昭和19年 (きのえさる 甲申)
年(年号) | |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック |
1944年
(昭和19年 から転送)
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1944年(1944 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。昭和19年。
- ^ “第六垂水丸慰霊碑”. 垂水観光協会 (2012年9月1日). 2022年1月16日閲覧。
- ^ 猫田勝敏 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2021年2月13日閲覧
- ^ 早稲田大学百年史 第四巻/第八編 第十八章
- ^ 手塚治虫『手塚治虫漫画全集 9 地球の悪魔』講談社、1977年、60,61頁。ISBN 978-4-06-108609-8。
- ^ アイザック・アシモフ『アシモフ初期作品集3 母なる地球』早川書房、1996年、221-224,231頁。ISBN 978-4-15-011155-7。
- ^ アイザック・アシモフ『アシモフの科学エッセイ7 たった一兆』早川書房、1985年、203-205,211,213頁。ISBN 978-4-15-050027-6。
昭和19年(1944年)
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「第九三八海軍航空隊」の記事における「昭和19年(1944年)」の解説
1月18日 チョイスル島守備隊の撤退に協力。21日まで防空哨戒・魚雷艇掃討に従事。 2月20日 第二五三海軍航空隊の撤退をもって「ラバウル航空隊」消滅。 3月10日 第十七軍のタロキナ攻撃を上空支援。 3月15日 ブインに進出、以後月2回程度のペースでブーゲンビル島周辺の哨戒・ラバウルへの物品輸送に従事。 8月4日 連絡のためトラック環礁へ1機出発。無事往復(九五八空と九三八空のどちらの水偵かは不明) 12月10日 解隊。 装備が払底し、機体を九五八空に譲って解散した。要員は内地帰還ができず、ラバウルにとどまり、12月1日に新編した陸戦隊の「第八五警備隊」に編入されて終戦を迎えた。この八五警はニューギニアのフィンシュハーフェンの戦いに参加した初代とはまったく別物の二代目である。
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昭和19年
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「第十四航空隊 (2代)」の記事における「昭和19年」の解説
1月 クェゼリン環礁・エニウェトク環礁攻略に備えてマーシャル諸島への空襲激化。 2月2日 トラック環礁に3機進出。マーシャル諸島各地の残存航空要員を5日間で収容。 鴨司令は救出を断固拒絶し、40名の要員を優先的に収容させ、2月13日の艦砲射撃で戦死。 2月12日 八〇一空2機と共同で1機がクエゼリン環礁ルオット島を空襲。 4月1日 サイパン島で解隊。残存機は八〇一空に合流。 飛行艇の運用が困難になったうえに、「あ号作戦」準備のためにマリアナ諸島には多数の陸上機部隊が集結し、飛行艇に割く物資および人員が確保しにくくなった。実戦に向かない八〇二空は内地に送還され、本土近海の哨戒活動に充てるために八〇一空に合流した。
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昭和19年(1944年)
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「第一四一海軍航空隊」の記事における「昭和19年(1944年)」の解説
10月11日:南西諸島機敵機動部隊接近。戦闘804飛行隊を含む派遣隊機全機で索敵。
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昭和19年
