1970 - 1990年代
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「東映アニメーション」の記事における「1970 - 1990年代」の解説
大川博が1971年(昭和46年)8月に逝去し、後任として東映社長に就任した岡田茂は(同月兼東映動画会長)、躊躇なく赤字噴出の東映動画の経営改善に踏み切り、激しいリストラを敢行した。大川の後を継いだ岡田は大川時代・旧体制の産物を再審に付した。事業の多角化は大川時代から行っていたが、岡田は東映社長就任後の1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き、邦画不況という当時の映画を取り巻く厳しい状況もあり、経営多角化をさらに推進させた。「独立採算制の強化と部内別収益性の高揚、権限の分割・委譲による事後処理の簡素化を促進」を目的とし、経営多角化の新規事業でサラ金や、葬儀屋、クラブ経営、出版事業(『テレビランド』など)、東映太秦映画村、アニメショップ(アニメポリス・ペロ)などに手を拡げる一方、東映動画などの既存の傍系会社にも自主独立の姿勢を求めた。岡田は東映動画労組との団交の席上「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と発言し労組が猛反発した。当時東映は映画製作ではただ一社黒字を出していたが、岡田は赤字会社に350人もの従業員がいることを問題視し、このまま東映動画を放っておくと他のセクションに悪い影響が拡がると判断、「最悪の場合解散も止むをえない」という姿勢で対応を行った。岡田は恫喝、泣き落とし、逃走、俳優全員の前で土下座とあらゆる手を使って、専属契約を結んでいたベテランの時代劇俳優・脚本家・監督を根こそぎ切り、京都撮影所の従業員数を2100人から900人に減らしたこともある東映の長年の労務担当者でもあった。この頃長編動画の製作コストが上昇して作れば作るほど赤字を出していた。東映動画は累積で赤字を3億円出して倒産寸前であった。 東映労組(東制労)の強力な拠点となっていた東映動画には、責任者として行くことを皆嫌がったが、岡田はギブアップして病気療養中の高橋勇社長に替えて、元東映勤労部長で労務管理のベテラン・登石雋一を言い含めて東映動画の社長に据え、強硬なリストラを命じた。岡田と登石は製作本数を減らし、さらに従業員320名(うち契約者104人)のうち約半数の150人の希望退職を募集。希望者がない場合は指名解雇に踏み切る態度を匂わせ、また組合の強硬手段を計算に入れ、買い取り作品で番組編成を行うなど対戦の長期化に備えた。労組は激しく反発し、東映東京撮影所に機動隊が導入されるなど東制労闘争は激化、労使の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のち5カ月間に及ぶロックアウトが敢行され、約120名が退職し東映動画は存続した。その後も訴訟紛争は続き、労使紛争は二年に及び、労使とも深い傷を残した修羅場の二ヵ年であった。当時の東映の主な赤字部門は、東映フライヤーズと東京タワー交通、ボウリング部門、東映動画の4つで、東映動画は関連会社で最も赤字幅が大きかったが、岡田は動画以外の3つを切り動画のみ残した。岡田が東映動画の独立採算体制を厳格に打ち出したことで、1971年(昭和46年)の『どうぶつ宝島』で長編動画製作は終了し、結果として自社で養成し抱えていたクリエーターの多くは他のプロダクションに移るなどで東映動画を去った。岡田、登石と1974年(昭和49年)8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により、1970年代はじめに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃されて、1981年(昭和56年)に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復し、1990年半ばに東映グループの稼ぎ頭になった。登石、今田とその後の泊懋で、合計32年間動画の社長を務めた三人は、いずれも岡田から「お前、動画の社長やれ」と強要されたものであった。登石の前に大川博の指名で動画の社長を務めた高橋勇は、労働三法を全く知らず、労務管理の全然できない人で、行く先々で労使交渉に敗北して、にっちもさっちもいかなくなり、毎回岡田が尻拭いを行った。 