら22~23歳で100キロ近くあって鍛えに鍛えていたからね。17~18歳の細っこいアンちゃんじゃ勝てっこないよ」(横尾一彦「マルゼンスキー(1) やっぱりダービーを走らせたかった」『優駿』1994年8月号、日本中央競馬会、1994年、p.77)
  3. ^ 当時TBSの大相撲担当アナウンサー・小坂秀二の著書「栃若時代」によれば、この時若乃花宅の玄関先で偶然、旅装の一家に出くわし、出発を止めたのは小坂自身である。
  4. ^ 昭和生まれの決定戦出場は同年1月場所での鶴ヶ嶺が第1号。横綱鏡里に破れ優勝同点。
  5. ^ 通算対戦成績は若乃花の20勝11敗3分。横綱昇進後も9勝4敗1分で金星を2個提供した。
  6. ^ 実弟貴ノ花、甥の貴乃花も1場所2度の不戦敗を記録したことがある。
  7. ^ 当時の内規では横綱推薦には横審の全会一致が必要であった。
  8. ^ のちに甥である3代若乃花が昭和に初土俵を踏んだ最後の横綱となる。
  9. ^ 厳密には時津風の命を受けて12代立田川が指導を行った形である。角界の伝統により、一門に横綱土俵入りを指導する協会在籍の横綱経験者がいないために一門の行司が横綱土俵入りを指導する場合もある。
  10. ^ この時の横綱土俵入りの指導が、後に 2代若乃花貴乃花と二所ノ関一門内を伝わり、さらに2014年3月場所後の鶴竜に伝えられたことで、元の時津風一門に還元された。鶴竜の際も一門内では柏戸以来45年ぶりの横綱誕生だったため、指導する先輩横綱がおらず、貴乃花が引き受けることになったためである。
  11. ^ 横綱に昇進したのが共に29歳で円熟期に入った辺りであり、栃錦の場合は同じ出羽海一門千代の山雅信が自身より年少で栃錦より先に横綱に昇進しており、幕下以下の時代も千代の山が当初から注目されていたのに対して、栃錦はあまり注目はされていなかった。若乃花にしても、千代の山は1歳年上なだけで、当初は栃若ではなく千代の山が一時代を築くと思われた。その為、栃錦、若乃花共に千代の山を凌駕する横綱となり、千代の山の方が栃若時代の脇役横綱になるとは予想されていなかった。
  12. ^ 参考資料 『KINENOTE』のその項その他により、「アラモ」の日本封切り年月日は1960年12月24日であるため、明らかにこれは誤りである。
  13. ^ 同場所の横綱の並びは東正位から栃錦、朝汐、若乃花の順。朝汐が皆勤していたら千秋楽結びの一番は栃錦対朝汐となるのが一般的。
  14. ^ 結局若乃花より先に引退する。
  15. ^ 2018年現在の記録保持者は白鵬翔(2018年9月場所で1000勝到達)
  16. ^ 一方で二子山(若乃花)の現役中に土俵入りの指導を受けた大鵬幸喜は「目の位置や出から終わりまでの間合いなど文字通り手取り足取りで若乃花関に指導された」と『大鵬自伝』(大鵬幸喜著、ベースボールマガジン社刊、1972年)、P120-P121に記している。
  17. ^ この時の理事就任は理事就任前年にそれまで二所一門から理事を務めていた二所ノ関が死去して二所一門の理事枠に空きが出た為に就任したものだが、二子山と同じ阿佐ヶ谷系には師匠の花籠が理事に就任していた為、本家系の大鵬を推す声もあったが、二所ノ関部屋の後継のゴタゴタ騒動で本家系は理事を擁立出来ず二子山が就任して阿佐ヶ谷系から理事を2人選出となった。大鵬は1980年の理事改選で花籠が次の改選までに停年を控えていた為に理事を退任したのを受けて理事に就任した。
  18. ^ なお、二子山の後に理事長を務めた出羽海→境川理事長(元横綱・佐田の山)とその後任の時津風理事長(元大関・豊山)は二子山より先に理事に就任している。(出羽海は1974年、時津風は1970年に理事に就任)その為、二子山が事業部長の時代も番付等の協会理事の一覧は理事長以外は就任順に記載される為にこの2人の方が二子山より先に記載されていたが、1986年に二子山が理事長代行の肩書きが付いてからは理事長の次に二子山が記載に変更された。(1980年の改選後から1986年の改選までは春日野理事長の次に立浪(元関脇・安念山、時津風と同じ1970年に就任)、時津風、高砂(元横綱・朝潮1972年に就任)、出羽海、二子山の順に記載されていた)ただし、それ以前から協会理事全員での写真撮影や様々な行事で並ぶ時は春日野理事長、二子山事業部長と並び、その後にそれ以外の理事が理事就任順に並ぶ形になっていた。現在は理事就任順関係無しに理事長経験者が現職理事にいなければ理事長の次に事業部長が記載されている。理事長経験者が現職理事にいた場合は理事長経験者の次に事業部長となっている。
