被雷損傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:56 UTC 版)
「春雨 (白露型駆逐艦)」の記事における「被雷損傷」の解説
1943年(昭和18年)1月5日、春雨は輸送船浅間丸を護衛して横須賀を出港、10日にトラックへ到着した。1月14日、トラックを出港。パプアニューギニア・ウェワクへの陸軍部隊輸送(丙一号輸送)の際、ウェワクへ進出する第二航空戦隊の空母隼鷹の航空隊基地員をトラックからウェワクへ輸送する。この時、隼鷹は駆逐艦五月雨、朝雲に護衛されてウェワク方面に出動していた。春雨はカビエンでの燃料補給後、カイリル島(ウェワクの北北西約20km)を拠点に行動して輸送部隊の護衛などを行う。23日夕刻、ウェワク帰投。輸送終了後の1月24日13時52分、ウェワクへ基地員収容に向かう途中、同地より220度11浬にてアメリカ潜水艦ワフーの雷撃を受けた。魚雷1本が春雨の前部主砲右舷に命中、速力4ノットで退避した。被雷時点での戦死者は3名、重軽傷者は20名。春雨の前部区画は満水となり、前部砲塔は半分海中に没してしまった。しかし前部弾薬庫への誘爆は起きず、轟沈という事態は免れた。駆潜艇や陸軍の大発動艇の支援を受け後進でウェワクへ退避、19時に到着した。2月1日に救難艦「雄島」が到着し、「春雨」の応急修理を行なった。 2月17日、駆逐艦2隻(天津風、浦風)がウェワクに到着。春雨は18時に天津風に曳航されてウェワクを出発した。「浦風」と「雄島」も同行した。天津風の艦尾と春雨の艦尾をワイヤーで結び、春雨自身は後進8ノットであったという。19日、天津風と春雨を結ぶ曳航索が切断され、春雨の曳航は浦風が担当することになった。21日、悪天候により春雨の艦橋部より前部が分断されて水中につかり、船体切断を余儀なくされる。23日、春雨以下4隻はトラック泊地に到着し、工作艦明石での応急修理がはじまった。3月5日、ビラ・スタンモーア夜戦にて第2駆逐隊村雨および第9駆逐隊峯雲が撃沈された。第2駆逐隊は春雨と五月雨の2隻になった。 5月中旬、春雨に仮前部を装着する応急修理が終わる。輸送船団と同行して内地へむかう予定が立てられるが、途中まで第二水雷戦隊・第31駆逐隊の夕雲型駆逐艦大波が護衛することになった。21日13時、春雨は駆逐艦大波及び睦月型駆逐艦夕月、補給艦間宮ほか輸送船6隻と共にトラック泊地を出発。30日15時30分横須賀着。内地での本格的な修理に入る。艦橋から前部分を喪失していた春雨を修理するにあたり、当時続々と建造中だった夕雲型駆逐艦のような艦橋が備え付けられた。艦首部の舷窓は廃止され、乗組員は南方における艦内環境の悪化を懸念したという。この他、二番砲塔を撤去して25mm三連装機銃を増設、レーダーの装備等の改良も施されている。 春雨が内地修理中の7月1日、第2駆逐隊は解隊された。五月雨は第四水雷戦隊所属へ、横須賀鎮守府予備駆逐艦だった春雨は第四予備駆逐艦となる。さらに7月12日にはコロンバンガラ島沖海戦で軽巡神通が沈没、伊崎俊二第二水雷戦隊司令官以下同水戦隊司令部も全滅する。そこで第四水雷戦隊を解隊し、高間司令官以下司令部と残存戦力を第二水雷戦隊に転用した。ここに時雨や五月雨以下白露型駆逐艦の大部分が第二水雷戦隊所属艦となった。8月25日、春雨は警備駆逐艦に指定された。 この後春雨と五月雨は、初春型駆逐艦有明、夕暮を喪失して白露型2隻(時雨、白露)になっていた第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将、旗艦:能代)所属の第27駆逐隊に編入された。五月雨は10月1日附、春雨は11月30日附の編入である。春雨下士官兵が駆逐隊転籍について知ったのは、下記のトラック泊地進出後であったという。
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