運用の変遷
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0番台のロゴマーク(現在は全車両消去済み) 0番台の「はやて」行き先表示 E2系との連結状態 E5系(量産先行車)との連結状態(2010年1月27日 東京駅) 「こまち」引退後のE3系0番台。側面ロゴが消されている。(R22編成) 当初は「なすの」運用を除けば「こまち」のみの運用であり、車体側面の「こまち」ロゴの横に「JR Akita-Shinkansen」(試験運行時は「SERIES E3」も)と表記されていたが、後に運用が拡大したのを受けこの表記は削除された。「やまびこ」・「なすの」として運転される際は、時刻表に「こまちタイプ車両を連結」と追記された。 上越新幹線での営業運転実績はないが、試運転・検査や新潟新幹線車両センターでの展示公開などで乗り入れ実績がある。 2011年(平成23年)11月19日より、E5系との併結運転を開始した。E5系と併結する場合、最高速度や加速度は本系列と同等に調整して運転される。2013年(平成25年)9月28日のダイヤ改正でE2系との併結運転を終了し、本系列の併結相手はE5系に一本化された。 2013年6月より秋田新幹線「こまち」にはE6系が投入され、置き換えられた本系列は順次「こまち」運用から離脱した。2013年4月12日付でR6編成が廃車になったのを皮切りに、同年9月末までに量産先行車のR1編成を含む9編成が廃車となった。 秋田新幹線からの引退を記念して、2013年(平成25年)11月下旬頃より残存編成に順次記念ラッピングが施工された。このうち、ラッピング施工第一編成であったR4編成は同年12月15日に引退セレモニーが行われた。 2014年(平成26年)3月15日のダイヤ改正をもって秋田新幹線区間での定期運用を終了し、同年3月までに8編成が廃車され、1998年までに落成したR1 - R17編成は全廃となった。一方で2002年以降に落成したR18 - R26編成は残存し、以下の通り改造・転用等が行われた以降はE5系との併結編成による「やまびこ」・「なすの」で使用された。 2017年(平成29年)3月25日には団体専用列車『秋田新幹線開業20周年記念号』が運行され、R21編成が充当された。本系列が営業列車として秋田新幹線区間を走行するのは、およそ3年ぶりとなる。 R18・R19編成 700番台に改造され、R18編成は「とれいゆ」、R19編成は「現美新幹線」となった。詳しくはそれぞれの項を参照。 R20編成 2014年(平成26年)3月14日に運行された、秋田新幹線における本系列のラストランに充当された編成。運用離脱後、長らく新幹線総合車両センターに留置されていたが、2015年(平成27年)12月17日付で廃車となった。 R23 - R26編成 編成を組み換えた上で山形新幹線へ転用され、R24・R25編成はL54編成、R23・R26編成はL55編成となった。組み替え時に編成から外れた車両は廃車された。詳しくは後述。 R21・R22編成 秋田新幹線からの撤退後も秋田車両センターに残存し、ロゴマークを削除し、E5系と併結して運用された。2019年(平成31年)3月16日のダイヤ改正以降は新幹線総合車両センター所属となった。 最後まで残存したR21・R22編成は主に16両編成の「なすの」「やまびこ」で運用され、繁忙期には東京駅 - 盛岡駅間の臨時「はやて」の運用に充当されることもあったが、2020年(令和2年)10月より新型コロナウイルス感染症による乗客減の影響で一部列車において編成短縮が行われた事を受け、2編成とも定期運用から離脱した。その後、R21編成は2021年9月13日付で、R22編成は2021年11月25日付で廃車され、0番台は全廃となった。
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運用の変遷
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「国鉄ワキ9000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は製作コストが割高であるため量産化には至らず、その後の冷延コイル鋼板輸送用貨車の増備は、トキ15000形を改造したトキ21500形の増備で対応した。 登場時は播但線飾磨駅に常備され、名古屋鉄道三河線土橋駅まで運用された。その後は、内房線君津駅常備を経て東海道本線笠寺駅に常備され、トキ21500形とともに名古屋臨海鉄道南港駅 - 信越本線東三条駅間で冷延コイル鋼板輸送に使われた。 1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化に際しては、2両全車がJR貨物に継承されたが、1995年(平成7年)4月に除籍され、形式消滅した。
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運用の変遷
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「国鉄チサ100形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は製作当初より一貫して北海道地区で使用され、第二次世界大戦終結後は戦時設計無蓋車トキ900形を改造した長物車チサ1600形などと混用された。1968年(昭和43年)10月ダイヤ改正(ヨンサントオ)において、同時点での在籍車488両は北海道内の限定運用車に指定され、車体側面に黄1号の帯と「道外禁止」の標記が追加された。その後は老朽化などで漸次淘汰が進行し、1975年(昭和50年)に最終在籍車37両が新製の長物車チキ7000形によって淘汰され、形式消滅している。
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「国鉄チキ2700形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は当初、レール輸送に使われたが、レール輸送が終息した1964年以降は、従来車より大型の車体を持っていたことから原木輸送に用いられたりした。1966年(昭和41年)にはチキ1300形とチキ2800形に改造された車両もあったが、その後はチキ7000形やチキ6000形に置き換えられる形で淘汰の対象となり、1982年(昭和57年)度に全廃された。
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「国鉄EF80形電気機関車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は1963年の新製配置から1986年の廃車まで、一貫して常磐線および水戸鉄道管理局(現・東日本旅客鉄道水戸支社)管内を中心に運用された。 1次形は田端機関区に、2次形は勝田電車区に新製時に集中配置されているが、後に勝田配置は解かれ田端配置車を含む一部車両は新規開設された内郷機関区に転属となった。1985年の内郷機関区廃止に伴い、再び田端区に集中配置となっている。 常磐線上野 - 平間で、寝台特急「ゆうづる」・夜行急行「十和田」をはじめとする各種の旅客列車・貨物列車に使用されたほか、以下の線区にも定期運用があった。 水戸線 (小山 - 友部)郵便車併結の客車列車が存在したため本形式の牽引で運用された。また、貨物列車を中心に一部の列車を常磐線や東北本線まで直通で牽引する運用も存在した。 総武本線(新小岩操 - 佐倉・金町) 外房線(千葉 - 蘇我) 新金線 以上のほか、まれに以下のような定期運用外の代替措置、臨時運用があった。 東北本線(田端操 - 郡山貨物ターミナル)上野 - 黒磯間を中心に臨時旅客列車に投入された事例 1960年代後半から1970年代前半にかけて田端機関区所属の本形式が宇都宮運転所所属のEF57形・EF58形運用の一部を代走(急行「八甲田」を牽引した事例) 両毛線(小山 - 佐野)成田空港建設工事に際して葛生から東武佐野線・両毛線・水戸線・常磐線・成田線経由で資材輸送の臨時貨物列車が設定され、佐野から我孫子までを本形式が牽引した 。 1973年には後継形式のEF81形が田端機関区に新製配置されたが、このEF81形は東北本線の貨物列車牽引の運用に充当され、常磐線での定期運用に就くことはなかった。その後1980年代になって、日本海縦貫線用として富山機関区や酒田機関区に配置されていたEF81形初期・中期車の余剰車が田端区に転配されて本形式の置換えが開始され、これに伴い常磐線の定期運用にもEF81形が就役することとなる。1986年までに本形式の全車が廃車され形式消滅した。JRグループへの承継車両はない。
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「国鉄ホキ2200形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
ホキ2200形は汎用性の高さから各地で使用され、昭和40年代後半は車両不足が深刻化した。国鉄では1974年(昭和49年)に本形式を追加製作して対応したほか、一部の荷主は類似仕様の車両を私有貨車として発注し使用した。 昭和53年からモータリゼーションの進展によって車扱貨物の輸送量は漸減するようになり、昭和57年、59年、60年および61年のダイヤ改正によって多くの余剰車が発生した。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化直前に半数以上が廃車されて545両が日本貨物鉄道(JR貨物)に承継されたが、1991年(平成3年)度から淘汰が始まり、その後も輸送手段の切替や輸送需要そのものの消滅などが進み、1999年(平成11年)度末までには33両にまで減少し、2000年(平成12年)度末を前に形式消滅している。
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「JR北海道キハ130形気動車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は1988年(昭和63年)度に5両、1990年(平成2年)度に6両が日高本線に投入された。これによって、日高線列車の所要時間短縮と運行の合理化に貢献した。 しかし利用者からの不満の声が多く、1990年(平成2年)ごろ高等学校教職員組合浦河高校班によって行われたアンケート調査では、「車内が狭い」といった意見が多数上がった。 そして、軽量車ゆえの脆弱さが早々と問題になっていく。1991年(平成3年)1月8日に発生した勇払付近での踏切事故で事故車は脱線転覆、特に低運転台の前頭部が大破し、運転士は両脚切断という重傷を負った。1996年(平成8年)1月12日にまたしても踏切事故が発生。この事故でキハ130-5が罹災して原形をとどめないほど大破し、修理不可能だったため、同年2月付で廃車されることになった。 さらに、サッシ露出の一重2段窓やデッキなし構造といった、本州以南向けの汎用車と大差ない仕様のため、冬期の車内保温能力が低く、更には海岸沿いの区間が多い日高本線の路線環境から、鋼板の薄い軽量車体が早期に塩害腐食するなど、短期間のうちに問題点が顕在化し、早期の置き換えを余儀なくされたのである。 老朽による淘汰は1998年(平成10年)10月4日から開始され、2000年(平成12年)度までに一般の運用を終了した。イベント用に「日高ポニー」色とされた キハ130-8 のみ残存したが、2001年(平成13年)6月17日の「さよなら日高ポニー号」(鵡川駅 - 静内駅間、苫小牧駅 - 鵡川駅間は定期列車に併結して運転)をもって完全に営業運転を終了した。同車が2002年(平成14年)度に廃車され、全車が除籍された。JR発足後に製作された旅客車の新形式では初の廃車による形式消滅である。本形式淘汰後の日高本線の運用は、本形式時代のダイヤを維持するため大出力機関を搭載したキハ40形(350番台)を再び投入することで賄っている。コストダウンのために投入された本形式が、かつて日高本線から転出させた車両と同型の車両に置き換えられるという皮肉な結果となった。
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「国鉄ホキ3000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は昭和電工が所有し、新興駅に常備され、塩尻駅へのアルミナ輸送にタキ17900形などと共に運用されていた。 2002年(平成14年)6月に最後まで在籍した1両(オホキ3007)が廃車となり同時に形式消滅となった。
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「国鉄タム500形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は小口輸送を中心に使われ、タサ1700形、タキ3000形が登場した後も並行して製作された。 その後は老朽化や小口輸送の減少により、廃車が進み、1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化に際しては日本貨物鉄道(JR貨物)へタム500形37両、タム4000形1両、タム9200形1両が継承されたが、2000年(平成12年)6月までに全廃された。
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「国鉄チキ4700形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
4700番台は西八幡駅に常備され、鹿児島本線上戸畑信号場 - 篠栗線篠栗駅間で運用されたが、1983年(昭和58年)までに全車廃車された。 4750番台は笠寺駅に常備され、新日本製鐵名古屋製鐵所のある名古屋臨海鉄道名古屋南港駅から北陸方面などへ運用された。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、日本貨物鉄道(JR貨物)へ7両全車が継承されたが、2008年(平成20年)3月17日に全車一斉に廃車され、形式消滅した。
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「国鉄タキ25000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は従来のタム・タサ級の車両に代わり、LPガス専用車の主力形式となったが、国鉄末期の1984年(昭和59年)から本形式の淘汰が始まり、1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時には245両が継承され、1995年(平成7年)度末時点では100両が現存していたが、その後も輸送体系の変化などで廃車が進み、2007年(平成19年)10月に最後まで在籍した1両( オタキ25356)が廃車になり同時に形式消滅となった。
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1000番台は1999年(平成11年)の山形新幹線新庄開業時に運用を開始した。2000番台は2008年(平成20年)12月から2010年(平成22年)3月にかけて7両編成12本(84両)が落成し、2008年12月20日の「つばさ112号」(山形発東京行)より営業運転を開始し、2010年4月までに400系を全車代替した。 当初は400系との共通運用が組まれ、その撤退後も併結車両がE4系(いずれも最高速度240km/h)に限定されていたが、2012年3月17日のダイヤ改正からE2系との併結運転が行われるようになり、最高速度275km/hでの営業運転を開始した。 L51編成は、後述のL54編成と入れ替わる形で運用を離脱し、2014年(平成26年)8月20日に新幹線総合車両センターへ回送され、同年9月5日付で廃車となった。L52編成も、後述のL55編成と入れ替わる形で運用を離脱し、2015年(平成27年)2月4日付で廃車された。これにより、本系列にてGTO-VVVFインバータを搭載する編成が全廃となった。
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「国鉄タキ50000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
