デビュー時の評判と原田の与えた影響
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「原田真二」の記事における「デビュー時の評判と原田の与えた影響」の解説
「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評され、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした。原田自身も「最初から洋楽のロックの世界を目指した」と話している。ポール・マッカートニーやエルトン・ジョン、ギルバート・オサリバンなどのロック系シンガーソングライターに通じる本格的なポップス感覚は、それまでのフォークを基調にした"私小説的"な、日本のシンガーソングライターのイメージを覆した。"元祖ピアノロック"等と今日いわれるように、男性のピアノの弾き語りというスタンスが珍しかったこと、その特徴あるカーリーヘアーと少女マンガの世界から飛び出したような可愛いルックス、ハスキーボイスが、女子中・高校生を中心に絶大な支持を受けロック・アイドル的人気を博した。すさまじい人気は本家・男性アイドル新御三家を完璧に食い、洋楽アイドル、ベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した。当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮がある時代であったが『ザ・ベストテン』(TBS、1978年1月放送開始)が始まったこの時期、大里と拓郎は原田を積極的にランキング番組やアイドル系歌番組にも出演させた。『ザ・ベストテン』には第3回(1978年2月2日)放送で、ニューミュージック系歌手として初出演、第5回(1978年2月16日)放送では、番組初の2曲同時ランクイン、以降も毎回のように出演し、少し早くデビューしたChar、同時期にデビューした世良公則&ツイストとともにロック御三家と呼ばれ、初めて頻繁にテレビ出演したロック系ミュージシャンであった。また「月刊明星」、「月刊平凡」、「セブンティーン」などのメジャーなアイドル雑誌、芸能誌にも頻繁に登場。当時アイドルの最大のステータスともいえた「月刊明星」(1978年3月号)の表紙や「TVガイド」の表紙をニューミュージック系、ロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど、極めて歌謡曲的な売り方、話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した。原田らが成功したことで、シングルチャートやテレビ、ラジオの歌謡曲番組へのニュー・ミュージック系ミュージシャンが、地すべり的に大量進出する傾向が決定的なものとなり、日本の音楽シーンの流れが大きく変わった。「ロック御三家」によって日本のロック・シーンが活況を呈し、テレビを中心とした用意周到なメディア戦略で打って出たサザンオールスターズ、それまで地味な活動を続けていたゴダイゴ、甲斐バンド、柳ジョージ&レイニーウッドなどが続いた。結果的にロックはアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し、巨大ビジネスとなっていったのである。「ロック御三家」が開拓したローティーン向けロック・アイドルの系譜は今日まで絶えたことはない。ロックアーティストがテレビと本格的に向き合う"尖兵"となった原田の登場は、後に続いた多くのポップシンガーに大きな影響を与えており、その功績は図り知れない。 『ザ・ベストテン』で黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称を付けられる等アイドル性が強調されたが、マスコミや業界の間では"生意気"で通っていた。まだ10代という若さ、かわいいルックスと相反する明確な主張ゆえに衝突を生んだ。バラエティー番組での番組プロデューサーとのトラブル(後述)に始まり、新人でありながら「レコード大賞」等、日本音楽界の権威の象徴であった音楽賞への参加を早々に辞退したことでマスコミから叩かれた。まだ"アーティスト志向"という括りがなかった芸能界において、洋楽的志向の裏返しから脱アイドルを望み「アイドルじゃなくてアーティストです」と主張したりした。「歌謡曲は最高にイヤ」「芸能界の体制には巻き込まれたくない」「全米でデビューしたい」発言等、原田自身「『OUR SONG and all of you』に映る僕は生意気すぎて、今の僕にはまともに見れない」「洋楽の世界のような音楽界にデビューしたつもりでいたのが、そこは厳しい日本の芸能界だった」と当時を振り返り話している。 この他、当時の音楽番組は基本的に生放送・生演奏が多く、出演歌手は番組専属のオーケストラのバック演奏で歌っていたが、生番組で自らのバンドを率いて演奏する原田らと番組スタッフが、演出法に対してもめることが多かった。例えば、NHKホールなどの公開番組で、演奏に必要なモニタースピーカーが十分に用意されていなかったり、短時間の間にバンドを入れ替えセッティングするのは難しかった。新人が意見するということ自体がタブーだった時代、ちょっとでも意見をいうと「生意気なやつだ」となり一悶着、そういう時代であったという。メインのスタジオと別にセットを組む、別スタジオからの中継は原田らの登場から始まったもの。こうした改善も含めて彼らの頻繁なテレビ出演は、後のテレビ界・音楽界に多大な影響を及ぼしたといえる。原田は「そこを一番最初にちゃんと改善してくれたのは『ザ・ベストテン』で、スタジオ内に多チャンネルのミキサーを置いてくれたし、目の前にモニタースピーカーも用意してくれた。その後『夜のヒットスタジオ』なども良くなっていった。『ミュージックフェア』は昔から良かった」等と話している。
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