1970-1980年代とは? わかりやすく解説

1970-1980年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:48 UTC 版)

河内洋」の記事における「1970-1980年代」の解説

体重が重かったこともあり、騎手免許試験には2年連続落第し免許取得19歳となった1974年のことであった同年3日中京競馬第2競走デビュー迎えると、ホースメンレディで初騎乗・初勝利を挙げる当年新人ながら関西7位(全国18位)の26勝を挙げ関西放送記者クラブ賞関西新人賞)および優秀騎手賞受賞翌年4月にはロッコーイチで小倉大賞典制し重賞初勝利挙げた以後順調に成績上げていき、6年目1979年にはアグネスレディー優駿牝馬オークス)を制し八大競走制覇を果たす。同馬は新馬戦時点ではベテラン久保敏文騎乗していたが、新馬戦2着を経て河内手綱回ってきた馬であった当時珍しいベテランから若手への乗り替わりは、新馬戦での敗戦馬主渡辺孝男久保騎乗に対して不満を抱いたためともされる。後にアグネスレディーの子孫は河内数々タイトルもたらすこともあり、河内は「久保さんが失敗しなければ、今の僕はなかったかも」と述べている。さらにこの年11月にはハシハーミット菊花賞制した。翌1980年には年間72勝を挙げ25歳にして全国リーディングジョッキーとなる1980年代入ってからは、河内4歳下の田原成貴が関西騎手界を牽引した性格騎乗ともに冷静かつ堅実であった河内対し田原破天荒派手さ売りとしており、対照的な両者巷間ライバルとして捉えられた。19831984年には田原全国リーディングの座に就き19851986年にはそれぞれ118勝、117勝を挙げた河内がこれを奪還している。後年河内作家藤本義一との対談において「ライバルとかは考えないですか」と問われ、「ライバルというのとは違うかもしれませんが、刺激を受けるのは田原(成貴)ですね。年齢彼の方がしたですけど、ある時代同じよう生きてきた時代ありましたからね」と答え、また田原著書の中で「騎手として伸び盛り時期仮想敵据えたのが河内さんで良かったと思う。あの人がいなければ、今の田原成貴はなかっただろう」と述べている。 この間にもカツラノハイセイコによる天皇賞・春1981年)、ヒカリデュールによる有馬記念1982年)、ロンググレイスによるエリザベス女王杯1983年)と、毎年のように大競走制したなかでも気分屋乗り難しかったカツラノハイセイコでは多く学んだといい、自身の「師匠みたいな馬」だとしている。 1984年日本中央競馬会競走格付けのためグレード制導入、さらに距離別体系明確化図り路線整備を行う。そうして新たに敷かれた「短距離路線」において、最初スターホースとして現れたのが、河内手綱をとったニホンピロウイナーであった通算2616勝、うち河内とのコンビでは1511勝、GI競走3勝を含む重賞7勝という抜群成績挙げた同馬について、河内は「マイル戦に強い僕をアピールするには、うってつけの馬だった」と評している。また、1986年から手綱をとったメジロラモーヌでは、桜花賞オークスエリザベス女王杯全勝し史上初の「牝馬三冠」を達成この頃河内には「牝馬河内」という異名付されるようになったニホンピロウイナーメジロラモーヌの2頭は、この時期河内の名を特に上げた存在であった1988年にはアラホウトク桜花賞を、サッカーボーイマイルチャンピオンシップ制するまた、公営笠松競馬から中央入りし、当時勃興しつつあった競馬ブーム中核となったオグリキャップでも重賞6勝を挙げた。同馬とのコンビ同年ジャパンカップ(3着)が最後となりGI優勝はなかったが、笠松時代主戦騎手務めていた安藤勝己は、『優駿1990年6月号に掲載されインタビューの中で「河内さんが乗っていた頃が、オグリキャップのいい面が出ていたと思う」と評している。当年6月4日には、33歳3カ月という史上最年少記録当時)での通算1000勝を達成また、自身1986年記録した年間重賞勝利記録12から13更新した

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1970-1980年代

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シティ・ポップ」の記事における「1970-1980年代」の解説