製油所や油槽所に近接する、輸送量の大きい駅間の運用に用いられた。常備駅は清水駅(静岡県)・塩浜駅(三重県)・石油埠頭駅・本輪西駅(北海道)・浜安善駅(神奈川県)など、石油関係施設付近の駅が多くを占めた。 大荷重車であり、本形式を効率的に使用できる区間は限られた。後に一般的な二軸ボギータンク車タキ35000形・タキ43000形が大量製作され、拠点間の大規模輸送もこれらの形式で運用されるに至ると本形式の意義は薄れた。車体長が長く、既存の二軸ボギータンク車用の荷役設備に適合しないこと、少数形式ゆえ構造が特殊なものとなり保守が煩雑であったことも加重し、国鉄末期から漸次淘汰されるようになる。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時は、タキ50000形52両、タキ55000形21両が日本貨物鉄道(JR貨物)に車籍を継承された。その後は急速に淘汰が進み、タキ55000形は1990年(平成2年)9月までに、タキ50000形は1993年(平成5年)7月までに全車が除籍されている。
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「国鉄タキ15600形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
東邦亜鉛所有車は関東地区、日本鉱業所有車は北陸地区でそれぞれ用いられ、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化では38両全車がJR貨物に車籍を承継された。 東邦亜鉛所有車 詳細は「JR貨物トキ25000形貨車#運用」を参照 新製時より福島臨海鉄道宮下駅に20両(コタキ15600 - コタキ15619)を常備し、小名浜製錬所のある宮下駅から安中製錬所のある信越本線安中駅までの専用貨物列車に、同社所有の亜鉛精鉱専用無蓋車トキ25000形とともに使用されている。2012年時点では1日1往復で運転され、通常は本形式やタキ1200形を合わせた12両にトキ25000形6両を組成した18両編成が所定となっている。 1987年のJR移行では20両全車がJR貨物に車籍を承継され、引き続き全車が運用されているが、製造から40年以上が経過し、長距離輸送による老朽化が目立ってきたため、2011年(平成23年)に後継となるタキ1200形の運用が開始され、本形式と混用されていたが、順次、タキ1200形と入れ代わった。その後についてはJR貨物からは特に公表されていない。 なお、一部の車両では台車を廃車発生品のコロ軸受台車 TR209 形に交換している。 日本鉱業所有車 北陸本線の敦賀駅に18両(コタキ15620 - コタキ15637)を常備し、敦賀製錬所のある敦賀駅と、三日市製錬所のある黒部駅との間での輸送に使用されていた。1985年(昭和60年)の亜鉛精錬分社化に伴い所有者が「日鉱亜鉛」に変更され、JR移行では18両全車がJR貨物に車籍を承継された。引き続き同区間で使用されたが、1995年(平成7年)11月の亜鉛事業休止で用途がなくなり、翌1996年(平成8年)に在籍18両全車が車籍除外となった。
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「東急5000系電車 (初代)」の記事における「運用の変遷」の解説
1954年10月14日に公式試運転が行なわれた後、東横線で10月16日に運用を開始した。5000系の3両編成が4本に達した後の1955年4月1日のダイヤ改正より、東横線に渋谷駅と桜木町駅を34分で結ぶ急行運転が再開された。急行運転開始後は車内放送装置にオープンリール式のテープレコーダーによる女性のアナウンスが流れるようになったが、メンテナンスの問題からすぐに使用が中止されている。急行は当初日中のみの運転で、終日運行されるようになったのは同年10月1日からである。1957年5月から、順次デハ5100形を組み込み4両編成化された。 1958年12月からはラジオ関東(当時)の放送を、誘導無線により受信した上で車内に流す試みを開始した。この放送は1964年に取り止めとなり、誘導無線は業務用無線に転用された。 1959年にはクハ5150形が登場し、デハ5000形に5050号が登場することによってサハ5050形はサハ5350形へ改番された。最終増備車両は1959年10月に入線したデハ5120で、5000系は合計105両となり、最長で6両編成を組んで運用された。 1970年に東急田園都市線から東横線に転属した7000系が急行に使用されるようになったため一部が田園都市線に転属した。 1977年(昭和52年)より長野電鉄への譲渡が開始され、その後1980年(昭和55年)には福島交通への譲渡など徐々に保有数は減少した。 東急線では、1979年8月の田園都市線・新玉川線(当時)と東急大井町線との運転系統分離時に、大規模な車両の転配が行われた 。この時点で田園都市線・新玉川線は8500系に統一され、5000系は5両編成15本が大井町線に配置された。一方、東横線用は5000系が4両 + 2両、5200系4両 + 5000系 2両のわずか12両だけの配置となっていた。翌1980年、8000系列の増備に伴って新玉川線用から東横線に8033F・8035Fの5両編成2本が復帰したことで 、同年3月29日をもって東横線から撤退した。 大井町線では前述の1979年8月時点で全23編成中5000系が15編成と主力車両となっていたが、翌年以降は東横線への8000系や8090系の増備に伴い、捻出された7000系などに置き換えられる形で1985年3月中に運用を終了した。 大井町線では5両全車が電動車編成を組んだこともある。 東急目蒲線では東横線の運用終了後に配属が始まり、1980年4月15日より3両編成2本が運転を開始した。その後、目蒲線には最大3両編成9本が配置されていたが、1986年3月から5月にかけて大井町線から7200系が転入したことで 、同年6月18日を最後に営業運転を終了した。最後まで残っていた5047-5354-5050の3両編成は、5047号車に引退記念ヘッドマークを装着していた。 なお、東急池上線では、全長が18.5mの本系列は入線できなかった(5200系は入線実績あり)。
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運用の変遷
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「国鉄チ1000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
製作当初より、コンクリートパイル・一般鋼材・レールなど長尺物輸送時の遊車として用いられたほか、嵩高軽量貨物輸送への充当例も存在した。 遊車運用では、車体長を超える長尺物を積載した貨車の両隣または中間に本形式を組成し、本形式自身には積荷を積載しない。 1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)に3両、東日本旅客鉄道(JR東日本)に11両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に1両、九州旅客鉄道(JR九州)に4両、日本貨物鉄道(JR貨物)に12両の合計31両が承継された。用途は概ね従前と同様で、レール輸送の際に長物車の編成端部に組成する遊車用途が主体である。旅客会社では2021年(令和3年)5月22日にJR東日本に最後まで残った1両が廃車され全廃、JR貨物には2009年(平成21年)時点で5両が在籍する。 JR北海道に在籍していた車両は、専ら構内入換用の控車として用いられ、車体全周にわたる大形の手摺りを追設していた。
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運用の変遷
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東海道・山陽新幹線内を走破する、すべての定期「ひかり」および、臨時扱いだが毎日運転する「ひかり」として運転された。時刻表にも、1989年5月号より"「グランドひかり」・2階建て4両"と記載された。
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運用の変遷
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「国鉄セキ3000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は北海道の他に、中国・九州地区などでも使用された。また、国鉄では運用の効率上、1950年代までは鉱石輸送用ホッパ車の私有を認めなかったため、特定の荷主・区間では石炭車の使用を認めた。このため、本形式は汎用ホッパ車の代用としても使われ、積荷も石炭だけでなく、石灰石、鉄鉱石、硫化鉄鉱、甜菜などの輸送にも使われた。 国鉄分割民営化に際しては、日本貨物鉄道(JR貨物)にセキ3000形81両、セキ6000形536両が継承されたが、石炭産業の衰退で北海道からは撤退し、セキ3000形が1993年(平成5年)までに廃車され、形式消滅した。最後まで運用されていた美祢線美祢駅 - 宇部線宇部港駅間の石灰石輸送もトラック輸送に切り替えられ、セキ6000形も1998年(平成10年)までに全廃された。
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運用の変遷
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「クリスタルエクスプレス トマム & サホロ」の記事における「運用の変遷」の解説
運行開始時より季節ごとの臨時列車に使用されていた。臨時特急「トマムサホロスキーエクスプレス」(札幌 - 新得間)の運用を主とし、2000年代以降は「フラノラベンダーエクスプレス」(札幌 - 富良野間)、その他多客期の臨時特急「とかち」(札幌 - 帯広間)などにも用いられた。2013年(平成25年)冬から2014年(平成26年)7月末まで、エンジントラブルにより「北斗」のキハ183系が長期に運休となっていたため代替車両として運転された。 しかし2019年時点で運用開始から30年が経過し車両の老朽化が目立ってきたことから、同年9月29日の札幌駅 - 富良野駅(函館本線・根室本線経由)間の往復運行をもって引退。同年11月30日付で廃車された。翌2020年5月からは苗穂工場と五稜郭車両所で車両の解体が開始された。
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「国鉄セキ8000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は当初、北海道地区でセキ3000形・セキ6000形と共に使用され、国鉄分割民営化に際しては日本貨物鉄道(JR貨物)に155両全車が継承された。しかし石炭産業の衰退により北海道での石炭輸送がなくなると、鹿児島本線大牟田駅 - 伊田線金田駅間や美祢線美祢駅 - 宇部線宇部港駅間に転用された。1990年度(平成2年度)から廃車となる車両が現れ、宇部線の石灰石輸送がトラックに切り替わった1998年(平成10年)までに全廃され、石炭車が消滅した。
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「JR四国8000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
落成当初は半室グリーン車が1号車の5両編成5本と4両編成1本(ともにL編成)に、付属編成となる3両編成(S編成)5本の陣容だった。 その後、1997年(平成9年)11月29日のダイヤ改正からは、多客時を除く昼間の電車特急はすべて多度津駅 - 松山駅間において「しおかぜ」と「いしづち」を連結した8両編成で運転することになり、車両編成を全部共通にして運用を組みやすくするため、4両だったL2編成に挿入するための1両(8300形)と、3両編成1本(S6編成)の計4両が追加製造されている。 1998年(平成10年)3月14日のダイヤ改正からは、岡山方面の所要時間短縮のため、宇多津駅構内のデルタ線を利用して編成ごと向きを転換し、半室グリーン車が8号車になっていた。2014年(平成26年)3月15日のダイヤ改正で再度方向転換が行われ、半室グリーン車が1号車となっている。これは、グリーン車を2000系気動車と同じ下り側に統一することで、利便性を向上させるためである。 5両編成のL編成6本30両と3両編成のS編成5本15両の計45両が松山運転所に配置されている。運用はそれぞれ5本・4本なので、運用中に故障やダイヤの乱れが発生し、かつ残り各1編成が検査や故障などで使えない場合は列車運休や予備車両(主に多度津駅 - 高松駅間における2000系やキハ185系)に編成を変更することがある。 「しおかぜ」と「いしづち」の併結列車は、多客期は一部列車を除く全編成が岡山駅発着の「しおかぜ」になり、「いしづち」は高松駅 - 宇多津駅・多度津駅間のみの分離運転になる。この一部列車にもS編成が使用される。また1998年には「南風」と「しまんと」の併結列車が、多客期に「しまんと」編成を分割せずに岡山へ直通した時に、多度津駅 - 高松駅間に代走列車として平行ダイヤを組む「しまんと」が運転されたが、この一部列車にもS編成が使用された。 2022年3月12日以後は、以下の列車で運用されている。 L編成 特急「しおかぜ」:S編成で運転の下り1号/上り2号と8600系の下り7・11・19・23号/上り8・12・20・24号以外 うち、下り9・21号/上り10・22号はL3編成で運転 特急「いしづち」:下り1号を一般編成、下り101号(日祝日以外)/上り104号(祝日の前日と土曜日以外)をL3編成で、運転 特急「モーニングEXP高松」(上り1本):伊予西条駅 - 高松駅 S編成 特急「しおかぜ」:下り1号/上り2号 特急「いしづち」:L編成で運転の1号と8600系の下り103・7・11・19・23号/上り8・12・20・24・102・106号以外 うち、下り101号の日祝日と上り104号の祝日の前日及び土曜日、下り9・21号/上り10・22号はS3編成で運転
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「国鉄シキ1000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
製作当初は3両とも日本通運が所有する私有貨車として、変圧器などの特大貨物(特定大形貨物)の輸送に使用された。高砂駅(兵庫県)や日立駅(茨城県)を常備駅としていたが、1987年(昭和62年)1月12日に3両とも除籍された。1990年(平成2年)6月、8月、10月にそれぞれ1両ずつJR貨物が日本通運から購入し、JR貨物が直接所有する貨車として車籍が復活した。このため、元の所有者であった日本通運の社紋や銘板は車体から撤去されている。2017年3月時点で、3両全車が運用中。
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「新幹線N700系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
