1970 - 1990年代とは? わかりやすく解説

1970 - 1990年代

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東映アニメーション」の記事における「1970 - 1990年代」の解説

大川博1971年昭和46年8月逝去し後任として東映社長に就任した岡田茂は(同月東映動画会長)、躊躇なく赤字噴出東映動画経営改善踏み切り激しリストラ敢行した。大川の後を継いだ岡田大川時代旧体制産物再審付した事業の多角化大川時代ら行っていたが、岡田東映社長就任後1972年6月映画会社初め事業部制敷き邦画不況という当時の映画取り巻厳しい状況もあり、経営多角化をさらに推進させた。「独立採算制強化部内収益性高揚権限分割委譲による事後処理簡素化促進」を目的とし、経営多角化新規事業サラ金や、葬儀屋クラブ経営出版事業(『テレビランド』など)、東映太秦映画村アニメショップアニメポリス・ペロ)などに手を拡げる一方東映動画などの既存傍系会社にも自主独立姿勢求めた岡田東映動画労組との団交席上動画東映ガンだ。ガン放置しておいたら、やがて病巣東映全身広がるガン小さいうちに切開手術するのが医者経営者)の義務だ」と発言し労組猛反発した。当時東映映画製作ではただ一社黒字出していたが、岡田赤字会社350人もの従業員がいることを問題視しこのまま東映動画放っておくと他のセクションに悪い影響拡がる判断、「最悪場合解散も止むをえない」という姿勢で対応を行った岡田恫喝泣き落とし逃走俳優全員の前で土下座あらゆる手を使って専属契約結んでいたベテラン時代劇俳優脚本家監督根こそぎ切り、京都撮影所従業員数2100人から900人に減らしたこともある東映長年労務担当者でもあった。この頃長編動画の製作コスト上昇して作れば作るほど赤字出していた。東映動画累積赤字を3億円出して倒産寸前であった東映労組(東制労)の強力な拠点となっていた東映動画には、責任者として行くことを皆嫌がったが、岡田ギブアップして病気療養中の高橋社長に替えて、元東映勤労部長労務管理ベテラン登石雋一言い含めて東映動画社長に据え強硬なリストラ命じた岡田と登石は製作本数減らし、さらに従業員320名(うち契約者104人)のうち約半数150人の希望退職募集希望者がない場合指名解雇踏み切る態度匂わせ、また組合強硬手段計算入れ買い取り作品番組編成を行うなど対戦長期化備えた労組激しく反発し東映東京撮影所機動隊導入されるなど東制労闘争激化労使の間で団交繰り返されたが、希望退職募集何度も延期され、のち5カ月間に及ぶロックアウト敢行され、約120名が退職し東映動画存続した。その後訴訟紛争続き労使紛争は二年に及び、労使とも深い傷を残した修羅場の二ヵ年であった当時東映主な赤字部門は、東映フライヤーズ東京タワー交通ボウリング部門東映動画4つで、東映動画関連会社で最も赤字幅が大きかったが、岡田動画以外の3つを切り動画のみ残した岡田東映動画独立採算体制厳格に打ち出したことで、1971年昭和46年)の『どうぶつ宝島』で長編動画製作は終了し結果として自社養成し抱えていたクリエーター多く他のプロダクションに移るなどで東映動画去った岡田、登石と1974年昭和49年8月後任として岡田から東映動画社長に抜擢され今田智憲尽力により、1970年代はじめに3億円あった東映動画累積赤字一掃されて、1981年昭和56年)に東映動画売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復し1990年半ば東映グループ稼ぎ頭になった。登石、今田その後泊懋で、合計32年動画社長務めた三人は、いずれも岡田から「お前、動画社長やれ」と強要されたものであった。