1970年代に入ると、人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作に推されて、コストのかさむ劇場用長編作品の制作は縮小されていった。大手の制作会社というイメージが、仕事を安心して任せられる印象を放送局や広告代理店、出版社などに与えたこともあり、東映動画には週刊少年漫画誌原作のテレビアニメ制作の依頼が多く入るようになった。人気テレビアニメの焼き直しの方が独立した内容で単発の長編動画よりも利益幅が大きかった。岡田茂が各部門に経営の引き締めを強化したことも拍車をかけ、制作の中心はテレビシリーズへと移り、劇場用作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となり、さらに仮面ライダーシリーズのような実写ヒーロー物が「東映まんがまつり」に入るようになったことで東映動画の長編時代は1971年春の『どうぶつ宝島』を最後に終焉を迎えた。東映動画に特有の執着を持たない岡田体制では、コストの高いアニメーション映画製作の見直しが進んだ。制作本数の増加と労働争議の激化により1973年(昭和48年)からは韓国への制作委託を開始した。国外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。 大川博の息子・大川毅とそりが合わずユニオン映画に行っていた今田智憲が、盟友・岡田茂に呼び戻され1974年(昭和49年)社長に就任。岡田が東映動画の整理で組合と大揉めしていた時期に、一度東映を出た人がまた帰ってくるとは、大川社長時代では考えられないことで、組合を抑えた岡田の力量も相当なものだが、岡田としても今田が東映動画の再建に失敗するようだと自らの任命責任を追及されるところだった。今田は岡田との個人的親交によって、自らの裁量に基づいた独自の経営を可能にした。今田は1993年(平成5年)まで、歴代最長の20年間東映動画の社長を務め、この間一度も赤字を出すことなく、東映ビデオの社長も16年間兼任しながら大きな功績を残した。今田はそれまでの強硬路線と違い、柔軟路線をとり労組に対応。裁判での敗訴を予想し、和解交渉を持ち掛け、先のリストラ時の解雇者の中で裁判に訴えていた18名の解雇を取り消して労使は和解し、労組問題に揺れた東映動画を立て直す。続いて制作の赤字構造の改善に向けた経営方針として、東映動画の組織改編を行い、(1)版権ビジネス・キャラクター商品化の営業強化、(2)海外への販路拡大、(3)制作を下請け化して、その下請けプロを管理する、(4)海外にも下請けを拡大させる、(5)技術革新で省力化を図る、などを示した。その後に今田の施策は続々と実現されていった。 1972年(昭和47年)に放映開始した永井豪とのコラボレーション『マジンガーZ』に始まる"巨大ロボットもの"で一時代を築いた。初期長編の朗らかな作品世界とは一変し、劇画タッチの荒々しいメカアクションは、超合金ロボットという玩具の分野を合わせて開拓し、男児向けアニメの一大ジャンルとなった。これ以前にも実写のキャラクター商品はあったが、アニメのテレビ放映に合わせてヒットしたキャラクター商品は『マジンガーZ』が初めてであり、これ以降、アニメ作品の二次利用(版権利用)が大きな収益を生むビジネスモデルとして定着した。またそれまではアニメが放映されて人気を博したところでキャラクター商品が投入されていたが、『マジンガーZ』では放映開始と同時に行なわれた。これはテレビ放映権料が値上がりしたため、それまでのお菓子メーカーなど子供向けアニメのスポンサー以外の業種にも広げてスポンサーを獲得せねばならなくなり、『マジンガーZ』の広告を担当した旭通信社が放映開始と同時にキャラクター商品を出すことを条件にスポンサーを納得させたものであった。アニメの歴史はビジネス面ではいかにして採算をとるかの挑戦でもあったが、良い作品を作っても採算が取れずに倒産した製作会社の多い中で、いち早く玩具メーカーと連携して関連グッズから利益を生み出すビジネスモデルを確立させた。 多くの場合、漫画家は主要なアイデアマンとして、基本的な設定やデザイン、ストーリーラインなどを提供し「原作者」としてクレジットされたが、テレビシリーズの具体的なストーリー展開には、東映動画やマーチャンダイジングを行うスポンサー側の意向も反映され、マンガを基にテレビシリーズが制作されるのではなく、アニメーション制作会社が漫画家やスポンサー、テレビ局や代理店などとともに共同で企画を立案、或いは漫画家側に企画案が提供されることもある。