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1944年(昭和19年)8月20日の第三十一戦隊新編時、第三十一戦隊旗艦の「五十鈴」は横須賀での修理・改造が完了しておらず(9月14日、改装終了)、第三十一戦隊司令部は呉鎮守府の一角を借りして事務をおこなった。9月7日、豊田連合艦隊司令長官は連合艦隊電令作第292号をもって敵潜掃蕩部隊 (SCB) を編成し、第三十一戦隊と第三南遣艦隊麾下の第21駆潜隊に対し「(一)敵潜撃滅、(二)機動部隊および補給部隊護衛、(三)艦隊泊地警戒、(四)海上交通保護 」を命じた。だが戦局の急転により、統一行動をとったことはなかったと思われる。 10月17日、連合軍はフィリピン中部のスルアン島に大部隊を展開し、上陸作戦を開始した。連合艦隊司令部は、当時内海西部にあった第三十一戦隊を機動部隊本隊(指揮官:小沢治三郎第三艦隊司令長官)の警戒部隊に編入した(GF電令作第356号)。これは、機動部隊本隊の警戒兵力であった第二遊撃部隊を台湾沖航空戦における「残敵掃蕩」のため出撃させたため、機動部隊の護衛が足らなくなったための措置である。 10月18日午後5時、日本軍は捷一号作戦を発動する。翌日、第三十一戦隊は旗艦を「五十鈴」から軽巡洋艦「大淀」に変更した。10月20日夕刻、小沢機動部隊として豊後水道を出撃した。第三十一戦隊の任務は、第三艦隊を基幹とする機動部隊の護衛であった。軽巡洋艦や駆逐艦は機動部隊本隊の直衛を担当し、海防艦部隊は燃料補給部隊の護衛をおこなった。第一補給部隊(タンカーたかね丸、海防艦〈22号、29号、33号〉)・第二補給部隊(タンカー仁栄丸、駆逐艦秋風、海防艦〈31号、43号、132号〉)という編成である。10月25日のエンガノ岬沖海戦で、小沢機動部隊は空母を含め7隻を喪失する。第三十一戦隊は損傷艦こそあったものの、沈没した艦はいなかった。第二補給部隊の仁栄丸は10月25日に米潜水艦(スターレット)によって撃沈され、第一補給部隊のたかね丸も10月31日に米潜水艦複数隻の襲撃により撃沈された。 レイテ沖海戦後、「大淀」と「若月」は奄美大島からフィリピンへ再進出を命じられたため、小沢機動部隊司令部は「大淀」から「日向」へ、第三十一戦隊司令部は「大淀」から「五十鈴」へ移動した。第三十一戦隊は小沢艦隊残存艦と内地に戻って補給と修理をおこなう。その後「南方輸送部隊H部隊」として、南西方面への輸送任務に従事する。第三十一戦隊司令官指揮のもと、第四航空戦隊(日向、伊勢)と軽巡「五十鈴」および駆逐艦複数隻(霜月、梅、桐、桃、桑、杉)は再び南西方面へ進出する。三十一戦隊はマニラ到着をもって、南西方面部隊に編入されることが発令されていた(11月5日)。 南方輸送部隊H部隊は新南群島で待機中、四航戦等はリンガ泊地へ、第三十一戦隊はマニラへ向かうことになった。11月19日、三十一戦隊旗艦「五十鈴」はコレヒドール島沖合で米潜水艦・ヘイクの雷撃により、艦尾切断の大損害を受けた。11月20日、第五艦隊麾下の第一水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)が第二水雷戦隊と統合される形で解隊されると、第三十一戦隊は一水戦の代わりの駆逐艦部隊として第五艦隊に編入された。以後、第三十一戦隊は本格的に多号作戦に従事する。多号作戦とは、ルソン島マニラからレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力増援作戦である。 11月22日、「五十鈴」は駆逐艦「桃」に護衛されてシンガポールに到着した。第三十一戦隊司令部は秋月型駆逐艦の「霜月」(第二水雷戦隊・第41駆逐隊所属)に旗艦を変更した。24日午後、江戸少将は「桃」を率いてシンガポールを出発、ブルネイに向かう。11月25日未明、「霜月」は米潜水艦・カヴァラに撃沈される。霜月沈没により、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将をふくめ戦隊司令部は全滅した。そこで同年12月1日、鶴岡信道少将を新任司令官として内地で第三十一戦隊司令部が再建され、12月22日に空路でマニラに進出した。この間、「五十鈴」はシンガポールからスラバヤに回航され、同地で修理をおこなった。 同年12月5日、北東方面艦隊の解隊にともない第五艦隊は南西方面艦隊に編入された。12月8日には麾下の第933海軍航空隊がルソン島北部カナンカに進出したが、護衛関係航空部隊の大規模な整理統合に伴い、第三十一戦隊から除かれて第936海軍航空隊に吸収された。多号作戦に投入された第三十一戦隊の駆逐艦は次々に被害をうけた。同年12月15日、連合軍はミンドロ島に上陸してミンドロ島地上戦がはじまり、多号作戦は中止された。第三十一戦隊のうち3隻(榧、杉、樫)は様々な事情を経たあと、第二遊撃部隊および第二水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下に入り、礼号作戦部隊として、12月28日深夜の礼号作戦に参加した。
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昭和19年