ダイヤ改正のぞみひかりこだま所属編成(JR東海)所属編成(JR西日本)備考Z編成X編成G編成N編成K編成F編成2007年7月1日8 0 0 Z1 - Z5 N1 N700系0番台(Z編成)・3000番台(N編成)登場 2008年3月15日41 2 4 Z1 - Z16 N1 - N8 2009年3月14日81 5 2 Z1 - Z32 N1 - N9 2010年3月13日120 7 7 Z1 - Z48 N1 - N14 500系が定期「のぞみ」から撤退東海道・山陽直通「のぞみ」のN700系化完了 2011年3月12日149 7 7 Z1 - Z64 N1 - N16 2012年3月17日163 18 18 Z1 - Z80 N1 - N16 300系引退定期「のぞみ」のN700系化完了 2013年3月16日163 19 26 Z1 - Z80 G1 - G6 N1 - N16 N700系1000番台(G編成)登場 2014年3月15日163 39 41 Z1 - Z5Z15 - Z35, Z37Z48 - Z64Z66, Z67Z79, Z80 X6 - X14X36X38 - X47X65X68 - X78 G1 - G13 N1 - N3N6 - N12N14 - N16 K4, K5, K13 F1 N700系4000番台(F編成)登場N700系0番台(Z編成)→2000番台(X編成)改造開始N700系3000番台(N編成)→5000番台(K編成)改造開始 2015年3月14日164 44 43 Z1 - Z5Z33,Z35,Z37Z64,Z66, Z67 X6 - X32X34,X36X38 - X63X65,X68 - X80 G1 - G19 N6,N7, N9N11, N16 K1 - K4K5, K8, K10K12 - K15 F1 2016年3月26日164 47 48 X1 - X80 G1 - G25 K1 - K16 F1 - F5 N700系0番台(Z編成)→2000番台(X編成)改造完了N700系3000番台(N編成)→5000番台(K編成)改造完了 2017年3月4日164 65 50 X1 - X80 G1 - G31 K1 - K16 F1 - F9 東海道新幹線における定期「ひかり」のN700系化完了 2018年3月17日164 65 63 X1 - X80 G1 - G39 K1 - K16 F1 - F12 2019年3月16日164 65 78 X1 - X80 G1 - G45 K1 - K16 F1 - F17 2020年3月14日164 65 85 X1 - X80 G1 - G51 K1 - K16 F1 - F22, F24 700系が東海道新幹線での営業運転を終了 2020年7月1日164 65 85 X1 - X80 G1 - G51 K1 - K16 F1 - F24 N700S系登場(N700系と共通運用) 2021年3月13日155 62 79 X1- X11X18,X20,X21X23- X80 G1 - G51 K1 - K16 F1 - F24 2009年度末までに東京駅 - 博多駅間運転の定期「のぞみ」すべてを含む110本以上、2011年度末までにすべての「のぞみ」が本系列での運転とされた。これにより、共通運用していた500系は編成を16両から8両に短縮して「こだま」に、700系は順次「ひかり」「こだま」にそれぞれ転用され、300系・100系を逐次置き換えた。
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運用の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:54 UTC 版)
本形式は新造から一貫して東西線直通運用に使用され、他線区への転属も行われなかった。 1972年(昭和47年)5月18日、乗り入れ先の営団東西線行徳 - 浦安駅間を走行中にモーターカバーが破損する事故が発生し、破片は床板を貫通して車内を抜け天井に突き刺さり、乗客2名が脚に重軽傷を負った。事故原因を設計段階からのミスと認めた国鉄は、事故車の301系407Fを一時的に運用から離脱させている。
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運用の変遷
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6両編成化され、国分寺線で運用される3005編成。(小川・2010年11月) 東京富士大学の広告編成となった3017編成。(小川・2010年8月) 東京富士大学広告編成に装着されるヘッドマーク 初回に導入された1次車3編成24両は東急車輛製造において新製され、当初より8両編成で落成した。当初1次車は5編成40両を導入する予定であったが、自社工場である西武所沢車両工場における生産稼働率確保を目的として計画が変更され、本系列の製造予算の一部を301系2編成16両分に振り分けたという経緯を有する。2次車以降は西武所沢車両工場において新製され、同工場の生産能力の都合上いずれも4両(クハ3000-モハ3100-モハ3100-クハ3000)の暫定編成で落成したのち、追って落成した中間車4両(モハ3200-モハ3200-モハ3300-モハ3300)を組み込んで8両の正規編成とする手法が採られた。
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運用の変遷
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「東京メトロ16000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
2010年7月29日に第01編成(第41編成)が川崎重工業兵庫工場から出場し、綾瀬車両基地まで甲種輸送された。同年11月4日に営業運転を開始し、同年11月24日よりJR線で、同年11月26日からは小田急線でも運用が開始された。 営業運転開始当初、小田急線との直通種別は多摩線唐木田駅発着の急行と多摩急行のみで、通常ダイヤでは新百合ヶ丘以西の小田原線での東京メトロの車両による運用はなかったが、営業運転開始前の深夜試運転では本厚木駅まで、2011年12月10日には第05編成(第45編成)が試運転で海老名駅までそれぞれ入線した。ダイヤ乱れが生じた場合に備え、6000系・06系にはなかった「新宿」などの行先表示が用意されている。 その後、2016年(平成28年)3月26日改正で、通常ダイヤでも準急の運用が開始され本厚木駅まで運用されるようになった。2018年(平成30年)3月17日にダイヤ改正で多摩線への直通が廃止され、小田原線の乗り入れ区間は伊勢原駅までとして、急行・通勤準急・準急・各駅停車に使用されている。また、平日1本のみ登戸発各駅停車本厚木行きの小田急線内完結の列車も担当する。 16000系 第06編成(第46編成) 甲種輸送(2011年4月1日 新長田駅) ローレル賞受賞記念ステッカーを前面に貼り付けた16000系(2011年11月27日 綾瀬車両基地) ローレル賞受賞記念側面ステッカー 車内に設置されたローレル賞受賞記念プレート
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運用の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/22 09:16 UTC 版)
本形式は極限まで軽量化したため、走行安定性の不安から落成後は徹底した走行試験が行われた。コンテナの積載に際しては制限が設けられ、入換を含む走行時にはコンテナ3個を積載するかあるいはコンテナなしで運用しなければならないという制約があった。このため、コンテナ1 - 2個積での走行は禁じられた。積載効率に制約のある本形式は単年度の製作に留まった。 落成後は隅田川駅と汐留駅に常備され、急行貨物列車で運用された。1971年(昭和46年)に2種5t(12 ft)コンテナが登場するとサイズの関係で車体中央に1個しか積載することができなくなる欠点が生じた。 末期は大部分が北海道地区でコム1形を置きかえる形で運用され、1983年(昭和58年)度までに廃車され、形式消滅した。
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運用の変遷
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「国鉄タキ6250形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
入籍以降、2形式12両全車が磐梯町駅(磐越西線・福島県耶麻郡磐梯町)を常備駅とし、近傍の日曹金属会津工場で亜鉛精錬の副産物として生産された無水硫酸の輸送に用いられた。1983年(昭和58年)に同社が事業の整理統合を実施し、無水硫酸の生産拠点を関連会社の日曹千葉リファイン千葉工場(千葉県市原市)に集約したことに伴い、タキ1200形は廃車され、タキ6250形は11両全車が甲子駅(京葉臨海鉄道・千葉県市原市)に常備駅を変更した。1983年(昭和58年)10月14日に社名変更が行われ、所有者名は日曹金属化学となった。 1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化ではタキ6250形の全車がJR貨物に車籍を承継された。化成品輸送拠点を擁する安治川口駅などを主たる運用先としてきたが、輸送終了に伴い1997年(平成9年)度末までに5両が廃車となった。残存6両は神岡鉱業に名義変更され、神岡鉱山前駅(神岡鉄道・岐阜県飛騨市)を常備駅として近傍の神岡鉱山で副生する硫酸の輸送に用いられた。転用に伴い、無水硫酸輸送用の諸設備を改造・撤去し、専用種別を「濃硫酸及び発煙硫酸専用」に変更している。2005年(平成17年)に同鉄道の硫酸輸送が終了したため、事実上用途を喪失し、2007年(平成19年)までに全車が廃車され、形式消滅した。
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運用の変遷
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「国鉄シキ700形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 本形式は製作時より常磐線の常陸多賀駅(茨城県日立市)に常備され、近隣の日立製作所国分工場で製作された超大型変圧器の輸送に使用された。1968年(昭和43年)10月国鉄ダイヤ改正では最高速度 65 km/h 以下の「低速貨車」とされ、識別のため車体側面に黄1号(■)の帯を配した。その後も使用され続けはしたが、各種情勢の変化に伴い余剰となり、1982年(昭和57年)6月17日に除籍され、のちに解体された。
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運用の変遷
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「国鉄タキ40000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
1976年(昭和51年)1月22日に先行試作車2両(タキ40000, タキ40001)が製作され、各種試験への供試を経て同年6月から量産車(タキ40002 - )が製作された。1977年(昭和52年)10月3日までに120両(タキ40000 - タキ40119)が完成し、常備駅を成田駅に定めた上で1978年3月2日から成田空港向け航空燃料輸送への使用を開始した。運行系統は鹿島港(発駅:鹿島臨海鉄道 奥野谷浜駅)から鹿島線・成田線を経由する「鹿島ルート」、千葉港(発駅:京葉臨海鉄道 前川駅・甲子駅・浜五井駅)から総武本線を経由する「京葉ルート」の2区間が設定され、成田市街地の北側に設置された土屋燃料中継基地までの専用列車として運行された。1日の運行本数は鹿島ルートが5往復、京葉ルートが2往復である。 航空燃料輸送はパイプライン完成まで継続する暫定対応であったが、1981年3月までに完成予定としていたパイプラインの建設工事が遅延したことから暫定輸送期間は延長された。本形式は1981年(昭和56年)3月までに20両(タキ40120 - タキ40139)を追加製作し、引き続き航空燃料輸送に使用された。パイプラインが竣工し、1983年(昭和58年)8月8日からの供用開始決定を受け、本形式による航空燃料輸送は同年8月6日を以って終了した。航空燃料輸送終了後は専用種別を「ガソリン専用」に復し、他のガソリン専用車と混用された。 本形式は安全性向上を最重視した設計ゆえに重量増加と積載効率低下を回避できず、第2次石油危機の発生・国鉄貨物部門の縮小指向などを原因とする石油製品輸送実需の停滞もあって、以後の製作はなされなかった。1982年(昭和57年)の保安対策諸基準改訂でフレームレス構造が条件付で容認されると、以後の輸送需要は輸送効率に優れるタキ43000形の製作再開で賄われている。 1987年(昭和62年)度末時点で、本形式は全車が名古屋南港駅(名古屋臨海鉄道南港線)常備とされている。入線可能な区間が限定される運用制限貨車であるため、タキ43000形などと共に幹線系統の石油専用列車に多用された。 1987年(昭和62年)のJR移行では140両全車が車籍を承継された。引き続き各地の石油専用列車に用いられてきたが、後継となるタキ1000形の製作進捗によってタキ35000形など 35 t 積車の淘汰が完了すると、本形式も淘汰の対象となり2008年4月から車籍除外車が発生した。2010年(平成22年)4月の時点では36両が在籍していたが、2015年4月時点では在籍がなく、その後形式消滅したものとみられる。
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運用の変遷
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「国鉄タキ38000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は「標準タンク車」として製作されたタキ35000形の後継形式となったが、国鉄貨物輸送の赤字が問題化し規模縮小を指向した時期であったこと、第2次石油危機を受け輸送需要自体が長く停滞したことから実需に至らず、製作は1979年(昭和54年)までの140両で終了した。 タキ35000形までの主要なガソリン専用タンク車では同一基本設計の石油類専用車が並行して製作されたが、本形式の開発時点では C 重油など高比重油種の需要が激減し、既存の石油類専用車が大量に余剰化していたことから、本形式派生の石油類専用車は製作されていない。 大規模拠点向けの石油専用列車から一般の貨物列車に組成した小規模油槽所向け輸送にまで使用範囲は広範囲にわたり、タキ35000形・タキ9900形などと混用された。本形式はタキ35000形 (12,620 mm) より全長が長く (13,050 mm) 、従前の形式であるタキ3000形・タキ9900形の仕様に適合する荷役設備をもつ輸送基地で重用された。代表例として、久喜駅(埼玉県久喜市)で東北本線から東武鉄道へ継走され、伊勢崎線・佐野線を経由し北館林荷扱所(群馬県館林市)を着駅とする、両毛丸善(館林油槽所)向けの石油専用列車があった。 1987年(昭和62年)のJR移行では140両全車がJR貨物に車籍を承継された。引き続き各地で石油専用列車に用いられてきたが、小規模拠点への輸送需要が漸減し拠点間大量輸送の比重が相対的に高じたこと、タキ1000形の製作進展により最高速度 95 km/h の高速石油専用列車が増加してきたことから、相対的に車両数が少なく、かつ、最高速度が 75 km/h にとどまる本形式の使用頻度は次第に減少し、需要の増加する冬季の臨時輸送を主体とした使用形態に推移していった。 1995年(平成7年)に1両(タキ38039)が事故で車籍除外となった以外は、2007年(平成19年)度末まで139両全車が在籍していた。2008年(平成20年)度中に4両が車籍除外され、2009年(平成21年)3月末現在の在籍数は135両である。 2009年(平成21年)4月からは一部の車両が「米タン」と通称される運用に転用された。これは米軍横田基地向け航空燃料 (JP-8) 輸送のために拝島駅 - 安善駅間で運行される専用列車で、従前から用いていたタキ35000形を本形式に置替えたものである。2010年(平成22年)末から2011年(平成23年)の始めにかけてタキ1000形が24両(12両編成2本)投入されたが、予備車が無い状態のため、本形式も26両(13両編成2本)も併用されており、2012年(平成24年)7月時点ではこの運用が本形式を用いる最後の運用となっている。2015年(平成27年)4月の時点では本形式の存在が確認されておらず、全て専用のタキ1000形に置き換えられて事実上形式消滅した模様である。 2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では、軽量さを買われて3月18日から始まった根岸発新潟・青森経由盛岡貨物ターミナル行き迂回燃料輸送に36両(18両編成2本)が投入された。これはタキ43000形およびタキ1000形の奥羽本線への入線実績がなかった事や、前述の通り本形式を用いた米軍燃料輸送用の車両がタキ1000形に置換えられて間もなかったため遊休状態という背景があったが、のちにJR東日本からタキ1000形の入線も可能との返事があり混用される様になった。なおこの迂回燃料輸送は東北本線が全線復旧となる4月20日まで行われたが最終便となる4月19日根岸発の分は復路が東北本線周りの高速貨扱いとなっていた為、本形式で運行されたのは4月18日根岸発分までであった。
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運用の変遷
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「京王5000系電車 (初代)」の記事における「運用の変遷」の解説