1960年代後半から現れ自作自演フォークロックのうち、演奏アレンジ凝った楽曲1970年代になると「ニューミュージック」と分類され従来樂曲との差別化図られたが、その枠組み次第拡散して曖昧となった。そのため「洗練された都会的なニューミュージック」を他と一線を画するために作られたのが「シティポップ」という分類であり、発案者はっきりしないが、ジャンル提示することで作品売りやすくするという商業的意図元にあった。「city pop」はネイティブには通じない和製英語であり、当初は主に「シティ・ポップス」と呼ばれたが、後に「シティポップ」が定着し1970年代から黒音盤ライナーノーツでその語が使われ始めている。 音楽性の面でシティ・ポップ源流一般に挙げられるのは、軽快なロックサウンドに日本語歌詞乗せた先駆的樂團はっぴいえんど1969年-1972年)であり、またシュガー・ベイブアルバムSONGS』(1975年)もシティ・ポップ嚆矢と言われることが多い。そのシュガー・ベイブアルバム起点とし、その後活躍した大瀧詠一山下達郎吉田美奈子荒井由実竹内まりや大貫妙子南佳孝などがシティ・ポップ基盤作り上げていったとされる。なお、シュガー・ベイブ限らずシティ・ポップ主要アーティストはほとんどが東京出身者もしくは東京拠点活動した者たちだった。従ってシティ・ポップ歌われるシティ」とは高度経済成長経た現代東京」であり、それもリアリズムから一歩引いた広告都市的な消費の街というフィクション性を多分に含んでいた。そうしたシティ」における、お洒落な私生活都会風景時には都市生活ならではの孤独感哀愁を、良いメロディ洒落たコード乗せて歌い上げたのがシティ・ポップだった。 シティ・ポップ成立した背景には、日本人生活水準の向上と、変動相場制導入円高による海外文物流入、いわば東京国際都市化という社会的変化があり、シティ・ポップ盛衰日本経済盛衰重なるところが多い。 バブル前夜日本人の生活がどんどん豊かになって、一般市民中に経済的精神的余裕生まれていった。そんな中で、平日は街で夜遊びして、オフには伊豆とか湘南サーフィンするという若い人たちのライフスタイル構築されていった平日週末都会の夜の喧騒ビーチリゾート感覚セットで、多くの人の意識にあったんだ。全てにおいて勢いがあって、手探り新しいものを作ろうという時代雰囲気そんななかシティポップという流れができてきて、聴く人にもウケたんだと思う。 — 角松敏生 1970年代において、シティポップアーティストの多くライブ行脚よりはスタジオでレコード制作重点置いていたため、松任谷由実などの例外除けばシティポップはまだ東京周辺での流行過ぎず全国区でのヒット曲はあまり生まれていない。しかし1970年代末YMOシティポップをさらに先鋭化させたテクノ・ポップ世間耳目集めたことで、彼らの周辺のシティ・ポップ・アーティストたちにも次第関心向けられるようになった。そして1981年には年間歌集成績で、寺尾聡の『Reflections』と大瀧詠一の『A LONG VACATION』というシティポップ名盤が1位と2位につけ、1980年代前半シティ・ポップ全盛期迎えた1980年代前半においてシティ・ポップは、山本達彦稲垣潤一杉山清貴といった美形男性歌手による都会楽曲というイメージ持たれており、特に山本稲垣女子大生から圧倒的な支持があった。また松田聖子「風立ちぬ」1981年)や「赤いスイートピー」(1982年)といったシティ・ポップ・ナンバーを大ヒットさせたようにシティ・ポップ歌謡界にも浸透していった。 バブル期消費絶讃時代において、CM とのタイアップから多くシティポップヒット曲産まれた。都会的洗練されたシティ・ポップ企業廣告との相性が非常に良く、またテレビ歌番組出演にあまり積極的でなかったシティ・ポップ・アーティストにとっても企業廣告貴重なプロモーション機会となった。その点でシティ・ポップは、フォークロックのように何らかのメッセージ例え反戦平和、管理社会への反発など)を主張するというよりは、商業音楽としての性格多少なりとも持っており、換言すればメッセージ性を排し純粋な音楽的追求産物ということもできる。 またシティ・ポップ普及の背景には音楽を聴く環境の変化、すなわちそれまでインドア高価な趣味だった音楽鑑賞が、テクノロジーの進歩により安価なアウトドア娯楽変化した点も挙げられる従来ならば音楽とは室内据え置いた重厚なステレオセットにレコードをかけて聴くのだったが、1980年代にはレンタルショップレコード安く借りて自宅カセットデッキテープダビングし、そのテープウォークマンラジカセカーオーディオで外へ持ち出して聴くというリスニング・スタイルが若者の間にも普及していった。