登石の前に大川博指名動画社長務めた高橋勇は、労働三法を全く知らず労務管理の全然できない人で、行く先々労使交渉敗北してにっちもさっちもいかなくなり毎回岡田尻拭い行った1970年代に入ると、人気制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズ制作推されて、コストのかさむ劇場長編作品制作縮小されていった大手制作会社というイメージが、仕事安心して任せられる印象放送局広告代理店出版社などに与えたこともあり、東映動画には週刊少年漫画原作テレビアニメ制作依頼多く入るようになった人気テレビアニメ焼き直しの方が独立した内容単発長編動画よりも利益幅が大きかった岡田茂各部門経営引き締め強化したことも拍車をかけ、制作中心テレビシリーズへと移り劇場用作品漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となり、さらに仮面ライダーシリーズのような実写ヒーロー物が「東映まんがまつり」に入るようになったことで東映動画長編時代1971年春の『どうぶつ宝島』を最後に終焉迎えた東映動画特有の執着持たない岡田体制では、コストの高いアニメーション映画製作の見直し進んだ制作本数増加労働争議激化により1973年昭和48年)からは韓国へ制作委託開始した国外発注強化とともに自社スタジオ周辺下請けプロダクション増やして制作下請け外注化を進めた大川博息子大川毅とそりが合わずユニオン映画行っていた今田智憲が、盟友岡田茂呼び戻され1974年昭和49年社長に就任岡田東映動画整理組合と大揉めしていた時期に、一度東映出た人がまた帰ってくるとは、大川社長時代では考えられないことで、組合抑えた岡田力量も相当なものだが、岡田としても今田東映動画再建失敗するようだと自らの任命責任追及されるところだった。今田岡田との個人的親交によって、自らの裁量基づいた独自の経営可能にした。今田1993年平成5年)まで、歴代最長20年東映動画社長務めこの間一度赤字を出すことなく東映ビデオ社長16年兼任しながら大きな功績残した今田それまで強硬路線違い柔軟路線をとり労組に対応。裁判での敗訴予想し和解交渉持ち掛け先のリストラ時の解雇者の中で裁判訴えていた18名の解雇取り消して労使和解し労組問題揺れた東映動画立て直す続いて制作赤字構造改善向けた経営方針として、東映動画組織改編行い(1)版権ビジネス・キャラクター商品化営業強化(2)海外へ販路拡大(3)制作下請け化して、その下請けプロ管理する(4)海外にも下請け拡大させる(5)技術革新省力化を図る、などを示したその後今田施策続々実現されていった1972年昭和47年)に放映開始した永井豪とのコラボレーション『マジンガーZ』に始まる"巨大ロボットもの"で一時代築いた初期長編朗らかな作品世界とは一変し劇画タッチ荒々しいメカアクションは、超合金ロボットという玩具分野合わせて開拓し男児向けアニメ一大ジャンルとなった。これ以前にも実写キャラクター商品はあったが、アニメテレビ放映合わせてヒットしたキャラクター商品『マジンガーZ』初めてであり、これ以降アニメ作品二次利用版権利用)が大きな収益生むビジネスモデルとして定着した。またそれまでアニメ放映され人気博したところでキャラクター商品投入されていたが、『マジンガーZ』では放映開始同時に行なわれた。これはテレビ放映権料が値上がりしたため、それまでお菓子メーカーなど子供向けアニメスポンサー以外の業種にも広げてスポンサー獲得せねばならなくなり『マジンガーZ』広告担当した旭通信社放映開始同時にキャラクター商品を出すことを条件スポンサー納得させたものであったアニメの歴史ビジネス面ではいかにして採算をとるかの挑戦でもあったが、良い作品作って採算取れず倒産した製作会社の多い中で、いち早く玩具メーカー連携して関連グッズから利益生み出すビジネスモデル確立させた。 多く場合漫画家主要なアイデアマンとして、基本的な設定デザインストーリーラインなどを提供し原作者」としてクレジットされたが、テレビシリーズ具体的なストーリー展開には、東映動画マーチャンダイジングを行うスポンサー側の意向反映されマンガを基にテレビシリーズ制作されるではなくアニメーション制作会社漫画家スポンサーテレビ局代理店などとともに共同企画立案或いは漫画家側に企画案が提供されることもある。