デビュー時の評判と原田の与えた影響とは? わかりやすく解説

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デビュー時の評判と原田の与えた影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 09:58 UTC 版)

原田真二」の記事における「デビュー時の評判と原田の与えた影響」の解説

日本ニオイまったくないメロディー」などと評されそれまでとは比べものにならないくらいポップ感覚あふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新し可能性と展開をもたらした原田自身も「最初から洋楽ロック世界目指した」と話している。ポール・マッカートニーエルトン・ジョンギルバート・オサリバンなどのロック系シンガーソングライター通じ本格的なポップス感覚は、それまでフォーク基調にした"私小説的"な、日本シンガーソングライターイメージ覆した。"元祖ピアノロック"等と今日いわれるように、男性ピアノ弾き語りというスタンス珍しかったこと、その特徴あるカーリーヘアー少女マンガ世界から飛び出したような可愛ルックスハスキーボイスが、女子中・高校生を中心に絶大な支持を受けロック・アイドル的人気博したすさまじ人気本家男性アイドル新御三家完璧に食い洋楽アイドルベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビ出ない"という風潮がある時代であった『ザ・ベストテン』TBS1978年1月放送開始)が始まったこの時期大里拓郎原田積極的にランキング番組アイドル系歌番組にも出演させた。『ザ・ベストテン』には第3回1978年2月2日放送で、ニューミュージック歌手として初出演第5回1978年2月16日放送では、番組初の2曲同時ランクイン以降毎回のように出演し、少し早くデビューしたChar同時期にデビューした世良公則&ツイストとともにロック御三家呼ばれ初め頻繁にテレビ出演したロック系ミュージシャンであった。また「月刊明星」、「月刊平凡」、「セブンティーン」などのメジャーなアイドル雑誌芸能誌にも頻繁に登場当時アイドル最大ステータスともいえた「月刊明星」(1978年3月号)の表紙や「TVガイド」の表紙ニューミュージック系、ロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど、極めて歌謡曲的な売り方話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した原田らが成功したことで、シングルチャートテレビ、ラジオ歌謡曲番組へのニュー・ミュージックミュージシャンが、地すべり的大量進出する傾向決定的なものとなり、日本の音楽シーン流れ大きく変わった。「ロック御三家」によって日本ロック・シーン活況呈しテレビ中心とした用意周到なメディア戦略打って出たサザンオールスターズそれまで地味な活動続けていたゴダイゴ甲斐バンド柳ジョージ&レイニーウッドなどが続いた結果的にロックアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し、巨大ビジネスとなっていったのである。「ロック御三家」が開拓したローティーン向けロック・アイドルの系譜今日まで絶えたことはない。ロックアーティストがテレビ本格的に向き合う"尖兵"となった原田登場は、後に続いた多くのポップシンガーに大きな影響与えており、その功績図り知れない『ザ・ベストテン』黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称付けられるアイドル性が強調されたが、マスコミ業界の間では"生意気"で通っていた。まだ10代という若さ、かわいいルックス相反する明確な主張ゆえに衝突生んだバラエティー番組での番組プロデューサーとのトラブル後述)に始まり新人ありながらレコード大賞」等、日本音楽界の権威象徴であった音楽賞への参加早々に辞退したことでマスコミから叩かれた。まだ"アーティスト志向"という括りがなかった芸能界において、洋楽志向の裏返しから脱アイドル望みアイドルじゃなくてアーティストです」と主張したりした。「歌謡曲最高にイヤ」「芸能界体制には巻き込まれたくない」「全米デビューしたい」発言等原田自身「『OUR SONG and all of you』に映る僕は生意気すぎて、今の僕にはまともに見れない」「洋楽世界のような音楽界デビューしたつもりでいたのが、そこは厳し日本芸能界だった」と当時振り返り話している。 この他当時音楽番組基本的に生放送生演奏多く出演歌手番組専属オーケストラバック演奏歌っていたが、生番組で自らのバンド率いて演奏する原田らと番組スタッフが、演出に対してもめることが多かった例えば、NHKホールなどの公開番組で、演奏必要なモニタースピーカー十分に用意されていなかったり、短時間の間にバンド入れ替えセッティングするのは難しかった新人意見するということ自体タブーだった時代、ちょっとでも意見をいうと「生意気なやつだ」となり一悶着そういう時代であったという。メインスタジオ別にセットを組む、別スタジオからの中継原田らの登場から始まったもの。こうした改善含めて彼らの頻繁なテレビ出演は、後のテレビ界・音楽界多大な影響及ぼしたといえる原田は「そこを一番最初にちゃんと改善してくれたのは『ザ・ベストテン』で、スタジオ内に多チャンネルミキサー置いてくれたし、目の前にモニタースピーカー用意してくれた。その後夜のヒットスタジオ』なども良くなっていった。『ミュージックフェア』は昔から良かった」等と話している。

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