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1943年(昭和18年)12月12日、第61駆逐隊司令は大江大佐から泊満義大佐(海兵46期)に交代した(大江大佐は12月26日附で重巡洋艦摩耶艦長)。 修理後の12月23日-24日、第61駆逐隊(涼月、初月)はウェーク島(当時の日本側呼称は大鳥島)に送られる独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力(九五式軽戦車装備)を乗せた特設巡洋艦赤城丸(日本郵船、7,389トン)を護衛して瀬戸内海を出撃し、1944年(昭和19年)1月1日にウェーク島へ到着した。1月9日、呉に帰投して第一回ウェーク島輸送を終えた。1月10日附で、涼月駆逐艦長は赤澤次壽雄大佐から瀬尾昇中佐(海兵51期。瀬尾は、太平洋戦争開戦時の駆逐艦時雨艦長)に交代する。 1月15日夜、第61駆逐隊(涼月、初月)は砲兵大隊・工兵隊・衛生隊を乗せた赤城丸を護衛し瀬戸内海を出撃、第二回ウェーク島輸送を実施する。豊後水道を通過後の1月16日10時45分ごろ、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度15分 東経132度26分 / 北緯32.250度 東経132.433度 / 32.250; 132.433もしくは北緯32度15分 東経132度29分 / 北緯32.250度 東経132.483度 / 32.250; 132.483、沖の島西方海上に差し掛かったところでアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けた。スタージョン (USS Sturgeon, SS-187)は艦首発射管から魚雷を4本発射し、4つの命中音を確認した。魚雷は涼月の前部と後部に1本ずつ命中。火薬庫を誘爆させて前部は二番砲塔後ろの61番フレームから前を、後部は第四砲塔後部の166番フレームから後ろを失った。また前部被雷による大爆発で艦橋が破壊された。目撃していた田口正一大佐(初月艦長)は「涼月轟沈と思った」と回想している。泊(第61駆逐隊司令)や瀬尾(涼月艦長)以下約130名が戦死(便乗陸兵150名中、89名戦死、重傷9名)。生存者約100名の中で、最上級者は掌機長の機関特務中尉だった。大損害を受けた涼月は初月に曳航されて退避を開始。宿毛湾に到着後、電纜敷設艇釣島と特設掃海艇第六玉丸(西大洋漁業、275トン)の協力を得て、1月19日呉へ帰投した。調査した造船士官は、艦橋下方後部寄りの第一缶室の隔壁が設計通りの強度を示したため沈没を免れたと述べている。涼月修理を担当した福井静夫(当時、造船設計担当部員)も、同様に「沈まなかったのが不思議であった」と回想している。 1月19日から呉海軍工廠において復旧工事が行われた(8月3日まで)。この復旧に際し、外見上の特徴となる直線形状の艦首、角ばった艦橋を持った。涼月大破時に戦死した泊大佐(海軍少将へ進級)の後任として、3月20日附で天野重隆大佐(海兵47期、前職第10駆逐隊〈秋雲、風雲、朝雲〉司令)が第61駆逐隊司令に任命され、後任の第10駆逐隊司令は赤澤大佐(涼月初代艦長)となった。6月10日、倉橋友二郎大尉(ミッドウェー海戦時の駆逐艦萩風砲術長)は涼月砲術長に任命される。同月下旬、吉岡欽一郎大尉が涼月航海長、澤岡信男大尉が涼月水雷長に、それぞれ補職。7月7日附で、天野大佐(第61駆逐隊司令)は、61駆司令と涼月艦長の兼務を命じられた。7月10日、涼月駆逐艦長を杉谷永秀中佐(海兵51期。杉谷は、駆逐艦黒潮沈没時の艦長)とする人事が発令される。8月3日、涼月の修理は完成した。戦列復帰後の涼月は、瀬戸内海で訓練を行う。 10月中旬、61駆2隻(涼月、若月)は第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)より、大分から台湾の基隆への輸送(艦載機基地用物件および人員)を命じられる。台湾沖航空戦の最中であり、また悪天候の豊後水道を夜間通過することになるため、涼月幹部達は小沢艦隊司令部に猛抗議したものの却下された。10月16日22時10分、北緯31度29分 東経131度54分 / 北緯31.483度 東経131.900度 / 31.483; 131.900の都井岬沖を航行中の61駆(若月、涼月)は、アメリカの潜水艦ベスゴ (USS Besugo, SS-321) の雷撃に遭った。ベスゴは浮上攻撃にて「ジグザグ航行をしている2隻の重巡洋艦」に対して艦首発射管から魚雷を6本発射、2分後、「重巡洋艦」の艦橋前に命中の水柱が立つのを見た。涼月側は電波探知機(逆探)でベスゴのレーダーを探知していたが、悪天候のため雷跡を発見するのが遅れたのである。