1963年の投入直後は、京王のフラッグシップ車両として新宿 - 東八王子(直後に京王八王子と改称)間の特急に使用された。1967年の高尾線開業で設定された高幡不動で分割・併合する特急にも充当されたが、この時5100系には社員のアイデアで誤乗防止の「緑の吊り輪」が採用された。これは、「前3両・後4両」などと案内しても乗客には分かりにくいが、「緑の吊り輪の車両・白の吊り輪の車両」と言えば誰でも間違いなく行先がわかるというものである。このアイデアは、6000系や8000系にも受け継がれている。 1972年(昭和47年)の6000系登場以後は徐々に急行系列車の運用から撤退し、特に冷房のない初期編成は冷房車の登場で早期に急行系列車から外され、1970年代後半からは各停を主体に運用されるようになった。それでも引き続きハイキング特急「陣馬」や大晦日から元旦に運行される特急「迎光」、競輪特急、競馬特急、急行などの季節列車・臨時列車には1980年代中頃まで5000系冷房車が使用されることがあった。 その他、6000系の工場入りが重なった際にも5000系の急行系列車が一時的に見られることがあり、1988年(昭和63年)夏頃には6000系8両編成の予備車確保の目的で5000系4連の片側先頭車を外した編成を2本連結し、さらに5100系3連を連結した9両編成が現われ、平日では午前中に通勤急行や特急で、休日には特急「陣馬」で使用されたこともある。1990年(平成2年)頃までは土曜・休日の朝に5000系6・7両編成使用の快速京王八王子行が片道1本のみ存在したが、これが最後の定期急行系運用とされる。これら急行系列車への使用は冷房車に限定されていた。その後、1995年(平成7年)5月1日はダイヤ乱れがあったため、特急橋本行に片道1回のみ使用されたことがある。 5000系は地下鉄乗り入れ用車両ではないので、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線には入線しなかった。また、車両限界の関係から笹塚 - 新線新宿間にも営業列車としては入線していなかった。 本格的な廃車は1987年(昭和62年)から始まった。最初は2両編成の吊り掛け駆動車(5101編成 - 5112編成)が対象で、1989年3月21日までに営業運転を終了し、京王から吊り掛け駆動車が消滅した。これらの車両のうち21両は非冷房のまま伊予鉄道に譲渡された。この時点で残った車両は4両+4両編成と4両+3両編成にまとめられ、各駅停車で運用された。1990年(平成2年)は相模原線の橋本開業による車両増備で廃車はなかったが、翌1991年(平成3年)から狭幅4両編成の廃車も始まり、冷房のない狭幅編成は1992年(平成4年)2月までにすべて廃車となった。同年5月に8000系60両が投入されたが、橋本特急新設による運用増のためにこの時点では廃車は発生しなかった。その後、同年10月から再び置き換えが開始され、同年12月までに29両が廃車となり、非冷房車は全廃された。そして、1994年(平成6年)春に12両、1995年(平成7年)春に38両が廃車になり、5100系は事実上全廃となった。この時点で5000系のみ24両が残った。同年11月 - 12月にさらに16両を廃車したことで、4両編成を2本連結した8両編成1本のみとなり、平日は朝ラッシュ時のみ、土曜・休日は競馬場線・動物園線といった支線内折り返し列車を中心に運用されていた。 1996年(平成8年)3月のダイヤ改正以降は本線から完全に撤退し、動物園線の区間運転で使用されたが、同年11月30日に「さよなら運転」の準備と移動を兼ねて高幡不動 - 京王八王子 - 新宿 - 若葉台で最後の営業運転を行った。翌12月1日に「さよなら運転」を行ったが、この時にかつての帯の「ひげ」をクハ5722に追加した。若葉台 - 新宿 - 京王多摩センター - 若葉台を2回運転し、午前と午後の運転の間には若葉台で撮影会も実施した。このさよなら運転は招待制であり、1,000人(午前・午後各500人)が公募されたが、実際の応募者が3,000人余りに達したことから、京王では落選通知のはがきを撮影会場に持参した人に対し、さよなら運転告知の中吊りポスターをプレゼントする程であった。さよなら運転後、8両が四国の高松琴平電気鉄道に譲渡され、1両が京王資料館に静態保存された。これにより、京王線系統から片開きドア車は姿を消す事になった。
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運用の変遷
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「国鉄レサ5000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
レサ10000系と同じく客車と同じような検査・運用体制が組まれ、常備駅は尻内駅(1971年(昭和46年)4月に八戸駅へ改称)で、尻内客貨車区が検修を担当した。 1968年(昭和43年)10月から運転開始された「東鱗1号」で運用が開始された。それまで鮫駅から東京市場駅まで34時間30分掛かり発送から3日目のセリとなっていたのが、「東鱗1号」運転開始により14時間40分に短縮され、2日目のセリに間に合うようになった。当初は鮫、湊(1985年廃止)、釜石、宮古港、気仙沼から別々に発送されていたレサを組成して運転していたが、出荷量の少ない発駅を廃止して最終的に鮫に集約して運転されるようになった。「東鱗1号」は独立列車ではなく、コンテナ列車との併結で運転されていた。また後には車両が不足したためレサ10000形の一部が八戸駅臨時常備の扱いで転属して連結されている。 昭和50年代後半になると、鮮魚輸送列車の落ち込みは一層大きくなり、1984年(昭和59年)2月のダイヤ改正でついに「東鱗1号」は廃止された。同年中にレサ5000形は廃車され形式消滅となっている。
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運用の変遷(1000番台)
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「JR北海道789系電車」の記事における「運用の変遷(1000番台)」の解説
基本番台と同様、全般検査は札幌市東区(苗穂駅隣接)の苗穂工場が全車を担当する。 2007年(平成19年)10月1日ダイヤ改正 2007年(平成19年)2月14日、老朽化した781系電車の置き換えに伴い、789系電車(1000番台)を35両導入すると発表された。年内に5両編成×7本(HL-1001 - HL-1007編成)の計35両が落成し、札幌運転所に新製配置された。同年9月2日に深川駅 - 旭川駅間における試乗会と旭川駅での展示会、9月15日 - 17日に札幌駅での展示会が開催された。 同年10月1日から以下の列車で営業運転を開始。エル特急「スーパーカムイ」と快速「エアポート」は当初から785系電車との共通運用が組まれたが、東室蘭駅 - 札幌駅間のエル特急「すずらん」には原則として785系のみが充当され、789系1000番台は代走や繁忙期の臨時列車等を除き充当されなかった。エル特急「スーパーカムイ」(札幌駅 - 旭川駅間):28往復(1 - 56号) 快速「エアポート」(新千歳空港駅 - 札幌駅間):11往復※エル特急「スーパーカムイ」から直通 「ホームライナー」(札幌発手稲行き)◆土曜・休日運休このほか、回送列車として宗谷本線の旭川駅 - 旭川運転所間を走行する。 1000番台編成表(2017年10月1日現在) ← 旭川/室蘭 札幌 → 編成HL-1000編成号車12345形式クハ789(Tc1)モハ789(M)サハ788(TA)モハ789(Mu)クハ789(Tc2)現行配置・処遇除籍日HL-10011001 1001 1001 2001 2001 札幌 HL-10021002 1002 1002 2002 2002 HL-10031003 1003 1003 2003 2003 HL-10041004 1004 1004 2004 2004 HL-10051005 1005 1005 2005 2005 事故廃車 2011年03月24日 HL-10061006 1006 1006 2006 2006 札幌 HL-10071007 1007 1007 2007 2007 ■:uシート車 2008年(平成20年)3月15日ダイヤ改正 快速「エアポート」の直通運転が1往復増発。エル特急「スーパーカムイ」(札幌駅 - 旭川駅間):28往復(1 - 56号) 快速「エアポート」(新千歳空港駅 - 札幌駅間):12往復※エル特急「スーパーカムイ」から直通 「ホームライナー」(札幌発手稲行き)◆土曜・休日運休 2010年(平成22年)12月4日ダイヤ改正 高速道路一部無料化の影響による乗客減に伴い、エル特急「スーパーカムイ」が4往復削減。また、785系との共通運用で臨時エル特急「すずらん」82号にも充当されるようになった。 なお、ダイヤ改正前の2010年(平成22年)1月29日に函館本線(深川駅 - 妹背牛駅間)の深川6号踏切(深川市)で、エル特急「スーパーカムイ24号」(HL-1005編成)が大型ダンプカーと衝突。この事故でHL-1005編成は先頭車が脱線し前頭部が大破したほか、3両目までの内外装が大きく損傷した(函館本線踏切事故)。事故後、当該編成は2011年(平成23年)3月24日付ですべて廃車となり、同年8月末に解体された。その後、2011年(平成23年)4月時点では1000番台車の代替新造は行われていないが、同年に特急「スーパー白鳥」用の基本番台車6両(HE-106編成+HE-206編成)を増備している。エル特急「スーパーカムイ」(札幌駅 - 旭川駅間):24往復(1 - 48号) 快速「エアポート」(新千歳空港駅 - 札幌駅間):12往復※エル特急「スーパーカムイ」から直通 「ホームライナー」(札幌発手稲行き)◆土曜・休日運休 臨時エル特急「すずらん」(札幌発東室蘭行き):上り1本(82号) 室蘭本線の普通列車の一部(東室蘭発室蘭行き):上り1本※臨時エル特急「すずらん」82号から直通 2013年(平成25年)11月1日ダイヤ変更 エル特急「スーパーカムイ」・「すずらん」の最高速度が130 km/hから120 km/hに変更。また、「スーパーカムイ」は1往復(下り13号、上り16号)が削減され、「すずらん」は785系と789系1000番台の共通運用とされた。エル特急「スーパーカムイ」(札幌駅 - 旭川駅間):23往復(1 - 48号) 快速「エアポート」(新千歳空港駅 - 札幌駅間):12往復※エル特急「スーパーカムイ」から直通 「ホームライナー」(札幌発手稲行き)◆土曜・休日運休 エル特急「すずらん」(東室蘭駅 - 札幌駅間):5往復(1 - 10号) 室蘭本線の普通列車の一部(室蘭駅 - 東室蘭駅間):※エル特急「すずらん」からの直通列車も含む 2014年(平成26年)8月30日ダイヤ改正 前年11月1日の「スーパーカムイ」1往復(下り13号、上り16号)運休に伴う欠番を解消。また、快速「エアポート」の最高速度が130 km/hから120 km/hに変更。エル特急「スーパーカムイ」(札幌駅 - 旭川駅間):23往復(1 - 46号) 快速「エアポート」(新千歳空港駅 - 札幌駅間):12往復※エル特急「スーパーカムイ」から直通 「ホームライナー」(札幌発手稲行き)◆土曜・休日運休 エル特急「すずらん」(東室蘭駅 - 札幌駅間):5往復(1 - 10号) 室蘭本線の普通列車の一部(室蘭駅 - 東室蘭駅間):※エル特急「すずらん」からの直通列車も含む 2016年(平成28年)3月26日ダイヤ改正 エル特急「スーパーカムイ」と快速「エアポート」の直通運転が廃止。また、廃止された急行「はまなす」の代替として、エル特急「すずらん」が1往復増発された。エル特急「スーパーカムイ」(札幌駅 - 旭川駅間):23往復(1 - 46号) 「ホームライナー」(札幌発手稲行き)◆土曜・休日運休 エル特急「すずらん」(東室蘭駅 - 札幌駅間):6往復(1 - 12号) 室蘭本線の普通列車の一部(室蘭駅 - 東室蘭駅間):※エル特急「すずらん」からの直通列車も含む
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運用の変遷
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「国鉄ホキ2500形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
主に関東地方の奥多摩駅(東京都) - 浜川崎駅(神奈川県)間(青梅線・南武線)と東海地方の美濃赤坂駅(岐阜県) - 笠寺駅(愛知県)間(東海道本線)で専用貨物列車として用いられたが、東海地方で運用されていたホキ2500形は通常の石灰石だけでなく焼結鉱用の粉末状石灰石にも用いられていたため、飛散防止のための天蓋が設けられていた。 1987年(昭和62年)4月1日に実施された国鉄分割民営化に伴い、122両が日本貨物鉄道(JR貨物)へ承継された。 1998年(平成10年)8月13日に青梅線・南武線での石灰石輸送が終了。移転先の東海地方でもホキ9500形への編入改造が進み、1999年(平成11年)度を最後に形式消滅した。
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運用の変遷
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「東京メトロ10000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
2006年(平成18年)5月29日 - 31日に第01編成が日立製作所笠戸事業所から綾瀬検車区まで甲種車両輸送された。その後第2 - 4編成も同年8月4日までに同区まで甲種輸送された。同年9月1日に第01編成が有楽町線および東武東上線内限定運用で営業運転を開始した[信頼性要検証]。このうち第01編成は茶色の記念ステッカー[信頼性要検証]を、第02編成は青色の記念ステッカーを先頭車の前面左側に貼り付けした。 同年9月30日には新木場車両基地で本形式と07系、7000系の各トップナンバー編成を並べた撮影会が行われた。また、12月23日に森林公園検修区で開催された東武東上線クリスマスイベントにも第04編成が展示された。 西武線への乗り入れは、2006年夏より深夜に試運転が行われてきたが、その際に誘導障害が発生し、本系列の営業運転開始から当面は有楽町線・東武東上線に限定して運用されていた。その後、2007年1月中旬より西武線内での試運転が日中時間帯において再開され、同年2月23日より同線への乗り入れを開始している。 2016年(平成28年)3月26日現在の運用範囲は次の通りである。運用は有楽町線・副都心線とも7000系・17000系と共通している。 第01 - 05編成は、8両編成との共通予備車とされており、不足時には8両編成で運用されることがある。この場合には編成から10400形と10500形が外され、前面に"8CARS"の表示が掲出される。 有楽町線 - 10両編成のみ運用される。 副都心線 - 8両編成・10両編成ともに運用される。なお、8両編成は各駅停車のみの運用である。 東武東上線 - 定期列車としては10両編成が森林公園(2019年3月16日以降の土休日は小川町)まで、8両編成が志木までそれぞれ直通し、2016年3月25日までは東上線内は全て各駅停車だったが、3月26日以降は東上線内は急行・快速急行となる列車もある。 西武有楽町線・池袋線 - 10両編成・8両編成ともに飯能(回送で武蔵丘車両基地)までそれぞれ直通し、池袋線内は準急・快速・快速急行となる列車もある。また、2007年(平成19年)3月6日の改正から副都心線開業まで西武の運用である「14M」の代替車両として7000系へ貸し出し運用を行う時があったが、2007年(平成19年)11月から本系列も貸し出し運用を行っていた。[要出典]航空自衛隊入間基地での入間航空祭開催に伴う臨時列車増発時には、通常は東京メトロ車が走行しない練馬 - 池袋線池袋間を運行している。また、ダイヤが乱れて相互直通運転が中止された時も池袋線池袋発着の列車として運行されることがある。[要出典] 西武狭山線 - 西武ドームでの野球開催時のみの運用で、定期列車としての運用はない。野球開催時の直通運用の間合いで狭山線内の折り返し運用に使用されることもある。 東急東横線・みなとみらい線 - 2013年3月16日からの相互直通運転にともない8両編成(各駅停車・急行)・10両編成(特急・通勤特急・急行)ともに運用されている。2012年9月より8両編成のみ直通に先立ち貸し出し運用された。 2008年(平成20年)6月13日まで、現在の副都心線小竹向原 - 池袋間にあたる有楽町線新線でも運用されていたが、同区間は副都心線の開業によって同線に編入された。また、2013年3月16日には副都心線渋谷駅から東京急行電鉄東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街まで相互乗り入れを実施している。それに先立ち、2012年4月29日の終電後に第03編成が8両編成化の上で元住吉検車区へ回送され、5月7日より東急線・みなとみらい線での試運転が開始されている。その後、第04編成が同じく8両編成化の上で回送され、試運転を行った後、同年9月7日より東急線・みなとみらい線内での営業運転を開始した(同月24日に7000系第16編成と入れ替えで返却)。 武蔵丘車両基地まで乗り入れる10000系 第34編成「快速 西武球場前」表示 綾瀬検車区内を「新木場」表示で入れ換え自走運転中の第01編成(2006年6月4日 公道から撮影) 営業開始記念ヘッドマークを貼り付けしていた当時の第04編成(2006年9月30日 新木場検車区撮影会にて) 8両編成で運用される第01編成
