デビュー - 第1期カルテット時代
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「矢代俊一」の記事における「デビュー - 第1期カルテット時代」の解説
『タヒチ』を離れた矢代は、間もなくして大学を中退し、21歳の時、音楽修業のために単身ニューヨークに渡った。22歳の時、ジャズの世界の登竜門である「モントルー・ジャズ・フェスティバル」に飛び入りでセッションに参加し、そのサックスで何万人もの客を総立ちにさせるという伝説を作り、「ジャパニーズ・ミラクル・サックス・ボーイ」と大いに称えられた。 その伝説をひっさげて帰国した矢代は、日本でもネム・ジャズインに参加して、アメリカの超一流プレイヤーたちと激烈なセッションを行い、ジャズ・シーンの大きな話題となった。日本ジャズ界のニュー・ヒーローとなった矢代は、23歳の時に初めてのアルバム『矢代俊一ファースト』を制作した。 その半年後、24歳になった矢代は、ピアニスト・結城滉と出会った。初対面にして素晴らしいセッションを行った2人は意気投合し、それをきっかけとして、当時、日本ジャズ界のベスト・セレクトとの評価を受けた、第1期矢代俊一カルテット(サックス・矢代俊一、ピアノ・結城滉、ベース・サミー井上、ドラム・森村類)が結成された。 26歳の時、清涼飲料水のCMのために作曲した「ワナビー」が、6万枚のヒットとなった。そのCMに出演した矢代自身の容貌も話題を呼び、矢代は一般からも広く人気を集めるようになり、《ジャズ界の貴公子》などと呼ばれるようになった。続いて「ワナビー」をフィーチャーして制作されたアルバム『矢代俊一セカンド』も大ヒットし、「都会的なニュージャズのブーム到来」などとマスコミにも取り上げられるようになり、矢代の音楽的なキャリアはいったんピークを迎えたかに見えた。 だが、『矢代俊一セカンド』制作直後に訪れた結城の事故死が、大きな転機となった。生涯のパートナーと信じて疑わなかった結城の死に、強い衝撃を受けた矢代は、それからしばらく音楽活動を停止した。それに追い打ちをかけるように、海外志向の強かったサミーが英国へ移住し、森村も自らのバンドを結成したため、第1期矢代俊一カルテットは空中分解状態となった。そして、これ以降、矢代は自らの最大のヒット曲である「ワナビー」を長らく封印することとなった。(『流星のサドル』)
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