この無形の企画からテレビアニメ、玩具、マンガが派生する。また、東映テレビ事業部に新設されたテレビ関連事業室が企画編集に携わった雑誌『テレビランド』などのテレビ情報誌・児童誌で盛んに特集記事を載せ、出版社や漫画家に依存することなく、東映自体でメディアミックス展開をさせた。 東映の版権事業は1960年の『西遊記』が始まりとされ、以降も東映動画とテレビ部門の特撮テレビものなどで多くの人気商品を生んだが、今田の社長就任以降に版権事業は大きく伸長し、年々事業規模が拡大した。東映動画再建の大きな分岐点となったのは1975年(昭和50年)に岡田が東映動画とテレビ部門など、東映グループの版権事業を東映本社に一括して集約しようとしたことだった。これらの制作事業はすべて東映本社を通して受注されていて、基本的に東映側に諸権利が集約されており、本来、拒否は出来なかったが、今田が「それでは動画の自主的な経営が崩れる。版権は再建の生命線で渡せない」などと強く主張。この主張は岡田の掲げた独立採算制の発想とも合致し、また岡田との交友関係もあり、特撮ものや戦隊ものなどの実写番組の版権のみが東映本社に引き上げられ、東映動画の版権営業は維持されることになった。このとき版権事業を東映本体に取られていたら、東映動画の自主再建は出来なかったかも知れない。 1976年(昭和51年)に放映開始した『キャンディ・キャンディ』は高い視聴率を確保し、一年後の版権収入は11億5000万円を記録し、1981年(昭和56年)に放映開始した『Dr.スランプ アラレちゃん』が視聴率30%を維持して突っ走ると、商品開発部の売上げは40億円を超えた。時代の流れを捉えた今田の動画事業の多角化展開は目論見通りの成果を生むようになった。 東映動画作品の海外販売は、当初からその成果を嘱望されたが、実際は長らく継続的な成果を上げられなかった。東映作品の海外展開が一定の成果を上げ始めるのは、1960年代半ばであるが、より拡充されたのは岡田茂体制下であった。1972年の東映洋画の設立で、映画輸入事業が本格的に開始され、東映国際部の事業が強化され、岡田が映連幹部として海外の映画祭や見本市などで日本代表団団長を務める機会も増え、洋画の買い付けも含め、カラテ映画や東映動画作品、特撮ヒーローものなどを自ら海外各国へ売り込んでいた。 今田は東映動画の創業時から、"アニメは日本の映像産業が世界に輸出し得る唯一の商品である"という考えを持っていたので、今田が社長に就任してようやく東映動画は海外の市場にも眼を向けていく方針となった。日本アニメの海外進出の推進役として陣頭指揮を執り、それまで東映本体が行っていた海外販売を1975年(昭和50年)から新設した動画版権営業部に行わせて、東アジア、東南アジアを手始めとして欧州、アメリカなど、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展をした。今田みずから世界各地の映画祭や配給会社を訪ねて、日本アニメの輸出促進を働きかけ、フィルムの輸出と海外版権の販路拡張を推し進めた。 今田が有賀健や、林幸夫(東映国際部)らを連れて世界的マルシェ(フィルムマーケット)に出掛けたのは1976年(昭和51年)のカンヌ国際映画祭が最初であり、ブースを確保して『マジンガーZ』などを展示したが、当時のヨーロッパにおける日本のアニメの認知度は無であった。そのため誰も寄り付かず、相手にもされず、「アニメは世界の共通語」と意気込んで出掛けた今田たちはショックに打ちひしがれてブースに坐り込んだ。既に「鉄腕アトム」や「マッハGoGoGo」などがアメリカでもテレビ放送され、その他にも輸出されたアニメは多々あったが、全体的には1970年代前半まで日本製のアニメは漫画と同様に、ほとんどの海外の国からは相手にされていなかった。今田や有賀らはヨーロッパのテレビ局に何度も売り込みに行っては門前払いを食らった。それでも懲りずに毎年売り込みを繰り返すうちに認知は広がっていき、ヨーロッパにおいて東映アニメが最初に受け入れられたのは、当時放送番組コンテンツが不足していたフランスやイタリア、スペインであった。1978年7月にフランスアンテンヌ2で『キャンディ・キャンディ』と『UFOロボ グレンダイザー』(Goldorak(ゴルドラック)が放映されて高視聴率を獲得し、それが突破口となった。