デビュー・笠松競馬の第一人者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 09:35 UTC 版)
「安藤勝己」の記事における「デビュー・笠松競馬の第一人者へ」の解説
1976年10月20日に騎手デビュー。初戦は笠松競馬第6競走でハツシンロードに騎乗し、初戦は9着であった。3日後にジュニヤチャイナで初勝利。12月26日にはシプリアパールで第1回ジュニアグランプリを制し、デビュー2か月あまりで重賞初勝利を挙げた。初年度は9勝、翌年は78勝と成績を上げ、3年目の1978年には116勝を挙げ、初のリーディングジョッキーとなった。以後、勝己は18年連続でその地位を保ち、笠松では「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日はない」といわれる名騎手となっていく。若手の頃に特に手本としたのは、名古屋競馬所属で、後年吉田稔を育てた山田義男であった。 1980年には地方競馬騎手招待出場のため中央競馬で初騎乗。後に種牡馬として名を成すヤマニンスキーで中央初騎乗・初勝利を挙げ、同馬を管理する浅見国一から「中央にトレードしたい騎手だ」と高く評価された。このころ執筆された山口瞳の旅打ち自戦記『草競馬流浪記』では、中央で「天才」と称された福永洋一になぞらえ「笠松の福永洋一」と紹介されている。
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