  19. ^ 年寄名跡の交換によって実弟貴ノ花に二子山を継がせた上で、それまで二子山部屋の所属だった力士などを藤島部屋の建物に移籍させ、看板を替えて「新生」二子山部屋とした。旧・二子山部屋はそのまま初代若乃花の専用自宅となった。
  20. ^ 通例では、部屋の存続として、部屋付き親方を新師匠として継承させる、もしくは部屋内部に適任者がいなければ同じ一門の親方を迎え入れて擁立するという形が多い。こうした継承が叶わない場合は部屋の存続を断念し、一門内の違う部屋へ力士などをまるごと移籍させることになる。そうなれば移籍した力士たちの所属は、当然、移籍先の部屋名に変わるのが通常である。しかしこの1993年の二子山継承では、年寄名跡の売買価格が特に高騰していた時期にあって、二子山の名跡も部屋本体もスムーズに継承させることは困難であった。そのため、若貴全盛期で部屋の隆盛を誇っていた実弟の藤島部屋の看板を替えさせてまでも、二子山の名跡と部屋をセットで継承させる結果となった。こうした苦肉の策により、一代で名門に築き上げられた二子山部屋の看板が維持されたが、皮肉にもこのことが3年後の申告漏れ発覚、そして兄弟そろっての要職辞任にもつながった。
  21. ^ なお、初代梅ヶ谷の生年月日をグレゴリオ暦に直した場合、梅ヶ谷最後の誕生日が若乃花の生年月日である。
  22. ^ 玉の海の死去は1971年10月11日。
  23. ^ 春日野部屋に栃ノ海が入門時は先代の栃木山守也が師匠で、栃ノ海が入門当初は栃錦は兄弟子で師匠の死去で預かり弟子として栃錦が師匠となった。栃錦が春日野部屋を継承した時点での栃ノ海は十両だった。当時の栃ノ海は本名の花田が四股名であり、栃ノ海に改名したのは栃錦が師匠となってからで、花田の四股名は自身の弟の貴ノ花利彰も入幕当初まで名乗っていた。
  24. ^ 但し、栃ノ海は初代若乃花及び初代貴ノ花とは親戚関係ではない。
  25. ^ 二男の花田浩は東京ガスで執行役員まで進み(2018年)、2021年には同社硬式野球部部長として都市対抗野球大会初優勝に立ち会った。
  26. ^ 朝汐若羽黒と優勝決定戦
  27. ^ 大晃と優勝決定戦
  28. ^ 扁桃腺炎により13日目から途中休場、千秋楽不戦敗
  29. ^ 栃錦と優勝決定戦
  30. ^ 気管支肺臓炎・蓄膿症により3日目から途中休場
  31. ^ 腰椎捻挫により9日目から途中休場
  32. ^ 左肩胛関節炎により7日目から途中休場
  33. ^ 急性肝臓炎・気管支炎・腰椎炎により2日目から途中休場
  34. ^ 5月場所前に引退を表明

出典

  1. ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p22
  2. ^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』21ページから22ページ
  3. ^ 歴代横綱一覧
  4. ^ a b c d e f 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)57ページから59ページ
  5. ^ a b 荷役で鍛えた下半身 土俵の鬼、「栃若時代」築く 元横綱初代若乃花が死去(1/2ページ) 日本経済新聞 2010/9/1 22:05
  6. ^ 《三代で家業消滅》「これからは父とも兄とも思うな」「縁を切って敵だと思え」花田家が角界から去るまでの波乱万丈すぎる軌跡 (1/6ページ) 文春オンライン 2022/01/13 『人間晩年図巻 2004-07年』より一部抜粋 (2023年5月26日閲覧)
  7. ^ a b 日本経済新聞1988年(昭和63年)2月7日「私の履歴書」
  8. ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ
  9. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p69-70
  10. ^ 【連載 名力士ライバル列伝】横綱初代若乃花編 最大の壁、横綱千代の山雅信 BBM Sports 2020-10-16 (2020年10月21日閲覧)
  11. ^ 昭和の大関昇進口上は短め…輪島は“ド忘れ” Sponichi Annex 2011年12月1日 06:00