この無形企画からテレビアニメ玩具マンガ派生するまた、東映テレビ事業部に新設されテレビ関連事業室が企画編集携わった雑誌テレビランド』などのテレビ情報誌児童誌で盛んに特集記事載せ出版社漫画家依存することなく東映自体メディアミックス展開をさせた。 東映版権事業1960年『西遊記』始まりとされ、以降東映動画テレビ部門特撮テレビものなどで多く人気商品生んだが、今田社長就任以降版権事業大きく伸長し年々事業規模拡大した東映動画再建大きな分岐点となったのは1975年昭和50年)に岡田東映動画テレビ部門など、東映グループ版権事業東映本社一括して集約しようとしたことだった。これらの制作事業はすべて東映本社通して受注されていて、基本的に東映側に諸権利集約されており、本来、拒否出来なかったが、今田が「それでは動画自主的な経営崩れる。版権再建生命線渡せない」などと強く主張。この主張岡田掲げた独立採算制発想とも合致し、また岡田との交友関係もあり、特撮もの戦隊ものなどの実写番組版権のみが東映本社引き上げられ東映動画版権営業維持されることになった。このとき版権事業東映本体取られていたら、東映動画自主再建出来なかったかも知れない1976年昭和51年)に放映開始したキャンディ・キャンディ』は高い視聴率確保し一年後版権収入115000万円記録し1981年昭和56年)に放映開始したDr.スランプ アラレちゃん』が視聴率30%を維持して突っ走ると、商品開発部売上げ40億円を超えた時代流れ捉えた今田動画事業の多角化展開は目論見通り成果生むようになった東映動画作品海外販売は、当初からその成果嘱望されたが、実際長らく継続的な成果上げられなかった。東映作品海外展開一定の成果上げ始めるのは、1960年代半ばであるが、より拡充されたのは岡田茂体制であった1972年東映洋画設立で、映画輸入事業本格的に開始され東映国際部事業強化され岡田映連幹部として海外映画祭見本市などで日本代表団団長を務め機会増え洋画買い付け含めカラテ映画東映動画作品特撮ヒーローものなどを自ら海外各国売り込んでいた。 今田東映動画創業時から、"アニメ日本映像産業世界輸出し得る唯一の商品である"という考え持っていたので、今田社長に就任してようやく東映動画海外市場にも眼を向けていく方針となった日本アニメ海外進出推進役として陣頭指揮執りそれまで東映本体が行っていた海外販売1975年昭和50年)から新設し動画版権営業部に行わせて、東アジア東南アジア手始めとして欧州アメリカなど、世界各国テレビ・映画見本市毎年出展をした。今田みずから世界各地映画祭配給会社訪ねて日本アニメ輸出促進働きかけフィルム輸出海外版権販路拡張推し進めた今田有賀健や、幸夫(東映国際部)らを連れて世界的マルシェ(フィルムマーケット)に出掛けたのは1976年昭和51年)のカンヌ国際映画祭最初であり、ブース確保して『マジンガーZ』などを展示したが、当時ヨーロッパにおける日本のアニメ認知度は無であった。そのため誰も寄り付かず相手にもされず、「アニメ世界共通語」と意気込んで出掛けた今田たちはショック打ちひしがれブース坐り込んだ。既に「鉄腕アトム」や「マッハGoGoGo」などがアメリカでテレビ放送され、その他に輸出されアニメ多々あったが、全体的に1970年代前半まで日本製アニメ漫画同様に、ほとんどの海外の国からは相手にされていなかった。今田有賀らはヨーロッパテレビ局何度も売り込み行って門前払い食らった。それでも懲りずに毎年売り込み繰り返すうちに認知広がっていき、ヨーロッパにおいて東映アニメ最初に受け入れられたのは、当時放送番組コンテンツ不足していたフランスイタリアスペインであった1978年7月にフランスアンテンヌ2で『キャンディ・キャンディ』と『UFOロボ グレンダイザー』(Goldorak(ゴルドラック)が放映されて高視聴率獲得し、それが突破口となった『マジンガーZ』イタリアスペイン人気博した。また1978年フランスイタリアで改題されて放送された『UFOロボ グレンダイザー』は最高視聴率80%を記録して社会現象になったUFOロボ グレンダイザー#日本以外での放送)。