『マジンガーZ』はイタリアやスペインで人気を博した。また1978年にフランスとイタリアで改題されて放送された『UFOロボ グレンダイザー』は最高視聴率80%を記録して社会現象になった(UFOロボ グレンダイザー#日本以外での放送)。また『キャンディ・キャンディ』もプライムタイムに放送されて人気を博した。1970年代から1990年代の半ばにかけて日本のアニメがヒットしたのはフランス、イタリア、スペインなど欧州ラテン圏だけで、イギリス、ドイツ、北欧など、言語文化が中心のアングロ・ゲルマン圏では、漫画やアニメには抵抗があり、個人主義で家族関係が冷めているとされて、ほとんど放送されなかった。またヨーロッパで日本アニメの熱が一気に上がらなかったのは、ヨーロッパは商品規制が厳しく、日本のキャラクター商品が入り込めず、テレビ放映の人気に限られたからで、子供たちの人気になかなか火が着かなかった。1990年(平成2年)にフランスで規制が外れると『聖闘士星矢』(フランス題名;Les Chevaliers du Zodiaque(星座の騎士))から、テレビとマーチャンで一挙に大展開し、『ドラゴンボール』が続き、海外市場を切り拓いていった。それ以降も自社制作作品の日本国外への売り込みを積極的に行った。特に『UFOロボ グレンダイザー』、『キャンディ・キャンディ』、『ドラゴンボール』、『美少女戦士セーラームーン』は世界各国で放送され、日本のアニメ輸出に弾みをつけた。 東映及び、東映と『仮面ライダー』から商品開発を連動させてきたバンダイ等に莫大な利益をもたらした『パワーレンジャー』の仕掛人・ハイム・サバンは、『マジンガーZ』か『UFOロボ グレンダイザー』が、フランスで初めて放送された際に、音楽の一部入れ替えが行われ、これを担当したプロデューサーがフランス在住時のサバンで、子どもを対象にしたビジネスは国を超えて全世界で商売になると見てとったサバンは、アメリカ移住後も東映とビジネスを続け、東映の特撮番組を購入し、全米ネットワークに挑戦したが、アメリカは子どもの教育問題や暴力シーンの規制が厳しく、何度も失敗しながら『パワーレンジャー』でようやく長年抱き続けた夢を果たしたものであった。『パワーレンジャー』のベースとなった『恐竜戦隊ジュウレンジャー』の「原型を残すから作り変えさせてくれ」というサバンからの要望を認めたのは当時の岡田茂東映会長である。また『パワーレンジャー』の1993年からのフォックス・テレビネットワークを通じての全米放映は、岡田と20世紀フォックスの長い間の協力関係が実を結んだもので、1993年7月12日に、東映と20世紀フォックスとの間で、フォックス作品の長期間国内独占テレビ配給及びテレビ映画の共同製作に関る契約という東映国際化の一環として、岡田が先行投資を締結した際の契約の一つであった。フォックスとの共同会見で岡田は、「これまでウチがFOX映画の数々のヒット作を独占的にテレビ配給して成功を収めてきた。この実績をもとに今回、FOXの全ての作品を配給する契約を結んだ。FOXの会長であり最高責任者のルパート・マードック氏は、7年前にお会いしたとき意気投合し、一緒に仕事をやろうと話し合った昵懇の仲で、今回の契約が成立した。『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のアメリカでの放映も決まり、大いに期待される」などと話した。岡田はマードックや孫正義とも親しく、1996年11月に来日したディズニーを含むハリウッド最強代理人・マイケル・オーヴィッツは「数分でも会えれば奇跡」と面会希望者が殺到したが、そのオーヴィッツからの「会いたい」という申し出に「時間が合わない」と袖にしたこともある日本のエンターテインメント業界では数少ないメディア通の一人でもあった。 将来を見据えたコンピュータの導入では1974年(昭和49年)、社内にプロジェクトチームを作り、1977年(昭和52年)正式に技術委員会プロジェクトを発足させた。これが同社のデジタル化(デジタルアニメ)の切っ掛けとなる。国内大手家電メーカーと連携して研究開発に取り組んだが、1980年代に於いては初期費用、ランニングコストも天文学的な数字にのぼり実現できなかった。