デビュー・活動開始
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「ベッチ・カルヴァーリョ」の記事における「デビュー・活動開始」の解説
彼女は10代になると、学生間のコンサートなどで当時流行っていたボサノヴァを歌うようになった。つまりベッチは当初サンバではなくボサノヴァの歌手として活動を開始した。ただし、これはごく当然の成り行きである。当時は白人が歌うサンバ・カンサゥンもあったが、サンバ自体が多く黒人由来の音楽であるのに対し、ボサノヴァは中流家庭の若者によって創られたものであったためである。 彼女は成長すると、カトリック大学PUCに進学し、国際関係学や心理学を専攻するかたわら、1965年にRCAレーベルから、マリオ・ジ・カストロ&アタイージ作“Namorinho”(ナモリーニョ)とホベルト・メネスカル&ホナルド・ボスコリ作“Por quem morreu de amor”(愛に死ぬ者によって)がカップリングされたデオダード編曲によるシングル盤でデビューする。翌年1966年には、オス・ガトスの“Aquele som dos Gatos”にコーラスで参加。またこの時期には、黒人系のサンバにも関わるようになりネルソン・サルジェントやノカ・ダ・ポルテーラといったエスコーラ系サンビスタのショーなどにも参加するようになった。1967年、コンジュント3Dのアルバム“Muito na onda”に参加した。これは彼女の歌を大きくフィーチャーしたもので日本盤も再発売されている。 1968年には、彼女はEMIオデオン専属のソロ歌手として独立し、その音楽活動が決定的なものとなった。同年ではブラジルで次々と歌謡祭やフェスティバルがブラジルで多く開かれた。当時Música nossa(ムジカ・ノッサ、僕らの音楽)と呼ばれるブラジル独自のアコースティックサウンドに回帰しようというムーブメントがジャーナリスト、アルマンド・エンヒッキによって提唱され、イパネマにあるサンタ・ホーザ劇場で“Musica Nossa O Som e o Tempo”(ムジカ・ノッサ、音とテンポ)というショーが行われたが、これが録音されレコードで発売された。またダニーロ・カイーミ&エヂムンド・ソウト&パウリーニョ・タパジョス共作の曲“Andança”(アンダンサ、歩み・軌跡)を第3回国際歌謡祭でエントリーして歌い、これが3位を獲得。これが観客に受けて、コーラスグループのゴールデン・ボーイズをゲストに迎えて録音、翌1969年に同タイトルのアルバムを発売し、TV Globoに出演。その後もTV Excelsior、TV Record、TV Tupiといったテレビ局の番組に出演し、黒人サンビスタのNelson Sargento(ネルソン・サルジェント)とも仕事するようになった。 この頃には家族でチジューカ地区へと引っ越したため、次第に黒人のサンバに傾倒していく。なお、彼女が最初に出した69年のアルバムは、まだサンバは歌っていないが、1973年の“Canto Por Um Novo Dia”では、多くの黒人サンビスタの曲を取り上げ、すでに現在のサンバ歌手としてのベッチを垣間見ることができる。まず家から近かったSalgueiro(サルゲイロ)のコミュニティーを手始めに、Estácio de Sá(エスタシオ)やMangueira(マンゲイラ)にも出入りするようになり、ネルソン・カヴァキーニョを師としてサンバを教わった。 そんな中に1976年にRCAに移籍後に出した“Mundo Melhor”(邦題:すばらしき世界)が大ヒット。黒人サンバが広く受け入れられるようになった。この作品は、78年に日本でも発売され、後にCDでも再発されている。
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