リーディングジョッキーとなる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:38 UTC 版)
「福永洋一」の記事における「リーディングジョッキーとなる」の解説
3年目の1970年に入ると洋一の騎乗を希望する馬主が増加し、また栗田や安田伊佐夫といった兄弟子が、良馬を選んで優先的に洋一に騎乗させるなど厩舎からの援助も受け、春先からリーディング争いでトップの位置を占める。最終的には86勝を挙げ、初めてリーディングジョッキーの座を獲得。同年3月1日には京都4歳特別でタニノモスボローに騎乗し、重賞初勝利を挙げている。 1971年もリーディングを独走していたが、秋まで重賞勝利がなく、一部では「数でこなしただけの勝ち鞍漁り」とも揶揄されていた。しかし10月に入り、ニホンピロムーテーで神戸杯、京都新聞杯を連勝。11月のクラシック最終戦・菊花賞では、距離が不向きかつ追い込み馬と見られていた同馬を、残り1500メートルで先頭に立たせるという奇策を打って勝利を収め、GI級レース・八大競走初制覇を果たした。これは洋一の騎手生活における代表的な騎乗のひとつとなり、本競走をきっかけとして洋一は「天才騎手」へと成長したともされる。柴田政人はこの時の洋一を評して、「これまでの洋一の騎乗は、荒っぽ過ぎると言って不評だった。ラフだと言われるのは自信のなさの裏返しだったのだろうが、この一戦でそれまでの迷いが吹っ切れて、自分の騎乗の方法論に自信を持ったと思う。ラフだという評価もこの後は消え、天与の才能を、これから大きく花開かせたのだ。その意味で、この一戦は洋一にとって凄く大きなものだった」と評している。 1972年の天皇賞(秋)ではヤマニンウエーブに騎乗し、パッシングゴールの道中40馬身差にも及んだ逃げをゴール直前でアタマ差捉えて優勝。その後はしばらく八大競走制覇からは遠ざかったが、1976年、洋一が騎手生活中の最強馬と評したエリモジョージで天皇賞(春)を制した。秋には天馬・トウショウボーイの騎乗も任され、神戸新聞杯、京都新聞杯を連勝している。また、この年の2月16日に日迫良一の姪・北村祐美子と結婚。12月9日、長男・祐一が誕生した。1977年春にはインターグロリアで桜花賞、ハードバージで皐月賞を制覇。この皐月賞では、最後の直線で内埒沿いのわずかな隙間に馬を突入させ、2着のラッキールーラに騎乗した伊藤正徳、3着のアローバンガードに騎乗した柴田政人が、それぞれ「ラチの上を走ってきたのかと思った」「神業に見えた」と語るなど、福永の代表的な騎乗に挙げられている。秋にはインターグロリアでエリザベス女王杯にも優勝するなど当年、野平祐二が保持した年間最多勝記録を19年ぶりに塗り替える126勝を記録。1978年にはオヤマテスコで桜花賞を連覇し、年間最多勝記録も131勝に更新した。
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