この攻撃で艦首と一番砲塔下左舷に魚雷が命中し、艦首部は18番フレームから前を切断。一番砲塔下に命中した魚雷は不発だったが、船体に亀裂を生じさせた。戦死者2名。涼月は九州沿岸沿いに北上して呉に退避する。10月17日から11月11日まで呉海軍工廠で修理を受けた。 この頃、秋月型駆逐艦8番艦冬月(第41駆逐隊)もアメリカの潜水艦トレパン (USS Trepang, SS-412)の雷撃で艦首を喪失しており(10月12日、被雷損傷)、秋月型2隻(涼月、冬月)は並んで修理を受けた。修理中の10月24-26日に起きたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗。第61駆逐隊では小沢機動部隊に所属していた2隻(秋月、初月)が沈没し、天野駆逐隊司令も戦死した。11月8日、秋月型2隻(涼月、霜月)は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向、伊勢)と共にシンガポール〜リンガ泊地へ進出予定であったが、出撃直前に涼月の新造艦首部分で浸水事故が発生、本艦は出撃機会を逸した。その後、霜月(第41駆逐隊)は第三十一戦隊旗艦として行動中、11月25日にボルネオ島方面で米潜水艦に撃沈された。 11月15日附で第61駆逐隊は解隊され、涼月と若月(多号作戦に参加して11月11日に沈没、書類上在籍)は、秋月型2隻(冬月、霜月)の第41駆逐隊に編入された。第41駆逐隊司令は脇田喜一郎大佐(海兵48期)であった。だが霜月も11月25日に米潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS-244) の雷撃で撃沈され(前述)、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将戦死、脇田(41駆司令)と畑野健二少佐(霜月艦長)も戦死した。第41駆逐隊は秋月型2隻(涼月、冬月)で行動することになった。なお同日附で第十戦隊も解隊されており、第17駆逐隊や第41駆逐隊等の残存部隊は以降第二水雷戦隊(司令官不在)に編入された。上記のように被雷と損傷修理のため、秋月型2隻(涼月、冬月)はマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦には参加できなかった。また、多号作戦支援部隊に編入されていたが、実際に作戦には投入されなかった。 11月中旬、戦艦3隻(大和、長門、金剛)の内地帰投に際し、第41駆逐隊(涼月、冬月)は大和型戦艦1番艦大和(艦長森下信衛大佐)を豊後水道まで出迎えた(戦艦金剛は台湾沖で沈没。戦艦長門および第17駆逐隊は横須賀回航)。大和便乗中の宇垣纏中将は「GFは特に文月、涼月の二驅逐艦を警戒に派遣し呉れたるも、之字運動も十分出來ざる山船頭案山子にもならず。」と評している。 同月下旬、駆逐艦3隻(秋月型〈涼月、冬月〉、松型駆逐艦〈槇〉)はマニラ方面への緊急輸送作戦に参加する空母隼鷹を護衛することになった。11月23日、隼鷹隊は呉を出撃。11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げする。12月1日、出港。12月3日、馬公に到着後、隼鷹隊は日本に戻る戦艦榛名(艦長重永主計大佐)と合流する。同艦はシンガポールで座礁し、艦底に損傷を受けた状態であった。12月6日、馬公を出港して日本本土に向かう。佐世保に入港直前の12月9日未明、艦隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見される。涼月側は敵潜水艦の待ち伏せが懸念される男女群島東方海面の黎明前航行を避けるよう榛名に意見具申したが、返答はなかったという。直後、隼鷹はレッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の魚雷が2本命中して中破。続いて槇がシーデビル (USS Seadevil, SS-400) かプライス (USS Plaice, SS-390) の雷撃により損傷した。隼鷹は佐世保に帰投。この輸送作戦従事中、涼月・冬月ともに、荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した。呉に帰投後、12月27日まで呉海軍工廠で修理が行われ、修理完了後は瀬戸内海で訓練を行った。
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昭和19年