そうした「外で聴く BGM」として、聞き心地のよいシティ・ポップはまさにうってつけであり、特に大瀧詠一の『A LONG VACATION』(1981年)と山下達郎の『FOR YOU』(1982年)はカーオーディオ占拠率双璧を成す名盤となった。そしてこの2枚により、東京のみならず横浜から湘南にかけてのリゾート色の強いエリアシティ・ポップ射程内へ入るようになった自家用車所持しこうした音楽的環境へ加わるために必要な機器全て所持する余裕のある、裕福な都会職業人モデルにしていたシティ・ポップは、ティーンエイジャー向けのポップソングではなく、より大人(またはそんな彼らに憧れを抱く若者)のリスナー対象にしていた。 1980年代初頭あらわれたシティ・ポップには、概ねより明確に定義されうる既存様々なポピュラー音楽ジャンル混在しており、独自の音楽的アイデンティティをほぼ持っていないが、大まかに理解するならば、概ね電子楽器アナログ楽器組み合わせたサウンド制作手法による、明るくクリーン洗練された音楽特徴である。多く場合日本語歌われる歌詞除いて日本近代大衆歌謡において「日本的」と通常考えられるような楽理特徴痕跡はほとんど見られず、歌詞について日本語ヨーロッパ諸言語(もっともよく用いられるのは英語)が頻繁に切り替わるシティ・ポップは、この「日本的な音楽」の証をも見出し得ない、という点こそが、その文化的コンテクストを最も明確に定義しうる要素となっている。 イラストレーター永井博鈴木英人わたせせいぞうといった卓越した一握りアーティストは独自のスタイル確立し真夏ビーチ海沿いハイウェイスイミングプールなどのイメージ通して1980年代初頭カノンにおいて支配的となった独自のスタイル生み出した。彼らのイラストは、山下達郎大瀧詠一といったシティ・ポップミュージシャンのアルバム・ジャケット用いられ代表的な視覚的記号表現となった一方で彼らが描いた海岸や海といった典型的なモチーフは、ありのまま自然というよりも「疲れ切った都会人夢見るレジャー空間」を表象しており、たいてい快適な都市生活シンボル囲まれている。その後1980年代半ばになるとシティ・ポップジャケットイラストから、よく似た構図写真へと置き換えられ時にはそこへ類型的なポップスターポートレート写真組み合わされた。これほど特徴的ではないもののしばしば見られるのは、そのジャンル名暗示する大都市」というテーマをより直接的にアピールするとともに富裕な都市環境を描くことで現代的洗練表そうとするカバー・アートスタイルであった当時シティ・ポップアートワークは、アメリカおおむねカリフォルニア想起させる)ものか、「トランスナショナル」な大都会描いたのであるが、東京横浜ビル街夜景であっても、それら都市景観のうちに日本らしさを示す要素皆無近く音楽的性質歌詞同様にシティ・ポップの「文化的無臭性」を反映している。このような都市海辺」という図像は「シティ・ポップ」というジャンル最初に誕生してから終焉するまで一貫しており、このジャンルを最も容易に識別する特徴となっている。音楽ジャーナリストのイアン・マーティンはかつて「基本的に80年代出たアルバムプールの絵を表ジャケット配したものはなんでも、おそらくシティ・ポップということになるだろう」と述べている。このようにシティ・ポップ歌詞が間メディア的にしばしば変換され、またアルバムアートワーク雑誌表紙、あるいはサウンドの特色等々反復強化していくことによって「ジャンル特徴」が形作られていったシティ・ポップ当時から「形骸化した浮わついた音楽」「現実感欠ける」などと批判的に捉えられることもあった。1980年代後半になると、まずロック中心主義的なバンドブーム」の勃興最初向かい風になった。さらにJ-POPという広範なパラダイム登場や、シティ・ポップ音楽環境別の技術的視聴覚モデルへ取って代わられることによって存在感なくしていった。そして1990年代入りバブル崩壊によって社会停滞感が漂うようになると、シティ・ポップ呼べ楽曲激減し代わりにKANの「愛は勝つ」の大ヒット象徴されるように、地に足の着いた内省的な歌がリスナーから好まれるようになったシティ・ポップは「J-POP」の中へ埋没してゆき、「シティ・ポップ」は死語クリシェ化したシティ・ポップ影響受けた渋谷系後継ジャンルとされることもあるが、制作意図音楽的特徴異なる。 2000年代には cero などのインディーズ・アーティストが「シティポップ・リバイバル」という形で言及されることもあった。