また『キャンディ・キャンディ』もプライムタイム放送され人気博した1970年代から1990年代半ばにかけて日本のアニメヒットしたのはフランスイタリアスペインなど欧州ラテン圏だけで、イギリスドイツ北欧など、言語文化中心のアングロ・ゲルマン圏では、漫画アニメには抵抗があり、個人主義家族関係が冷めているとされて、ほとんど放送されなかった。またヨーロッパで日本アニメの熱が一気に上がらなかったのは、ヨーロッパ商品規制厳しく日本キャラクター商品入り込めず、テレビ放映人気限られたからで、子供たち人気になかなか火が着かなかった。1990年平成2年)にフランスで規制外れると『聖闘士星矢』(フランス題名Les Chevaliers du Zodiaque(星座騎士))から、テレビマーチャン一挙に展開し『ドラゴンボール』続き海外市場を切り拓いていったそれ以降自社制作作品日本国外への売り込み積極的に行った。特に『UFOロボ グレンダイザー』、『キャンディ・キャンディ』、『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』世界各国放送され日本のアニメ輸出弾みをつけた。 東映及び、東映『仮面ライダー』から商品開発連動させてきたバンダイ等に莫大な利益もたらしたパワーレンジャー』の仕掛人ハイム・サバンは、『マジンガーZ』か『UFOロボ グレンダイザー』が、フランスで初め放送された際に、音楽一部入れ替えが行われ、これを担当したプロデューサーフランス在住時のサバンで、子どもを対象にしたビジネスは国を超えて全世界商売になると見てとったサバンは、アメリカ移住後東映ビジネス続け東映特撮番組購入し全米ネットワーク挑戦したが、アメリカは子どもの教育問題暴力シーン規制厳しく何度も失敗しながら『パワーレンジャー』でようやく長年抱き続けた夢を果たしたものであった。『パワーレンジャー』のベースとなった恐竜戦隊ジュウレンジャー』の「原型を残すから作り変えさせてくれ」というサバンからの要望認めたのは当時岡田茂東映会長である。また『パワーレンジャー』の1993年からのフォックス・テレビネットワークを通じて全米放映は、岡田20世紀フォックス長い間協力関係実を結んだもので、1993年7月12日に、東映20世紀フォックスとの間で、フォックス作品長期間国内独占テレビ配給及びテレビ映画共同製作関る契約という東映国際化一環として岡田先行投資締結した際の契約一つであったフォックスとの共同会見岡田は、「これまでウチFOX映画数々ヒット作独占的にテレビ配給し成功収めてきた。この実績をもとに今回FOX全ての作品配給する契約結んだFOX会長であり最高責任者ルパート・マードック氏は、7年前に会いしたとき意気投合し一緒に仕事をやろうと話し合った昵懇の仲で、今回契約成立した。『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のアメリカで放映決まり大い期待される」などと話した岡田マードック孫正義とも親しく1996年11月来日したディズニーを含むハリウッド最強代理人マイケル・オーヴィッツは「数分でも会えれば奇跡」と面会希望者が殺到したが、そのオーヴィッツからの「会いたい」という申し出に「時間合わない」と袖にしたこともある日本のエンターテインメント業界では数少ないメディア通の一人でもあった。 将来見据えたコンピュータ導入では1974年昭和49年)、社内プロジェクトチーム作り1977年昭和52年正式に技術委員会プロジェクト発足させた。これが同社デジタル化デジタルアニメ)の切っ掛けとなる。国内大手家電メーカー連携して研究開発取り組んだが、1980年代に於いては初期費用ランニングコスト天文学的な数字にのぼり実現できなかった。しかし1990年代入ってパソコン性能飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年平成4年)の『北斗の拳』ゲームデータ作成手始めに、一部実験的に試用始め1997年ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えたそれまで熟練した職人芸要求され工程全て画面上で処理するシステム稼働で、これが日本アニメデジタル化第一作である。 