しかし1990年代に入ってパソコンの性能が飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年(平成4年)の『北斗の拳』のゲーム用データ作成を手始めに、一部実験的に試用を始め、1997年『ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ』4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えた。それまで熟練した職人芸が要求された工程を全て画面上で処理するシステムの稼働で、これが日本アニメのデジタル化第一作である。 また1970年代後半から劇場用・テレビ用アニメーションの製作だけでなく活動領域を拡げ、スーパーマーケットや遊園地、ホテルなどでのイベントに積極的にコミットし、各種キャラクター商品やイベントを通じ、市民生活に溶け込み、新たなファン層を獲得した。レジャーメディアでの開発は、1976年の三重県桑名市ナガシマスパーランドに於ける「マジンガーZロボット館」でのスペース構成が最初といわれる。これによりアニメーションの製作のみならず、映像が生み出すキャラクターを主体とした関連事業が拡大した。1987年(昭和62年)はイベント関連売上げが売り上げが約40億円になった。イベント関連事業は東映本社映像事業部、映画村エンタープライズと共にその中核として、北九州市のスペースワールドの施設計画の立案等を手掛けた。またマーチャンダイジング営業強化の施策では、制作部門に対して付帯・関連部門を強化し、関連部門の売り上げが全体の60~70%を占めるようになり、制作の差損を営業によって埋め合わせる仕組みを作った。1990年代に手掛けた『美少女戦士セーラームーン』のキャラクター商品は、1995年時点で1000アイテムを超えた。これらは今田が長い期間、営業体制の強化を計り実効を上げたものであった。同社の版権事業は1960年の『西遊記』から始まっており、この分野も日本に於ける草分けであった。1987年には年間売上げ155億円を記録。 1977年11月、東映はマーベル・コミックと、スパイダーマン等の日本における版権業務の契約を締結。翌1978年に東映側のキャラクターをマーベルを通じてアメリカに紹介した。マーベルは1988年まで多くの作品を東映動画に発注し続けた。 中国文化大革命終結後の1979年秋に、岡田茂日本映画製作者連盟会長と徳間康快らの尽力で、中国で初めて日本映画祭が開催され、東映は中国で初めて上映されたアニメーション映画といわれる『龍の子太郎』を出品した。映画祭の準備段階で、当時中国がアニメ制作に力を入れていたことから、岡田が徳間に橋渡しを頼み、代表団に中国のアニメーションと手を組んで一緒に仕事をしたいと頼んだら、中国から東映動画と組みたいと返答があり、中国に招待されたため、今田がスタッフを連れて訪中し、従来韓国で行っていたアニメ制作の下請けを中国にやってもらおうと、1979年からアニメ制作の下請けを中国に移した。1981年より新人採用を再開させる。 1980年代以降は、東映の屋台骨を支えていく存在になった。大川時代から変わって、岡田=今田時代の東映動画は、"アニメーションの総合商社"として第2の創業といえるものであった。 1966年から放送された日本初の少女向けアニメ『魔法使いサリー』は"魔女っ子もの"というジャンルを開拓し、この流れは『ひみつのアッコちゃん』などの"変身もの"へ繋がり、その系譜は『美少女戦士セーラームーン』や『プリキュア』などに受け継がれた。魔法使いの少女アニメと変身して敵を倒すヒーローアニメ、人気の二大路線を東映動画が合体させたのが『美少女戦士セーラームーン』。世の女の子を夢中にさせた同作は"女の子の独立宣言"とも評され、海外50ヵ国で放映された。同シリーズの版権売上高は「ドラゴンボール」シリーズと同程度の3000億円に達した。"女子向けアニメ"を確立したのも東映動画であった。 1980年代以降は『Dr.スランプ アラレちゃん』『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』『スラムダンク』『ONE PIECE』と立て続けに『週刊少年ジャンプ』作品をアニメ化、"ジャンプ黄金時代"を併走した。 1992年(平成4年)、フィリピンに地元企業EEIとの合弁でEEI-TOEI Animation Corp.を設立。これによりコスト的に日本国内とほぼ変わらなくなった韓国に代わりフィリピンへの制作委託体制が確立した。1996年(平成8年)、東映グループにおける大人事改革の影響でそれまで継続していたテレビアニメ作品の全てを一旦終了。 1995年(平成7年)、人材育成を目的として東映アニメーション研究所を開設。ディレクター・アニメーター・美術デザイナー・CGクリエーターの研究生募集を開始(現在は閉所)。1998年(平成10年)、東映アニメーション株式会社に商号変更した。