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1970 - 1980年代

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光石研」の記事における「1970 - 1980年代」の解説

博多っ子純情1978年) - 主演郷六平 役※デビュー作 男はつらいよシリーズ男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花1980年) - 上州アベック男 役 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌1980年) - 生徒 役 男はつらい花も嵐も寅次郎1982年) - 助手 役 男はつらい柴又より愛をこめて(1985年) - 青年B 役 セーラー服と機関銃1981年) - 高校生トリオ周平映画共演していた柳沢慎吾、岡竜也らと「ひょうたん三銃士(ひょうたんトリオ)」という3人グループ結成薬師丸ひろ子応援歌SENSATIONAL HIROKO』というシングルレコード映画キャンペーン一環発売した映画公開当時には3人が出演するPV映像作られ映画本編上映される前に映画館スクリーンでも流された。 近頃なぜかチャールストン1981年) - 襲われる男 役 ブルージーンズ メモリー1981年) - 若者1 役 BLOW THE NIGHT!夜をぶっとばせ1983年いとしのラハイナ1983年) - 阪東宗左衛門OKINAWAN BOYS オキナワの少年1983年) - 大原 役 泰造(1985年) - 角良孝 役 瀬降り物語1985年東映監督中島貞夫) - ジロー童貞物語1986年) - 大黒屋健太キネマの天地1986年) - 生田キャメラマン助手極道の妻たちII1987年) - ジロ吉原炎上1987年) - 冒頭巡査 役で緒形拳共演 スターダスト・ストーリー 星砂物語1987年…これから物語〜少年たちのブルース〜1988年) - 松沢肉体の門1988年) - サブバカヤロー!2 幸せになりたい。1989年) - 近代化センター男 役 潤の街(1989年)- 誠 役

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1970~1980年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 04:36 UTC 版)

ソルト (暗号)」の記事における「1970~1980年代」の解説

初期Unixでは、パスワードファイル /etc/passwd にソルトつきのパスワード保存されていた(パスワード前に2文字ランダムなソルト付いていた)。この頃の古いバージョンUnixでは、ソルトつきパスワードハッシュ値いっしょにソルトの値も(平文で)passwdファイル保存されていた。またパスワードファイルはシステムユーザ誰でも読むことができたが、これは、ユーザ権限で動くソフトウェアユーザ名やその他の情報を読むためにこのような仕様となっていた。そのため、パスワードセキュリティ一方向関数暗号化、またはハッシュ化)だけで保護されている状態だった。初期Unix実装では、パスワード最大長は8文字までで、ソルト12ビットであったソルト取りうる値は4,096通りとなる。これは1970年代における計算量ストレージコストから見れば、妥当なバランスと言えた。

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1970・1980年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 23:55 UTC 版)

椎名誠」の記事における「1970・1980年代」の解説

1970・1980年代 1979年さらば国分寺書店のオババ情報センター出版局1979年11月、のち角川文庫新潮文庫 1980年 『わしらは怪し探険隊角川文庫1980年3月気分だぼだぼソース情報センター出版局1980年8月、のち新潮文庫 1981年 『かつをぶしの時代なのだ』 情報センター出版局1981年4月、のち集英社文庫 『もだえ苦し活字中毒者地獄味噌本の雑誌社1981年4月、のち集英社文庫 1982年場外乱闘これからだ文藝春秋 1982年6月、のち文庫地球どこでも不思議旅』 小学館1982年11月、のち集英社文庫 1983年風にころがる映画もあった』 情報センター出版局1983年4月、のち角川文庫 1984年インドでわしも考えた小学館1984年2月、のち集英社文庫赤眼評論文藝春秋1984年2月、のち文庫日本細末真実紀行JTB出版局1984年3月、のち角川文庫風景進化論情報センター出版局1984年3月、のち新潮文庫あやしい探検隊 北へ情報センター出版局1984年5月、のち角川文庫 『むははは日記本の雑誌社1984年9月、のち角川文庫イスタンブールでなまず釣り。』 情報センター出版局1984年10月、のち文春文庫 1985年全日本食えばわかる図鑑小学館1985年3月あやしい探検隊 不思議島へ行く』 光文社1985年9月、のち角川文庫シベリア夢幻 零下59度のツンドラを行く』 情報センター出版局1985年12月、のち『零下59度の旅』と改題集英社集英社文庫1991年 1986年 『むはの断面図本の雑誌社1986年4月フグ低気圧講談社1986年9月、のち文庫 『海を見にいく』 本の雑誌社1986年12月 1987年パタゴニア-あるいは風とタンポポ物語り情報センター出版局1987年5月、のち集英社文庫ロシアにおけるニタリノフの便座について』 新潮社1987年7月、のち文庫少年の夏』 徳間書店1987年7月、のち新潮文庫活字サーカス -面白大追跡-』 岩波書店岩波新書1987年10月シベリア追跡小学館1987年11月、のち集英社文庫 1988年ハーケン夏みかん山と渓谷社1988年5月、のち集英社文庫熱風大陸 ダーウィンの海をめざして講談社1988年4月、のち文庫 1989年風の国へ』 朝日新聞社1989年9月、のち『風の国へ・駱駝狩り』と改題新潮社新潮文庫1994年駱駝狩り朝日新聞社1989年9月酔眼装置のあるところ』 本の雑誌社1989年12月、のち『ばかおとっつあんにはなりたくない』と改題角川書店角川文庫2003年

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