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1944年(昭和19年)1月25日、戦艦大和の艦長へと転任した森下大佐の後任として重永主計(しげなが・かずえ)大佐が着任する。反攻作戦によりサイパン島に上陸したアメリカ軍及びそれを支援するアメリカ艦隊を撃滅すべく「あ号作戦」が発動された。マリアナ沖海戦に、第三航空戦隊(空母千代田、千歳、瑞鳳)及び第二艦隊(旗艦愛宕/司令長官栗田健男中将)・第一戦隊(大和、武蔵)、第二水雷戦隊(能代、島風等)を主力とする前衛部隊の一艦として参加した。しかし19日、米潜水艦の雷撃により空母大鳳、翔鶴が沈没した。20日、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃により乙部隊では空母飛鷹が沈没し隼鷹が損傷、甲部隊では瑞鶴が損傷、前衛部隊では千代田、龍鳳、摩耶が損傷を受けた。榛名も後甲板に直撃弾を受け、火薬庫に浸水する程の被害を出した。この損傷により、修理完了後も全速力を出すと艦尾が振動する状態となる。最大発揮速力26-27ノット程度に低下するなど、榛名の戦力発揮に影響を与えた。損傷修理と併せて舷窓閉塞など不沈工事や対空火器の大幅増強が行われている。 詳細は「レイテ沖海戦」を参照 同年10月フィリピンのレイテ島に上陸したアメリカ軍に対し発令された捷一号作戦に参加、榛名は栗田中将指揮の第一遊撃部隊の一艦として上陸中のアメリカ陸軍部隊を砲撃すべく進撃を続け、25日サマール島沖にて発見したスプレイグ少将指揮下の第77任務部隊との交戦、いわゆるサマール島沖海戦ではアメリカ艦隊を追撃したが、前述の艦尾振動の影響により金剛ほどの戦果を上げることができなかった。混乱する戦局の中で栗田中将より撤退命令が下され、榛名も帰途、スルー海(フィリピン西方海上)においてアメリカ軍の追撃により至近弾を受け損傷する。
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昭和19年(1944年)
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「第二航空隊」の記事における「昭和19年(1944年)」の解説
1月7日 ラバウル空襲激化。19日までに艦爆は15機に激減。 1月25日 第二航空戦隊ラバウル進出。 2月5日 五五二空撤退。 2月20日 二航戦撤退。 年2月28日 五〇一空撤退。 年3月4日 解隊。 2月17日のトラック島空襲によって補給路が断たれたことを機に、外南洋の放棄が決定。進駐以来ラバウルに留まっていた五八二空は解散し、トラックに後退した上で、残存していた九七艦攻6機を第五五一海軍航空隊に移譲した。
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昭和19年
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1944年(昭和19年)3月25日、南東方面艦隊より第九艦隊(司令長官遠藤喜一中将、ニューギニア北岸中部以西担当)が南西方面艦隊に編入された。だが第九艦隊はまもなく玉砕し、7月10日に解隊された。 6月18日、南西方面艦隊と第二南遣艦隊司令長官の人事がおこなわれる。南西方面艦隊司令長官は高須中将から三川軍一中将(当時、第二南遣艦隊司令長官)に交代した。後任の第二南遣艦隊司令長官は、河瀬四郎中将であった。8月15日より、三川中将(南西方面艦隊司令長官)は第三南遣艦隊司令長官を兼任することになった。 また同時期の日本海軍はテニアンの戦いで玉砕した第一航空艦隊を再編し(8月7日、司令長官寺岡謹平中将親補)、8月10日附で南西方面艦隊に編入した。だが寺内中将の第一航空艦隊は9月10日にダバオ誤報事件を起こしてしまう。10月20日より大西瀧治郎中将が一航艦司令長官となった。 10月中旬以降の連合軍反攻作戦および捷一号作戦時(フィリピンの戦い)、ルソン島マニラに司令部を置く南西方面艦隊は麾下部隊を展開し、フィリピン配備の日本陸軍(南方軍・第14方面軍)と共に連合軍を迎撃した。レイテ島地上戦にともなう緊急輸送作戦多号作戦実施中の11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川中将から大川内傳七中将に交代した。11月15日、台湾とフィリピンに展開していた第二航空艦隊(司令長官福留繁中将)が、南西方面艦隊に編入された。この措置により、南西方面艦隊麾下の航空艦隊は3個艦隊(第一航空艦隊・第二航空艦隊・第十三航空艦隊)となった。12月5日、戦時編制の改定により北東方面艦隊所属の第五艦隊(司令長官志摩清英中将)が南西方面艦隊に編入された。
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