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1970 - 1990年代
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「プロ野球中継」の記事における「1970 - 1990年代」の解説
読売ジャイアンツのV9により人気が全国的となり、対巨人戦の中継はキー局が争奪する人気コンテンツとなった。またセ・リーグの優勝決定試合は球団に関わらず全国ネットで生放送されることが恒例となっていった。一方パ・リーグは1980年代以降の西武ライオンズの黄金時代が到来したこともあり、対巨人戦ほどではないものの、中継される機会が次第に増加していった。 試合が長時間化していったことから、特にセ・リーグの対巨人戦のナイター中継では各局、21時前の中継終了時点で試合が続いていた場合は最大で30〜60分の中継延長オプションを設けるようになった(21時以降の番組は順次繰り下げ)。 カメラのマルチアングル化が進むなど、ハード面での新機軸導入が多く取り入れられた。日本テレビでは1971年に「ワイプナイター」という延長放送の手法も取った。中継時間終了後も後続番組(「怪奇十三夜」内など)で画面一部をワイプ処理して中継映像を映すものであったが、同年に日本映画監督協会から中止の要請が入り取りやめた。テレビ朝日では野村克也の解説の下、ストライクゾーンを9分割した配球予測図のスーパーインポーズ表示「ノムラスコープ」が導入された。 1990年代以降はスポーツ中継専門のCS局やBSデジタル放送局が次々と開局し、12球団ほぼ全てが中継でカバーされるようになる。また試合中継時間に制約がないことから徐々に契約者を増やしていった。 日本シリーズがデーゲーム開催だった頃は、テレビ・ラジオ中継では、民放とNHKとの事実上の同時放送が行われていた事があった。
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1970-1990年代
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1970年代から1980年代の世界都市形成は、次第に金融主導型のそれに傾斜し、金融マネーのグローバリズムの所産という性格が、多分に強くなったと考えられる。衛星通信やコンピュータ通信の飛躍的発展によって、世界の金融センターを結ぶ24時間取引や多国籍産業のグローバル・マネージメントが可能になったことも要因だと考えられる。こうして国際情報を集積し、ボーダレス・マネーを動かして世界経済をコントロールする国際金融センターが現れ、世界的な都市ヒエラルキーの頂点に立った。1990年ごろには、ロンドン・ニューヨーク・東京が「三大世界都市」と呼ばれ、グローバル経済と世界都市システムの頂点に姿を現していた。ロンドンやニューヨークは国際金融と世界的な経済センターとしての位置を強化し、高次ビジネス・サービスに経済の重点を移したのである。世界経済はますます金融に傾斜し、世界的な金融市場の拡大は国際金融と関連したビジネス・サービスの収益性を高めた。ロンドンやニューヨークは、これらの国際的な金融、ビジネス・サービスと文化、人の移動、ものの輸送、デザイン、通信などの中心として生まれ変わることで「世界都市」と呼ばれるようになったのである。一方、東京はロンドンやニューヨークとは経済構造が異なり、大都市圏としてみてみると金融やサービスはいうに及ばず、ハイテク、卸売業から都市型工業にいたるまで集積したフルセット型の産業構造であり、いわばオールマイティーな経済機能をもつ都市として世界都市形成を行った。2001年に大ロンドン庁が公表した報告書「ロンドン・プラン」においても、ロンドン・ニューヨーク・東京の3都市を「本物の世界都市」と定義しており、世界都市としての三強時代が続いていた。
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