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運用の変遷
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ヤ250は塩浜操車場(現:川崎貨物駅)、ヤ251は吹田操車場(現:吹田貨物ターミナル駅)に常備されていたが、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正でヤード集結型輸送がなくなると余剰となり、1986年(昭和61年)に除籍され、形式消滅した。
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「国鉄コキ1000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式はチキ5000形(2代)ととも海上コンテナ輸送に使われたが、需要が伸び悩んだこともあり、一時は1970年(昭和45年)に設定された隅田川駅 - 西岡山駅間の山陽ライナーにコキ5500形8900番台と混用され、コキ50000形が登場するまで10tコンテナ輸送に使われた時期もあった。1986年(昭和61年)度までに全車除籍され、JRには車籍を継承されなかったが、車両自体はJR化後も残っていたこともあり、他形式に改造された車両もあった。
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運用の変遷
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「国鉄シキ1形貨車 (2代)」の記事における「運用の変遷」の解説
本形式は、丸善石油(現・コスモ石油)所有の私有貨車で、新興駅常備であった。 丸善石油が松山製油所で使用するエチレンを、日本石油化学川崎製油所から輸送するために開発された。松山製油所は最寄の三津浜駅から3 kmほど離れており、専用線もなかったことから鉄道のみで運びこむことはできなかった。一方トラックのみでの輸送は、危険物の旅客船への積載禁止の法律上の制約から困難であった。このことから、浜川崎駅から宇高連絡船経由で三津浜駅まで鉄道輸送し、そこからトラックで輸送するためにフレキシバン方式が選択された。 使用実績の詳細は不明で、1968年(昭和43年)10月21日に汽車製造所有で小名木川駅常備、1972年(昭和47年)8月17日に合併により川崎重工業所有で岡本駅常備に変更された。1973年(昭和48年)10月23日に廃車となった。
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運用の変遷
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「国鉄ホキ9500形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
落成した車両は新東京国際空港公団の所有となり、成田駅(千葉県)を常備駅として日本国有鉄道に車籍編入された。 製造当初は新東京国際空港(現・成田国際空港)建設用の砕石輸送に使用された。19両編成の専用貨物列車で運行され、成田駅 - 葛生駅(栃木県)間で1日3往復運用された他に、金島駅(群馬県)・箱根ヶ崎駅(東京都)・初狩駅(山梨県)からも1往復ずつ運用された。成田駅では、荷役が容易に行えるように新設された高架式の専用線を通って現場へ出入りしていた。 空港建設終了後は各社に移籍し(日本石油輸送・奥多摩工業・小野田セメントなど)専用種別は石灰石に変更された。 奥多摩工業所有のホキ2500形からの編入車は1998年(平成10年)の石灰石輸送終了後に矢橋工業などに移籍のうえで使用中である。 太平洋セメント所有車は、前身の小野田セメント表示のまま山口県の重安駅(美祢線)から宇部岬駅(宇部線)への石灰石輸送に2009年(平成21年)10月18日まで使用されていた。運用終了後、新南陽で解体されたと噂になっていたが、小野田セメントの私有地内で全車解体された。 2015年(平成27年)10月現在の定期運用は、矢橋工業所有車による西濃鉄道乙女坂駅より日本製鉄名古屋製鉄所内への石灰石輸送のみである。 矢橋工業所有車では、1996年(平成8年)に製造されたホキ19500 - ホキ19502を除きすべて経年40年以上、ホキ2500形からの編入車では更新工事が行われたとはいえ経年45年前後と老朽化している。代替としてホキ2000形の導入が進み、本形式は置き換えられつつある。
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運用の変遷
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「国鉄ワム70000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
製作当初、パレット荷役可能な品目の輸送需要が多い区間に集中して充当され、各車には運用区間と継走列車を指定する「専用運用」の標記がなされた。最高速度 75 km/h で運用可能な走行性能を活用し、1959年(昭和34年)9月から「急行車扱列車」に専用された車両も一部に存在した。急行車扱専用車は東海道本線・北陸本線の各区間で専用運用が組まれ、車体側面中位に100 mm 幅の黄かん色帯2本を表示し、側扉部に同色の「急行」の標記を付して識別した。 本形式の増備が進み所要数に余裕が生じたことで全車を対象とする専用運用は後年に解除され、急行車扱列車の運用は1961年(昭和36年)に後続形式ワム60000形の増備によって大多数が置き換えられた。急行車扱列車への充当自体は存続したが、以後は共通運用車として他の有蓋車とともに一般の貨物列車に使用されることとなった。 国鉄工場に常備され、配給車として部品配送に使用された車両も一部に存在した。当該車両は車体に白色の帯を表示し、常備工場名と「配給車代用」の標記が付された。 国鉄末期、効率化の要請から貨物輸送体系の転換が企図された。これは全国各地の貨物取扱駅を1両単位で発着する貨車を操車場を介して列車間を継走させる「ヤード集結形輸送」を廃し、取扱駅を限定・集約したうえで発着駅を直接連絡する「拠点間直行方式」に改組するものであったが、実施にあっては大量の不要車両が発生することとなった。 この施策が実施に移された1984年2月1日国鉄ダイヤ改正において、本形式はワム60000形・ワラ1形・トラ55000形などの形式とともに使用停止の措置が採られた。本形式は他の余剰車両とともに、機能を停止した操車場などの構内に留置の後、逐次廃車された。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化までに全車が廃車され、JR各社に承継された車両はない。
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運用の変遷
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「国鉄タム9600形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
鶴見線の鶴見川口駅(横浜市鶴見区)に常備され、近傍の東京瓦斯横浜工場から日立市までの LNG 輸送に用いられた。爾後、大都市圏への都市ガス供給手段はパイプライン敷設に漸次移行したことから、本形式は4両で製作を終了した。貨物駅統合に伴い、1983年(昭和58年)に常備駅を近隣の浅野駅に変更して引き続き同区間での輸送に用いられたが、輸送終了に伴いJR移行直前の1987年(昭和62年)1月12日に4両全車が車籍除外となった。 日本国内における LNG の鉄道輸送は、日本貨物鉄道(JR貨物)が2000年(平成12年)3月から 金沢貨物ターミナル - 新潟貨物ターミナル間で輸送を再開している。これは専用の ISO 規格コンテナを用いたコンテナ貨物列車によるもので、2003年(平成15年)10月からは苫小牧 - 北旭川・新富士などの区間でも開始されている。
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運用の変遷
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「JR北海道キハ160形気動車」の記事における「運用の変遷」の解説
製作直後より日高線運輸営業所に配置され、1997年6月1日より日高本線の全区間(苫小牧 - 様似)でキハ130形と共通の運用に就いた。キハ130形が顕著な損耗のため全車廃車となった2002年以降も本形式は残存し、後続として再投入されたキハ40形気動車(350番台)とともに引き続き使用された。キハ40形の再投入後は同形式の配色に合わせた外部塗色の変更がなされ、基調色の白色を存置し、正面窓および客室窓の周囲に青色+ピンクの帯を、車体裾部全周に萌黄色+青色の帯を配する意匠とされた。 2007年にハイブリッド動力化が施工され、同年8月から苗穂工場で各部機構の機能確認が実施された。同年11月以降、2008年2月まで走行試験が実施され、キハ150形(定格出力 450 ps)より定格出力が 27 % 低いエンジンで同形式と同等の加速性能となることを実証している。 2008年度中に苫小牧運転所に転属し、2008年の北海道洞爺湖サミット開催時には室蘭本線の東室蘭 - 室蘭間でデモンストレーション走行を行っている。 以降も各所で試験運転に供された後、2013年12月20日付で廃車され、形式消滅となった。 本車による試験結果はハイブリッド傾斜システムと軽量車体システムとを組み合わせた次世代車両開発などへの応用が見込まれていたが、同システムを採用したキハ285系は、JR北海道の度重なる事故や不祥事を受け、2014年に開発の中止が決定された。この時キハ285系は試作車(3両編成)が既に製造されており、それらを使用した本線試運転も実施されていたが、これら試作車も最終的に2015年に廃車され、2017年3月に解体された。
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運用の変遷
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「国鉄クモユ141形電車」の記事における「運用の変遷」の解説
1 - 5は製造直後に新前橋電車区(現・高崎車両センター)に配置されたが、翌1968年(昭和43年)10月1日のダイヤ改正に伴い長岡運転所(現・長岡車両センター)に転属し、引き続き高崎線・上越線系統で使用された。 6 - 10は宮原電車区(現・網干総合車両所宮原支所)に新製配置され、東海道本線大阪口で使用された。1978年(昭和53年)10月2日ダイヤ改正に伴い長野運転所(現・長野総合車両センター)に転属した。 以降、長野・新潟地区と東京を結ぶ列車系統において、旅客列車への併結・荷物列車への組み込みで使用されたが、1986年(昭和61年)の鉄道郵便輸送廃止により全車廃車された。
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運用の変遷
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1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)にかけて白地に青帯の「九州色」に変更され、引き続き長崎本線・佐世保線で運用された。813系の増備、1996年(平成8年)の宮崎空港線開業により、同線のシャトル列車へ転用が決定し、同年3月16日のダイヤ改正で全車が鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター)に転属した。編成番号はLK901 - 904となった。 同年7月18日の宮崎空港線開業までに全車とも一般公募により決定した「サンシャイン宮崎」の愛称名が付けられ外部塗装を赤基調に変更。出入口間の座席を485系廃車発生品の回転リクライニングシートに取替える改造が施工された。座席背面に設置されていたテーブルも使用可能で存置されているほか、ロングシート部分をバケットタイプとし、一人分ずつ独立したヘッドレストを設置し、ロングシートでの長時間移動においても居住性の向上が図られた。車内には大型のくず物入れが設置され、車椅子スペースや大型の荷物置き場も新設されていたが、現在は撤去されている。 2003年には車内収受式ワンマン運転対応化改造も施工され、ドアチャイムも設置された。 2008年から2010年にかけて主制御機器の換装を伴う更新工事が鹿児島総合車両所で施工され、改造後は0番台に改番された。 2008年にLK904編成の主制御機器の換装を伴う改造が鹿児島総合車両所で施工され、改造後は0番台に改番され、編成番号もLK4に変更された。2009年にはLk903編成に、2010年には残る2編成にも施工され900番台は消滅した。その後2014年までに全編成がシングルアーム式に交換、ATSがATS-DKに更新された。 2015年現在、日豊本線(延岡 - 西都城間)・日南線(南宮崎 - 田吉間)を含めた宮崎空港線全線で運用される。 2004年3月のダイヤ改正までは、宮崎 - 西鹿児島(現・鹿児島中央)間で出入庫も兼ねた営業運転も行われていたが、同改正で鹿児島に817系が配置されたことに伴い、検査時の回送および817系の代走、また錦江湾サマーナイト花火大会時の臨時列車のみでしか鹿児島県内に入線しなくなり、宮崎地区での運用のみとなった。そのため南宮崎駅構内にある宮崎車両センターでの滞留となる。運行は基本的にワンマンであるが、朝夕の2編成を連結した4両での運用時のみ車掌が乗車する。 リクライニングシート交換後の車内
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運用の変遷
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1次車は、同スタイルの3200形6M車と混結で6両編成を組むこともあった。 2次車は、1970年代半ば以降は他形式との混結はせず、基本的に2次車のみで4・6・8両で使用した。デビューから日が浅かった1970年までは初代3000形 - 3100形1次車のコイルばね台車搭載車と混結することもあった。又、2次車がデビューした直後の1970年に空気ばね台車の1次車とコイルばね台車の2次車を混結した実績もある。方向幕搭載車と非搭載車を混結した場合、搭載車の方向幕は使用不可で予備用行き先板を使用せざる得なかったこともあり、以降混結は行わなくなった。
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運用の変遷
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「一畑電気鉄道3000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
1997年(平成9年)2月20日に2連4本が北松江線で運転開始し、1998年(平成10年)10月1日からは大社線でも使用されるようになった。それ以降は特急「スーパーライナー」と急行「出雲大社号」を除いた全列車の運用に就いていた。但し、連結器や走行装置の違いから2100系・5000系との併結運転ができず、臨時ダイヤ等における4両編成での運転は本系列を2編成併結して運行していた(非貫通のため、4両編成では前後の車両を行き来することはできなかった)。 2014年に後継車両である7000系(これとは別に1000系が導入されているが、同形式は本形式の置き換え目的ではない)の導入が発表され、当初は2014年度に4両、2015年度に3両、2016年度に1両が廃車されて形式消滅する予定だったが、新造車両の製造が遅れたため、3006編成は2016年度も引き続き運行を継続していた。 そして3006編成は2017年1月20日に定期運用を終了、同年1月21日・22日にさよなら運転を行い運行を終了した。