  12. ^ 日本経済新聞1988年(昭和63年)2月17日「私の履歴書」
  13. ^ a b c 杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11
  14. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p53
  15. ^ 朝日新聞1958年1月29日付朝刊一面
  16. ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p62
  17. ^ 視点・論点「大鵬の時代」 NHK解説委員会 2013年2月06日(水) 東京工業大学名誉教授・芳賀綏の記述
  18. ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P185
  19. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p44-46
  20. ^ 参考資料:『相撲』2012年3月号83頁
  21. ^ 「“土俵の鬼” 引退!」相撲 昭和37年6月 夏場所総決算号 ベースボールマガジン社
  22. ^ 花籠昶光『横綱づくりの秘伝 : 私の相撲自伝』 ベースボール・マガジン社 P95
  23. ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』P67~73「本家に勝る隆盛誇った阿佐ヶ谷勢、有為転変の歴史 花籠部屋・二子山部屋」大見信昭
  24. ^ 花籠昶光『横綱づくりの秘伝 : 私の相撲自伝』 ベースボール・マガジン社 P97
  25. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社
  26. ^ 『大相撲中継』2017年5月27日号91頁
  27. ^ 時事ドットコムニュース 「鬼」と「おしん」と稀勢の里
  28. ^ 「負けるも勝ち」p120~121
  29. ^ a b 石井代蔵「土俵の修羅」
  30. ^ 鹿島の軌跡 第26回 国技館―伝統と技術が融合した相撲の殿堂
  31. ^ 時事ドットコム 「コラム 国技館100年
  32. ^ NHK特集 栃若 ~新国技館を動かす親方たち~ NHKアーカイブス
  33. ^ "土俵の鬼 若乃花死す「稽古がすべて」". ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 2 September 2010. 2021年7月22日閲覧
  34. ^ 小坂秀二『大相撲ちょっといい話』文春文庫P129
  35. ^ 若乃花の呼び戻し
  36. ^ 「若乃花一代記」から盛り上がった甚句人気 神田雑学大学講義録 2003年11月21日付
  37. ^ "前相撲診療所長の林盈六さん 当時の条件は「大関待遇だった」". 日刊ゲンダイ. 株式会社日刊現代. 25 May 2015. pp. 1–4. 2020年7月9日閲覧
  38. ^ 週刊新潮1991年9月36号P144~147 「二子山親方が暗示した「八百長」で汚れた「取組」」
  39. ^ 八百長の有無「待ったなし」 新「証拠」のインパクト J CASTテレビウォッチ 2008/10/25 08:01
  40. ^ [1] 実際の録音を扱った動画]
  41. ^ 2011年2月12日 NHKスペシャル『八百長はなぜ起きたのか』二子山理事長の発言
  42. ^ 『相撲』2013年12月号92頁
  43. ^ 大相撲酒豪番付2014年東銀座場所 時事ドットコム
  44. ^ 花籠 昶光 『横綱づくりの秘伝 : 私の相撲自伝』 ベースボール・マガジン社P36
  45. ^ a b 石井代蔵『大関にかなう』(文春文庫、1988年)
  46. ^ 荷役で鍛えた下半身 土俵の鬼、「栃若時代」築く 元横綱初代若乃花が死去 日本経済新聞 2010/9/1 22:05 (2/2ページ)
  47. ^ 石井代蔵『大相撲親方列伝』(文春文庫、1993年)
  48. ^ 【私の“奇跡の一枚” 連載86】空前絶後! ジェット機で天翔けた『異能横綱』 BBM Sports 2020-09-22 (2020年10月21日閲覧)


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