また1970年代後半から劇場用・テレビ用アニメーションの製作だけでなく活動領域を拡げ、スーパーマーケット遊園地ホテルなどでのイベント積極的にコミットし、各種キャラクター商品イベント通じ市民生活溶け込み新たなファン層獲得した。レジャーメディアでの開発は、1976年三重県桑名市ナガシマスパーランドに於けるマジンガーZロボット館」でのスペース構成最初といわれる。これによりアニメーションの製作のみならず映像生み出すキャラクター主体とした関連事業拡大した1987年昭和62年)はイベント関連売上げ売り上げが約40億円になったイベント関連事業東映本社映像事業部、映画村エンタープライズと共にその中核として、北九州市スペースワールド施設計画の立案等を手掛けた。またマーチャンダイジング営業強化施策では、制作部門に対して付帯関連部門強化し関連部門売り上げ全体6070%を占めるようになり、制作差損営業によって埋め合わせる仕組み作った1990年代手掛けた『美少女戦士セーラームーン』キャラクター商品は、1995年時点1000アイテム超えた。これらは今田長い期間、営業体制強化計り実効上げたものであった同社版権事業1960年『西遊記』から始まっており、この分野も日本に於ける草分けであった1987年には年間売上げ155億円を記録1977年11月東映マーベル・コミックと、スパイダーマン等の日本における版権業務契約締結。翌1978年東映側のキャラクターマーベル通じてアメリカ紹介したマーベル1988年まで多く作品東映動画発注し続けた中国文化大革命終結後1979年秋に岡田茂日本映画製作者連盟会長徳間康快らの尽力で、中国初め日本映画祭開催され東映中国初め上映されアニメーション映画といわれる龍の子太郎』を出品した映画祭準備段階で、当時中国アニメ制作力を入れていたことから、岡田徳間橋渡し頼み代表団中国のアニメーション手を組んで一緒に仕事をしたいと頼んだら、中国から東映動画組みたい返答があり、中国招待されたため、今田スタッフ連れて訪中し、従来韓国行っていたアニメ制作下請け中国にやってもらおうと、1979年からアニメ制作下請け中国移した1981年より新人採用再開させる。 1980年代以降は、東映屋台骨支えていく存在になった大川時代から変わって岡田今田時代東映動画は、"アニメーション総合商社"として第2の創業といえるものであった1966年から放送された日本初少女向けアニメ魔法使いサリー』は"魔女っ子もの"というジャンル開拓し、この流れは『ひみつのアッコちゃん』などの"変身もの"へ繋がり、その系譜『美少女戦士セーラームーン』や『プリキュア』などに受け継がれた。魔法使い少女アニメ変身して敵を倒すヒーローアニメ、人気の二大路線を東映動画合体させたのが『美少女戦士セーラームーン』世の女の子夢中にさせた同作は"女の子独立宣言"とも評され海外50ヵ国で放映された。同シリーズ版権売上高は「ドラゴンボールシリーズ同程度3000億円に達した。"女子向けアニメ"を確立したのも東映動画であった1980年代以降は『Dr.スランプ アラレちゃん『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』スラムダンク』『ONE PIECE』と立て続け『週刊少年ジャンプ』作品アニメ化、"ジャンプ黄金時代"を併走した。 1992年平成4年)、フィリピン地元企業EEIとの合弁EEI-TOEI Animation Corp.を設立。これによりコスト的に日本国内とほぼ変わらなくなった韓国代わりフィリピンへの制作委託体制確立した1996年平成8年)、東映グループにおける大人事改革の影響それまで継続していたテレビアニメ作品全てを一旦終了1995年平成7年)、人材育成目的として東映アニメーション研究所開設。ディレクター・アニメーター・美術デザイナーCGクリエーター研究生募集開始(現在は閉所)。1998年平成10年)、東映アニメーション株式会社商号変更した。