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運用の変遷
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「JR貨物チキ100形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
本系列は運用コストや専用トラックの汎用性などの問題、着発線荷役方式(E&S方式)の普及、荷役方式が類似し、コンテナ車に積載できるスワップボディコンテナの登場などにより、スライドバンボディシステムの存在意義は薄れ実用化には至らず、6両で製作が打ち切られた。チキ900形は試作車であるため、試験終了後は定期運用には使用されなかったが、チキ100形は苫小牧駅 - 相模貨物駅間で自動車部品輸送に運用された。1996年(平成8年)に通常のコンテナ輸送に切り替えられ運用離脱し休車となり、チキ900形・チキ100形共に2000年(平成12年)9月に廃車となった。
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運用の変遷
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「国鉄レサ10000系貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
両形式とも貨車としては特別な、客車と同じような運用・検査体制が組まれていた。香椎貨車区が検査を担当し、全車両とも香椎駅常備となっていた。 両形式は、100 km/hで走行する特急鮮魚貨物列車に専用に運用された。1966年(昭和41年)10月より、幡生 - 東京市場間に「とびうお」、博多港 - 大阪市場間に「ぎんりん」の愛称で運転を開始した。長崎、西唐津、博多港、上戸畑、下関といった各地から貨車が集まり鮮魚貨物列車として組成されて運行された。従来の鮮魚貨車では長崎 - 東京市場間で42時間30分を要し出荷後4日目のセリになっていたのが、これらの列車の運行開始により27時間に短縮され、出荷後3日目のセリに間に合うようになった。これにより、他の国鉄冷蔵車が急速に衰退していく中で、これらの特急鮮魚貨物列車については一応の実績を上げている。 当初は瀬野八の急勾配のため、「とびうお」は13両で下関を出発し、前日に送っておいた7両を姫路で連結して20両編成となって東京へ向かっていた。しかしヨンサントオ(昭和43年10月ダイヤ改正)でEF66形が投入されて下関から20両で運転されるようになった。「ぎんりん」についても12両編成だったものを18両編成に増強している。1971年(昭和46年)7月には、北九州からの荷の少ない夏期を利用して山陰の夏イカ輸送が計画されて、境港発伯備線経由でのレサ10000形4両の貨物列車の運転も行われた。この列車は岡山操で「とびうお」に連結されて運転されていた。しかしあまり輸送実績が振るわずにまもなく廃止されている。 この他に、レサ10000形を使用して釧路 - 東京市場間(12両編成31時間運転)、鹿児島 - 芝浦間に枝肉輸送列車(33時間運転)を計画していたが、長距離の空車回送の効率が問題となって、コンテナ輸送になった。また、東北から東京への鮮魚輸送を行っていた「東鱗1号」での冷蔵車不足に対応するために一部のレサ10000形が八戸駅臨時常備の扱いで転属となっている。 高い運用効率で走行距離が長いレサ10000形は傷みが速く、1980年(昭和55年)からは整備改造工事が若松車両センターで進められた。しかし鮮魚貨物列車の運行中止をにらんで全ての車両には施行されずに終わった。 1980年代(昭和50年代後半)に入ると、トラックへの移行がさらに進み、特急鮮魚貨物列車であっても編成両数が減少してきた。国鉄合理化の動きもあり、各地の卸売市場に隣接した貨物取り扱い駅(市場駅)の閉鎖と共に、鮮魚貨物列車のコンテナ化が進められた。最終的に1986年(昭和61年)3月に、最後に残った「とびうお」号がコンテナ化されて消滅した。 レサ10000形は即座に運用を離脱、レムフ10000形については鮮魚コンテナ列車の緩急車として1986年(昭和61年)11月1日国鉄ダイヤ改正まで使用が続けられたが、両形式とも同年度中に廃車され、形式消滅となった。レサ10117とレムフ10000(トップナンバー)が東小倉駅に保存され、その後日本貨物鉄道(JR貨物)からレムフ10000が鉄道博物館に寄贈され、収蔵されている。
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運用の変遷
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「国鉄DD20形ディーゼル機関車」の記事における「運用の変遷」の解説
1号機は田端機関区(現・田端運転所)に配置されて入れ換えに使用されたが、1971年に長岡機関区(現・長岡車両センター)に転属。DD53形と連結し、補助機関車として使用することを目的として新津工場(当時)で重連形に改造され、2号機とともに除雪用に用いられた。独自の仕様をもつ少数形式であったため保守管理上の問題から1977年以降休車扱いとされ、1986年に廃車。1990年代まで新津車両所(当時)で保管されたのち、新津車両製作所整備にあたって解体された。 2号機は製造当初より長岡機関区に配置され、排雪列車に使用されたが、1号機と同時に休車を経て廃車となり、やはり新津車両所(当時)で保管されたのち、1号機やDD21形よりも早く、1988年11月末に解体された。本機が休車となったのち、DD53形の補機にはDE10形が使用された。
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運用の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 10:25 UTC 版)
登場後は急行系運用に幅広く投入された。多くの優等列車運用では本系列3両×2本で6両編成を組んで運用されていたが、当時は急行・準急運用の一部に5両編成が残っていたため、本系列に3501形2両や7801形・7861形2両を併結して5両編成を組成して運行されることもあった。7801形や7861形と併結する場合、3000系の回生ブレーキは作動するが、抑速ノッチは作用しなかった。また、1986年から1993年にかけては7801形と7861形で3両ユニットを組んだ編成とも6両編成を組んで運用されていた。 本線の急行系運用が全て6両編成化されると、以後は3両編成2本を連結した事実上の6両固定編成となり、中間に入った先頭車同士の幌は中間車用の1枚幌に換装された。このほか、3102F+3101Fの編成以外は大阪方に奇数番号の編成+神戸方偶数番号の編成で6両編成を組成したことから、3102・3201の2両を除いて旧3521形改造の先頭車はすべて中間に入り、雨樋を埋め込んだ後期車からの改造車も営業運転時に先頭車として運用されることはなくなった。この他、時期は不明であるが3201 - 3206に搭載の空気圧縮機を3207以降と同じC-2000-Mに換装している。
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運用の変遷
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「阪神7890・7990形電車」の記事における「運用の変遷」の解説
7861・7961形とともに武庫川線で運用されていた。制御器の特性から高速運転が不可能なため、営業運転では最高速度45km/hの武庫川線限定で使用されていた。1995年の阪神・淡路大震災発生時は尼崎車庫に留置されていたため被災は免れた。 車両の老朽化とバリアフリー対応推進に基づき、2020年度限りで5500系改造車に置き換えることが発表された。5500系への置き換え日は5月末とされていたが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため6月以降に延期されたのち、2020年6月2日をもって赤胴車の営業運転を終了した。運行終了後、尼崎車庫で社員限定の撮影会が行われた。 7890号は独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)に譲渡の上、2021年春から西宮市の武庫川団地に静態保存し地域住民のコミュニティースペースとして活用することを、阪神電鉄とUR都市機構が合同で発表した。 運用を離脱した7890号・7990号のうち、7990号は2020年6月12日付けで廃車となった。廃車後の7990号は深夜にトレーラーによる陸送でリサイクル工場へ搬出され、工場内で解体されている。 7890号は尼崎車庫に保管されていたが、2021年3月4日未明に尼崎車庫からUR武庫川団地へ向けてトレーラーで陸送され、同日昼に団地内の広場に設置された。同年7月10日からは武庫川団地内に設置される地域のコミュニティスペースとしてオープンしている。
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運用の変遷
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国鉄時代 1978年(昭和53年)11月3日に試作車(900番台)6両編成1本が完成し、札幌運転区に配置された。翌1979年(昭和54年)3月19日から「いしかり」として運用を開始した。前シーズンの冬まで「いしかり」は雪害による間引き運用を余儀なくされたものの、試作車落成後は485系の運用に余裕ができた為冬季の計画運休は解消された。 1980年(昭和55年)6月に量産車6両編成3本(18両)が製造され、同月中に485系を完全に置き換えた。同年10月1日に室蘭本線・千歳線(室蘭駅 - 白石駅間)の電化が完成し、本系列は6両編成4本(24両)が追加製造された。同日のダイヤ改正で「いしかり」から室蘭駅 - 札幌駅 - 旭川駅間を直通運転する「ライラック」となった。 781系編成一覧(1980年) ← 旭川 札幌 → 号車654321編成番号クハ780(TAc')モハ781(M)サハ780(TA)モハ781(M)サハ780(TA)クモハ781(Mc)所属使用列車L-901901 901 901 902 902 901 札幌運転所 いしかり↓ライラック L-11 2 2 1 1 1 L-22 4 4 3 3 2 L-33 6 6 5 5 3 L-44 8 8 7 7 4 L-55 10 10 9 9 5 L-66 12 12 11 11 6 L-77 14 14 13 13 7 1986年3月のダイヤ改正では途中無停車の特急「ホワイトアロー」を 千歳空港駅(現在の南千歳駅) - 札幌駅 - 旭川駅の相互区間に設定した。本系列は中間車2両の先頭車化改造を実施し、6両編成6本+4両編成3本の体制で列車本数の増加に対応した。 同年11月のダイヤ改正で「ライラック」は札幌駅 - 旭川駅間を1時間等間隔(14往復)とする運行体制が採られた。本系列は今回のダイヤ改正までに6両の先頭車化改造を追加実施し、6両編成はすべて4両編成化(12本)された。この体制で全車がJR北海道に承継された。 JR発足後 1988年3月のダイヤ改正では多客時の「ライラック」について、臨時列車の設定をせず、4両編成を2本併結した8両編成での運転を開始した。 1990年には785系電車が製作され、同年9月より「スーパーホワイトアロー」として札幌駅 - 旭川駅間に運転を開始する。これにより、本系列による「ホワイトアロー」の運転は終了した。 1992年の新千歳空港駅開業にともなうダイヤ改正で「ライラック」は新千歳空港駅 - 札幌駅 - 旭川駅間の「ライラック」と札幌駅 - 室蘭駅間の「すずらん」に系統分割された。「ライラック」の札幌駅 - 新千歳空港駅間では、一部の列車を快速「エアポート」として運行した。 2002年3月のダイヤ改正で快速「エアポート」の恵庭駅停車と130 km/h運転に伴い、「ライラック」の札幌駅 - 新千歳空港駅間は785系電車の「スーパーホワイトアロー」の運転区間延長で置き換えられた。「ライラック」は旭川駅 - 札幌駅間に短縮され、本系列での「エアポート」運用は終了した。 2003年には「ドラえもん海底列車」に使用するため、8両が札幌運転所から函館運輸所に転属した。2両は予備の車両となった。 2005年8月2日 - 7日、2006年8月2日 - 6日には、青森ねぶた祭に合わせて臨時特急「ねぶたエクスプレス」を函館駅 - 青森駅間で運転した。函館運輸所の6両編成を充当し、東日本旅客鉄道(JR東日本)エリアに乗入れた。本州での781系による営業運転の唯一の事例である。 2007年10月のダイヤ改正から後継の789系電車(1000番台)を導入し、「ライラック」「すずらん」の本系列での定期運用が終了した。同年10月28日のイベント列車運用を以って営業運転での使用を全て終了し、函館運輸所の「ドラえもん」編成を含め11月27日までに全車が廃車された。 781系編成表(2003年) ← 旭川/室蘭/函館 札幌/青森 → 号車123456編成番号クハ780(TAc')モハ781(M)サハ780(TA)クモハ781(Muc/Mc)所属使用列車L-11 2 2 1 札幌 ライラック L-22 4 4 2 L-33 6 6 3 L-44 8 8 4 L-55 10 10 5 L-66 12 12 6 L-101101 902 902 101 すずらん L-102102 9 9 102 L-103103 7 7 103 L-901901 901 901 901 編成番号クハ780(TAc')モハ781(M)サハ780(TA)モハ781(M)サハ780(TA)クモハ781(Mc)所属使用列車L-7/1047 5 5 14 14 7 函館 ドラえもん海底列車 L-104104 104 予備車 ■:uシート改造車 太字:2扉化改造車
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運用の変遷
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国鉄の反対を押し切ってGHQが製作させたレキ1形であるが、国鉄の予想通り日本の輸送実態には適合せず、利用率は低迷した。このため冷蔵車以外の用途に使う、目的外使用が盛んに行われた。荷物車・郵便車が不足していた折にこれらの代用とされ、また運送業者の小口混載貨物にも使用された。特に後者は運賃計算上の最低トン数を改正してまで利用を促進している。さらに末期には新興から北関東方面への小麦輸送にも用いられた。 こうした事情から、早期に他の形式への改造が行われた。改造されずに残ったレキ1形は、1966年(昭和41年)に廃車となっている。
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運用の変遷
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「国鉄ED79形電気機関車」の記事における「運用の変遷」の解説
各区分とも検査は苗穂工場が担当し、同工場入場時および同工場検査後の試運転では工場近辺の札幌近隣区間で本形式が稼動していた。配置区から苗穂工場までの経路に非電化区間を含むため、DD51形・DF200形などのディーゼル機関車が牽引して回送を行っていた。
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「国鉄ホキ2800形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
ホキ2800 - ホキ2807は奥多摩駅に常備され、青梅線奥多摩駅 - 南武線浜川崎駅あるいは内房線蘇我駅間で、ホキ2808 - ホキ2819は美濃赤坂駅に常備され、西濃鉄道昼飯線昼飯駅 - 新湊線新湊駅間で運用された。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、4両(ホキ2814、ホキ2816、ホキ2817、ホキ2819)が日本貨物鉄道(JR貨物)に車籍を継承されたが、1995年(平成7年)に全廃された。
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運用の変遷
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本節では主たる運用線区別の分類を行い、国鉄・JR化後を通じて解説を行う。
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運用の変遷
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「JR四国6000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
全車が高松運転所に配置されている。6000系単独の他、快速「サンポート」のうちの高松 - 伊予西条間運行の1往復は6100形側に7000系7100形を連結した4両編成で運行する。なお本系列は予備車がないため、故障・検査時は7000系3両あるいは7000系1両+7200系2両の3両で運用される。 以下の区間で普通列車や快速「サンポート」として使用されている。 予讃線(高松 - 伊予西条) 土讃線(多度津 - 琴平) 瀬戸大橋線の観音寺 - 岡山間で運用していた111系をそのまま置き換える形で運用を開始した。 2000年、JR東日本より譲受した113系が瀬戸大橋線の普通列車に充当されることとなり一旦本四備讃線での運用は消滅した。その後、長らく本州方面への運用は無かったが、2016年3月26日のダイヤ改正より再度岡山までの運用が復活した。 その後、2019年3月16日のダイヤ改正で観音寺・琴平 - 岡山間を直通する普通列車が全て廃止(本州側は児島折り返し、四国側は高松行きへ変更)となり、再び本四備讃線での運用は消滅した。 1999年(平成11年)春頃、当時のヒット曲『だんご3兄弟』にあやかって「3兄弟電車」として運転された。電車を3兄弟に見立てた絵を描いたヘッドマークを装着し、6000形には「力もちの長男」、6200形には「人にやさしい次男」、6100形には「ときには先頭三男」と、それぞれのキャッチフレーズを車体に掲示していた。
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運用の変遷
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「北近畿タンゴ鉄道KTR001形気動車」の記事における「運用の変遷」の解説
1990年4月1日、宮津線の第三セクター転換に合わせて、京都駅発着の舞鶴線・北近畿タンゴ鉄道直通特急として「タンゴエクスプローラー」が新設され、同列車2往復で運用を開始した。運用線区の配線の関係で当時は日ごとに編成の向きが変わっていた。また、1992年に第2編成が増備されるまでは予備車がなかったため、第1編成が後藤車両所(現・後藤総合車両所)に検査入場した際には、西日本旅客鉄道(JR西日本)が所有するキハ181系を3両編成に組成したうえで代走させていた。 1999年(平成11年)10月2日のダイヤ改正で「タンゴディスカバリー」と「タンゴエクスプローラー」の運転区間と使用車両が入れ替わり、以後は新大阪駅発着の特急「タンゴエクスプローラー」として、新大阪駅 - 久美浜駅・宮津駅間の2往復で運用されるようになった。 2005年(平成17年)4月25日、JR福知山線脱線事故が発生。復旧するにあたって、福知山線の一部区間にATS-Pを導入しての運転再開となった(事故以前より、2005年6月から福知山線の一部区間でのATS-P導入が計画されていた)ため、当時2編成ともに運転保安装置としてATS-SWしか装備していなかった当車両は、一時的に福知山線内での運行が不可能になった。同年6月19日のダイヤ改正からは宮津線内の特急「タンゴディスカバリー」(天橋立駅 - 久美浜駅・豊岡駅・城崎温泉駅)として運行されるようになり、特急「タンゴエクスプローラー」は、ATS-P・SWの両方を装備するKTR8000形4両編成に変更された。 2007年(平成19年)3月18日のダイヤ改正で、特急「タンゴエクスプローラー」での運用に復帰。 2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正で、北近畿地区の特急列車運行形態の再編が行われ、特急「タンゴエクスプローラー」は特急「こうのとり」「たんごリレー」に分割され廃止となった。 タンゴエクスプローラー廃止後は、北近畿タンゴ鉄道線内完結の特急「たんごリレー」や快速「大江山浪漫」、一部の普通列車に本形式を充当していた。 しかし、登場から20年以上が経過し老朽化が目立つこと、ハイデッカー構造が仇となりバリアフリー非対応なこと、線内特急で3両編成は過剰であることなどの理由により、北近畿タンゴ鉄道は本形式の定期運用を取りやめることを発表し、2013年(平成25年)3月16日のダイヤ改正で全ての定期運用を終了した。
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運用の変遷
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本形式は北海道地区、本州でも奥羽本線と新潟地区で使用されたが、除雪用モーターカーやDD15形・DE15形などが増備されるとこれらが構内の除雪にも使用されるようになり、本形式は老朽化も相まって次第に使用されなくなる一方、近代化した750番台はキ100形の置換用途で逆に本線でも使用されている。1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化に際しては4両(キ750、キ752、キ754、キ757)が北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承されたが、1993年(平成5年)8月27日に最後まで在籍した2両(キ752、キ757)が廃車になり、形式消滅した。
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「東急6000系電車 (初代)」の記事における「運用の変遷」の解説
当初は20両全てが東横線で運用されていた。その後1964年には2編成が田園都市線に転属し、東横線に残った12両は6連2本に組み替えられた。同年7月までには東横線の12両も田園都市線に転属し、全編成が同線で運用されるようになる。1967年4月までにC編成12両が目蒲線に転属するが、1970年8月に1本が、1972年11月に2本がそれぞれ田園都市線に戻されている。1979年には全車が東横線に復帰し、1981年に大井町線に18両(6連3本)が、こどもの国線の予備車として2両が転属するまでは8連で急行運用に充当されることもあった。この8連は当初A編成とB編成を併結したものであったが、半年ほどでC編成による4+4の8連に置き換えられている。なお、東横線での急行運用時には先頭車の前面に(方向幕とは別に)7000系・7200系・8000系と同様に「急行」の種別札を装着していた。
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運用の変遷
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1962年(昭和37年)12月 に試作車2両(ワラ1, ワラ2)が製作され、翌1963年(昭和38年)から量産車(ワラ100 - )の製作が開始された。以後、国鉄全線で汎用的に使用された。 ただし、積み下ろし方法は旧来の貨車そのままのため、積荷が多い分1両あたりの作業員の負担が旧来より大きい問題があり、昭和51年から52年にかけて荷役作業をしていた松本正司の証言によると「ワム80000<ワム60000・ワム70000<ワム90000<ワラ1」の順で積み下ろし作業が大変になっていったという。 1963年には、ワラ1形貨車の競合脱線が鶴見事故の引き金となり、他の二軸車も含め走行時の特性が不安視されるようになったがその後も運用は続けられた。1967年からは、狩勝実験線で鶴見事故を踏まえた脱線実験が行われるようになり、ワラ1形貨車も実験走行に加えられている。 国鉄末期、貨物列車の輸送体系を改組し、「ヤード集結形輸送」から「拠点間直行方式」への転換が企図された。この方針は1984年(昭和59年)2月1日国鉄ダイヤ改正で実施に移され、大量の不要車両が発生することから、本形式はワム60000形・ワム70000形・トラ55000形などの形式とともに使用停止の措置が採られた。本形式は他の余剰車両とともに、機能を停止した操車場などの構内に留置の後、逐次除籍処分がなされた。大半は解体処分されたが、一部の車両は倉庫などへの活用を想定して売却が実施された。 直後、一時的な汎用貨物の輸送需要に対応するため一部で使用が再開され、常備駅を定めたうえで特定の運用に充てられた。当該運用は短期間で終了し、1987年(昭和62年)のJR移行までに全車が廃車された。 JR各社に在籍車として承継された車両はないが、試作車の1両(ワラ1)が四国旅客鉄道(JR四国)多度津工場に保存されている。
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運用の変遷
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EF58 113+マヤ34 2006軌道検測列車 DE15 2510+マヤ34 2008軌道検測列車 急行天北に連結されたマヤ34(1988年7月) 製造以来、日本各地の国鉄・JR線で定期的に本形式を用いた軌道検測を行っており、本形式単独の他、定期夜行急行列車(「はまなす」「だいせん」など)に併結して検測を行う事もあった。第三セクター鉄道にも入線・軌道検測を行うことがある。 私鉄では、伊豆急行のようなJRからの乗り入れが日常的に行われている路線や、小田急電鉄・相模鉄道・西武鉄道・南海電気鉄道などJR線と物理的に線路が接続されている路線で本形式を用いた軌道検測の実績がある。かつては東京急行電鉄でも本形式による軌道検測を行っていたが、1998年(平成10年)に同社が自前の検測用車両を製造したため現在は行っていない。 国鉄時代は札幌運転所(1両)・尾久客車区(5両)・向日町運転所(4両)に集中配置されていたが、1987年(昭和62年)の分割民営化時には直前に廃車となった札幌の2501を除いて尾久・向日町から転配という形を経てJR各社に承継された。しかし、製造から30 - 40年経過しており、車両ならびに搭載機器類の老朽化や自動空気ブレーキに対応できる牽引車(機関車・電車)の減少のほか、以下の後継車両が落成し、本形式は廃車が進行した。 1998年(平成10年)に東海旅客鉄道(JR東海)が軌道検測機能を備えたキヤ95系気動車を製造→同年2月20日付で2010廃車。 2002年(平成14年)に東日本旅客鉄道(JR東日本)がE491系電車・キヤE193系気動車を製造→2004年(平成16年)6月2日付で2002、同年8月26日付で2003、2015年(平成27年)8月11日付で2004が廃車。 2006年(平成18年)に西日本旅客鉄道(JR西日本)がキヤ141系気動車を製造→2005は2007年12月10日、2006は2008年3月31日、2007は2007年12月13日付で廃車。 2017年(平成29年)5月に北海道旅客鉄道(JR北海道)がマヤ35形客車を製造し、2018年4月10日運用開始→2018年10月31日付けで2008が廃車。 2021年(令和3年)現在、JRグループ全体で車籍を有するのはJR九州が保有する2009の1両のみである。 マヤ34形車歴一覧(太字は車籍保有車両) 車両番号製造年度国鉄時代配置分割民営化時承継先現状(廃車年)現(最終)配置基地1→2501 1959年 尾久→札幌 廃車 1987年 札幌運転所 2002 1965年 尾久 JR東日本 2004年 尾久車両センター 2003 1965年 尾久 JR東日本 2004年 尾久車両センター 2004 1966年 尾久 JR東日本 2015年 尾久車両センター 2005 1967年 向日町 JR西日本 2007年 京都総合運転所 2006 1967年 向日町 JR四国 2008年 高松運転所 2007 1967年 向日町 JR西日本 2007年 京都総合運転所 2008 1978年 尾久 JR北海道 2018年 札幌運転所 2009 1978年 向日町 JR九州 現役 熊本車両センター 2010 1981年 尾久 JR東海 1998年 名古屋車両区
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運用の変遷
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「国鉄DF50形ディーゼル機関車」の記事における「運用の変遷」の解説
初期故障はあったもののやがて性能的にも安定し、非電化の主要幹線に投入されて主に旅客列車用として運用されたが、貨物列車などの蒸気機関車牽引列車の置き換えには性能的に不足していたため、1962年(昭和37年)には1,000馬力級エンジン2基を搭載した純国産の幹線用ディーゼル機関車DD51形が登場した。 DD51形への置き換えや電化の進展により、DF50形はやがて亀山機関区・米子機関区・高松運転所・高知機関区・宮崎機関区に集中配置される様になり、山陰本線・紀勢本線・予讃本線・土讃線・日豊本線で使用されたが、1976年より廃車が開始された。 米子機関区配置機は、MAN形エンジンを積んだ500番台で統一され、山陰本線・福知山線全線で使用されていたが、DD51形への置き換えにより1978年10月までに運用終了した。 亀山機関区配置機はズルツァー型の0番台が集中配置され、紀勢本線・関西本線東部および阪和線で使用されていたが、1978年10月の新宮電化により紀伊勝浦以東の運用になった。運用縮小されたものの寝台特急「紀伊」は引き続き担当し、DF50形として最後の優等列車牽引となったが、1979年6月には上り列車のみDD51形に置き換えられ、下り4003列車の亀山 - 紀伊勝浦間およびその回送である回4003列車の紀伊勝浦 - 新宮間についても、亀山機関区配置機の運行終了直前の1980年(昭和55年)2月にDD51形に置き換え、3月にはすべての運用が消滅した。 宮崎機関区配置機は、優等列車牽引が多い為MAN型の500番台で統一され、日豊本線で使用された。北部からの電化進展に伴って1974年以降は運用域は年々狭まったものの、「富士」や「彗星」などの寝台特急運用を引き続き担当し、1979年(昭和54年)の全線電化直前まで非電化区間の牽引を務めた。 最後まで主力車として残った四国では、ズルツァー型の0番台とMAN型の500番台が混在していたが、1981年(昭和56年)10月に定期旅客運用をDE10形に譲り、500番台が全廃された。その後は0番台が貨物列車用として運用されていたが、1983年(昭和58年)9月にDE10形に置き換えられる事になり、同月25日に運転された、臨時急行列車「サヨナラDF50土佐路号」をDF50 1+DF50 65の重連で牽引したのを最後に運用を終了した。最終貨物列車を牽引した34号機が1985年(昭和60年)1月21日付で廃車されたのを最後に、DF50形は全車廃車された。 なお、1号機はのちに車籍復活を果たしている。 1971年にお召し列車を牽引した際、ステンレス帯になったDF50 26 (1981年、高松駅) DF50 65+DF50 1牽引43系・35系客車 臨時急行列車「ごくろうさまDF50秘境号」(1983年8月20日、阿波川口駅) DF50 1+DF50 65牽引50系客車 臨時急行列車「サヨナラDF50土佐路号」(1983年9月25日、阿波川口駅付近) DF50 18+DF50 43牽引 石灰石運搬貨物列車 (1983年、土佐石灰工業大平山鉱山専用線) DF50 43+DF50 18牽引 石灰石運搬貨物列車 (1983年、土佐石灰工業大平山鉱山専用線) 寝台特急「紀伊」 新宮駅へ回送中 新宮 - 三輪崎間 1979年
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運用の変遷
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「JR九州キハ183系気動車」の記事における「運用の変遷」の解説