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1970 - 1990年代

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プロ野球中継」の記事における「1970 - 1990年代」の解説

読売ジャイアンツV9により人気全国的となり、対巨人戦中継キー局争奪する人気コンテンツとなった。またセ・リーグ優勝決定試合球団関わらず全国ネット生放送されることが恒例となっていった。一方パ・リーグ1980年代以降西武ライオンズ黄金時代到来したこともあり、対巨人戦ほどではないものの、中継される機会次第増加していった。 試合長時間化していったことから、特にセ・リーグの対巨人戦ナイター中継では各局、21時前の中継終了時点試合続いていた場合最大3060分の中継延長オプション設けようになった21以降番組順次繰り下げ)。 カメラマルチアングル化が進むなど、ハード面での新機軸導入多く取り入れられた。日本テレビでは1971年に「ワイプナイター」という延長放送の手法も取った中継時間終了後後続番組(「怪奇十三夜」内など)で画面一部ワイプ処理して中継映像を映すものであったが、同年日本映画監督協会から中止要請入り取りやめた。テレビ朝日では野村克也解説の下、ストライクゾーンを9分割した配球予測図のスーパーインポーズ表示「ノムラスコープ」が導入された。 1990年代以降スポーツ中継専門CS局BSデジタル放送局次々と開局し、12球団ほぼ全て中継カバーされるうになる。また試合中継時間制約がないことから徐々に契約者増やしていった。 日本シリーズデーゲーム開催だった頃は、テレビ・ラジオ中継では、民放NHKとの事実上同時放送が行われていた事があった。

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1970-1990年代

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世界都市」の記事における「1970-1990年代」の解説

1970年代から1980年代世界都市形成は、次第金融主導型のそれに傾斜し金融マネーグローバリズム所産という性格が、多分に強くなったと考えられる衛星通信コンピュータ通信飛躍的発展によって、世界金融センターを結ぶ24時間取引多国籍産業グローバル・マネージメント可能になったことも要因だと考えられる。こうして国際情報集積し、ボーダレス・マネーを動かして世界経済コントロールする国際金融センター現れ世界的な都市ヒエラルキー頂点立った1990年ごろには、ロンドン・ニューヨーク・東京が「三大世界都市」と呼ばれグローバル経済世界都市システム頂点に姿を現していた。ロンドンニューヨーク国際金融世界的な経済センターとしての位置強化し高次ビジネス・サービス経済重点移したのである世界経済はますます金融傾斜し世界的な金融市場拡大国際金融関連したビジネス・サービス収益性高めたロンドンニューヨークは、これらの国際的な金融ビジネス・サービス文化人の移動、ものの輸送デザイン通信などの中心として生まれ変わることで「世界都市」と呼ばれるようになったのである一方東京ロンドンニューヨークとは経済構造異なり大都市圏としてみてみると金融やサービスはいうに及ばずハイテク卸売業から都市型工業にいたるまで集積したフルセット型の産業構造であり、いわばオールマイティー経済機能をもつ都市として世界都市形成行った2001年大ロンドン庁公表した報告書ロンドン・プラン」においても、ロンドン・ニューヨーク・東京の3都市を「本物世界都市」と定義しており、世界都市としての三強時代続いていた。

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