新製当初の配置は竹下気動車区(現・博多運転区)。1988年3月13日から特急「オランダ村特急」(小倉 - 佐世保間)で営業運転を開始した。1989年3月11日からは「オランダ村特急」の運行区間が門司港 - 佐世保間に延長された。同年4月29日の運転から4両編成に増強される。また同時に、下り列車の門司港 → 博多間で電車特急「有明」との協調運転を開始した。1990年(平成2年)3月10日からは協調運転区間が門司港→鳥栖間に延長された。1991年(平成3年)3月16日付で直方気動車区(現・筑豊篠栗鉄道事業部直方運輸センター)の所属となった。1992年3月20日のハウステンボス開園とともに特急「ハウステンボス」(博多 - ハウステンボス間)が485系電車で運行を開始したため、これに役目を譲る形で「オランダ村特急」は廃止された。 「オランダ村特急」廃止後、「ゆふいんの森II世」に改造され、1992年7月15日から特急「ゆふいんの森」1往復(博多 - 由布院 - 小倉間、久大本線経由)として営業運転を開始した。1995年(平成7年)4月20日からは運行区間が博多 - 別府間に変更された。なお、「ゆふいんの森II世」時代には1994年(平成6年)12月から1995年2月の「阿蘇キャンペーン」の一環として、臨時特急「阿蘇キャンペーン号」(博多 - 宮地間)にも使用された。1999年(平成11年)3月13日にキハ72系気動車「ゆふいんの森III世」が導入されるのに先立ち、「シーボルト」への改造のため1999年1月31日をもって「ゆふいんの森」での運行は終了した。 1999年3月13日付で長崎鉄道事業部長崎運輸センターに転属した。本区分は特急「シーボルト」2往復(佐世保 - 長崎間、大村線経由)に転用された。この「シーボルト」は2003年(平成15年)3月15日に快速「シーサイドライナー」に格下げされる形で運行を終了したため、本系列は一旦保留車扱いとなった。なお、「シーボルト」は1編成のみで使用するため、本区分の検査時などはキハ185系気動車が代走していた。 2004年3月13日付で豊肥久大鉄道事業部豊肥久大運輸センター(現・大分鉄道事業部大分車両センター)に転属し、同日から特急「ゆふDX」(博多 - 大分・別府間、久大本線経由)として使用された。「ゆふ」3往復のうち、半分の1.5往復が本形式を使用する「ゆふDX」として運転されたが、奇数日と偶数日で運用される列車が異なり、毎月31日とうるう年の2月29日および本形式の検査や故障などの場合は全列車をキハ185系気動車による特急「ゆふ」として運転された。2011年1月10日、後述の「あそぼーい!」転用のために「ゆふDX」での運行は終了した。 2011年3月12日付で熊本車両センターに転属し、再改造のうえ同年6月4日から臨時特急「あそぼーい!」(熊本 - 別府間、豊肥本線経由)として運行されている。
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運用の変遷
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「JR東日本E351系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
1993年(平成5年)12月23日に臨時「あずさ」で営業運転を開始し、翌1994年(平成6年)12月3日から振り子機構を作動させ、「スーパーあずさ」に導入された。量産先行車の落成当初、大糸線には付属編成が乗り入れていたが、その後基本編成が乗り入れるように改められた。落成当初は南小谷方が付属編成であったが、1994年夏に東京方が付属編成に変更された。 1997年(平成9年)10月12日、S3+S23編成による「スーパーあずさ」の大月駅通過中に、信号を無視して本線に進入した入換車両に衝突されて脱線転覆し、S3編成のうち損傷の酷かった5両が解体された(→大月駅列車衝突事故も参照)。本件事故後の処理は、廃車手続きをせず代替の車体を日立製作所で新造し、この車体に使用可能な部品を整備のうえ取り付け、原番号で復旧した。事故発生から代替編成新造までの期間は、編成不足を補うために北陸新幹線一部先行開業に伴い余剰となっていた「あさま」用の189系11両編成を塗装変更を行わずに投入した。 2008年(平成20年)3月14日までは間合い運用として東海道本線の「おはようライナー新宿」・「ホームライナー小田原」にも充当されていた。藤沢・茅ケ崎の両駅では貨物線のライナー専用ホームに停車していたが、有効長は10両編成分であるため、1 - 3号車の客用ドアは締切扱いとなっていた。そして、同年3月17日からは「中央ライナー」に充当されるようになった。 2008年8月15日に夜行快速の「ムーンライト信州」92号に充当され、2009年も同列車に使用されている。 2010年(平成22年)3月まで朝の「スーパーあずさ」6号が信濃大町始発として設定されていたが、同月のダイヤ改正で松本始発に変更されたため、大糸線での定期列車の運行は消滅した。 2014年(平成26年)にJR東日本では本形式の置き換えを目的として、後継車E353系を新造することを発表した。E353系は2017年(平成29年)12月23日から営業運転を開始し、スーパーあずさ8往復のうち4往復がE353系に置き換えられた。 2018年3月17日のダイヤ改正で「スーパーあずさ」全列車がE353系に統一され、本形式は「スーパーあずさ」の運用を終了した。また、「中央ライナー」の運用も終了し、E257系に統一された。その後、同年4月7日に行われた「ありがとうE351系 松本〜新宿ラストランの旅」をもって全ての営業運転を終了した。 2017年12月24日付でS2+S22編成とS5+S25編成が廃車となった。2018年4月4日付でS1+S21編成が、4月8日付でS3+S23編成とS4+S24編成がそれぞれ廃車され形式消滅となった。本系列は他線区及び波動用の転用はなされず、廃車後は全車が解体されている。
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運用の変遷
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「JR東海キハ85系気動車」の記事における「運用の変遷」の解説
1989年に特急「ひだ」で運用を開始した。当初は1往復のみの充当であったが、翌1990年3月10日のダイヤ改正にてすべての「ひだ」に運用されるようになった。1991年3月16日のダイヤ改正で、名古屋鉄道から高山本線に乗り入れていた特急「北アルプス」がキハ8500系に置き換えられ、季節運転の「ひだ」と併結して運転されるようになった。その後、1999年からは定期運行となった「ひだ」と併結し、2001年9月30日の「北アルプス」廃止まで続いた。 「南紀」は1992年3月のダイヤ改正から営業運転を開始し、改正と同時に全列車を置き換えた。当初は専用グリーン車のキロ85を連結していたが、2001年にグリーン車の連結は多客期のみに変更された。 過去には間合い運用として「ホームライナー(太多・四日市・岡崎)」にも使用されていたが、これらが一般列車に変更されたため2012年3月改正後は使用されていない。普通列車としては、2001年3月のダイヤ改正まで新宮駅 - 紀伊勝浦駅間において、紀伊勝浦駅発の始発列車と新宮駅発の最終列車の運用があった(名古屋駅 - 新宮駅間は「南紀」として運行)。 2018年4月1日現在では名古屋車両区に80両が配置され、以下の列車・編成で使用される。 斜字は非貫通式先頭車。気動車である特性を生かして1両単位での増結や車両の差し替えも行われている。
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運用の変遷
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本系列は青森から西鹿児島(現・鹿児島中央)までを包含する広範囲の地域において、昼夜兼用で広汎に使用された。
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運用の変遷
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「国鉄ワム60000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
1961年(昭和36年)の製作開始直後から「急行車扱列車」への専属運用に充当され、従前の専属運用車ワム70000形の大半を本形式で置き換えた。急行車扱専用車は側扉部に黄かん色の「急行」標記を付したほか、車両記号標記は特殊標記符号「キ」を前置し「キワム」と標記して識別した。この標記は1965年(昭和40年)に廃止され、以後は国鉄全線で一般貨車との共通運用にも充てられて汎用的に使用された。 国鉄工場に常備され、配給車として部品配送に使用された車両も一部に存在した。当該車両は車体に白色の帯を表示し、常備工場名と「配給車代用」の標記が付された。 国鉄末期、貨物列車の輸送体系を転換し、「ヤード集結形輸送」から「拠点間直行方式」への改組が企図された。この方針は1984年(昭和59年)2月1日国鉄ダイヤ改正で実施に移され、大量の不要車両が発生することから、本形式はワラ1形・ワム70000形・トラ55000形などの形式とともに使用停止の措置が採られた。本形式は他の余剰車両とともに、機能を停止した操車場などの構内に留置の後、逐次除籍処分がなされた。大半は解体処分されたが、一部の車両は倉庫などへの活用を想定して売却が実施された。 1987年(昭和62年)のJR移行では日本貨物鉄道(JR貨物)への承継は皆無で、JR東日本へ5両、JR九州へ3両の合計8両のみが承継された。これらは事業用車(控車)代用として使用されていたもので、検重車(ケ10形)を用いた域内各拠点の「台秤」を較正する作業の際に、補助機器の輸送や係員の添乗に用いられた。一部にはユニットサッシの2段窓を側面に設けた車両も存在した。これらの代用車は検重車の使用機会減少で用途がなくなり、最後まで残存したJR東日本の南秋田運転所(現:秋田総合車両センター南秋田センター)所属の3両が2001年(平成13年)4月に除籍され、形式消滅した。
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運用の変遷
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1992年1月より6101F・6102Fが搬入され、乗務員訓練や試運転を経た6月1日から営業運転を開始した。運転開始当初は池袋線池袋駅 - 小手指駅間の準急列車および池袋駅 - 飯能駅間の急行列車へ充当し、限定運転としていた。なお、6101Fは落成直後にクハ6101-モハ6201-モハ6601-クハ6001の4両で試運転も行われた。 1994年8月8日からは新宿線や拝島線でも運転を開始し、701系などを置き換えた。同年12月7日には、西武有楽町線新桜台駅 - 練馬駅間および営団有楽町線新線(現在の副都心線)開業およびと両線の相互直通運転が開始されたことにより、有楽町線新木場駅 - 和光市駅間にも運転範囲を拡大した。 1998年3月26日のダイヤ改正で西武有楽町線新桜台駅 - 練馬駅間が複線化され、相互直通運転区間が飯能まで延長され、本格的に地下鉄直通での運用を開始した。ただし、有楽町線用のCS-ATCが搭載されたのは6108F - 6114Fと50番台にとどまり、ATC搭載対象から外れた編成は区別のため6103Fを除き新宿線へ転用されたが、6103Fは引き続きATCを搭載せず、有楽町線乗り入れ非対応のまま池袋線に残留した。このため、池袋線に有楽町線対応車と非対応車が混在した当時、ダイヤ乱れ時に非乗り入れ車の有楽町線への誤入線を防ぐため、ダイヤ改正後の6103Fは池袋寄り先頭車の前面スカートの左右下部2か所に黄色の蛍光塗料の「S」マークを貼り付け、運行番号表示器に黄色の板を入れて塞いだ状態で運用していた。 その後、6101F・6102F・6104Fが4月に池袋線へATCを搭載しないまま復帰した際にも同様の処置がとられた。これは練馬駅の中村橋側に設置されていた監視カメラで識別する目的もあった。 池袋線をATC搭載車で統一することになり、新宿線所属であった6115F - 6117FがATCを搭載して池袋線へ転属し、代わりに6101F - 6104Fが同年9月に新宿線へ再度転属した。これにより区別の必要がなくなったため、これらのステッカーは撤去された。 その後、副都心線開業を控えた2006年度より、新宿線で運用されていた6103F - 6107Fが副都心線対応・ATC搭載改造を実施し、改造後に池袋線に転属した。 池袋線では、有楽町線や副都心線への乗り入れ運用に限らず、池袋駅始発・終着の列車でも運用される。有楽町線や副都心線では、池袋線へ直通しない線内折り返しの列車にも使用されており、東上線への乗り入れは出来ないが和光市駅までは入線可能なため、同駅で東武鉄道の非直通車両と並ぶ光景もみられる。 2022年3月12日現在の運用範囲は以下のとおり。西武線内では特急・有料座席指定列車以外すべての列車種別で運用される。 池袋線所属編成 (6103F - 6117F, 6151F - 6158F) 池袋線:池袋駅 - 飯能駅間(池袋 - 練馬間は各停を除く) 西武有楽町線:全線(練馬駅 - 小竹向原駅間) 狭山線:全線(西所沢駅 - 西武球場前駅間) 東京メトロ有楽町線:全線(和光市駅 - 新木場駅間) 東京メトロ副都心線:全線(和光市駅 - 渋谷駅間) 東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線:全線(渋谷駅 - 横浜駅 - 元町・中華街駅間 各停を除く) 相鉄線直通列車には充当されない予定。 東横線・みなとみらい線への乗り入れ開始により、西武の車両が営業運転としては初めて神奈川県内でも見られるようになった。 2013年3月16日改正ダイヤでは、東京メトロの和光検車区・新木場車両基地および東急の元住吉検車区で各1本ずつが夜間留置となる「外泊運用」を組んでいる。逆に、東京メトロ有楽町線・副都心線の10両編成1本(7000系・10000系)および東急東横線の10両編成1本(5050系4000番台)が武蔵丘車両基地で、東急東横線用の8両編成1本(5000系・5050系・横浜高速鉄道Y500系)が石神井公園駅でそれぞれ夜間留置となっている。 新宿線所属編成 (6101F・6102F) 新宿線:全線(西武新宿駅 - 本川越駅間。ただし、西武新宿駅 - 上石神井駅間は各停を除く) 拝島線:全線(小平駅 - 拝島駅間)
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運用の変遷
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「JR北海道キハ281系気動車」の記事における「運用の変遷」の解説
現在27両すべてが函館運輸所に所属している。 2021年度ダイヤ改正(2021年3月12日)まで、7両編成を基本とした2本が組成されて運用されていた。 元来キハ283系と営業最高速度が共通であったため、多客時や本系列の検査時などで本系列とキハ283系との混結が実施されていたが、2013年11月のダイヤ改正から実施されている減速ダイヤでは、本系列の場合は120km/h、対するキハ283系が10km/h遅い110km/hと最高時速に差が生じたため、現在混結は原則不可能となっている。なお、混結時における振子作用時の車体最大傾斜角は、本系列に合わせた5度であった。 北斗用編成(2021/3/12まで) ← 函館 札幌 → 号車1234567形式キハ281 キハ280-100/900 キロ280 キハ280-100/900 キハ280-0 キハ280-100/900 キハ281 新型コロナウイルスの影響 2020年3月23日より、新型コロナウイルスによる需要低下から、第一段階の減車として自由席が1両減り6両編成となった。 北斗用編成(2020年3月23日 - 2020年4月6日) ← 函館 札幌 → 号車123456形式キハ281 キハ280-100/900 キロ280 キハ280-100/900 キハ280-0 キハ281 その後、2020年4月6日より、新型コロナウイルスによる需要低下から、第二段階の減車として指定席が1両減り5両編成となった。また、自由席の混雑が認められたため、[要出典]4・5両目を自由席と変更。4両目の車椅子対応席が自由席となったため、使用者には車掌による誘導が行われた。[要出典] 北斗用編成 ← 函館 札幌 → 号車12345形式キハ281 キハ280-100/900 キロ280 キハ280-0 キハ281 現況 2021年3月13日に行われたダイヤ改正では、新型コロナウイルスの影響と、アフターコロナにおいての利用回復が見込めないことから指定席2両減の5両編成に減車された。グリーン車の位置は3号車から2号車に変更。また、北斗5号と北斗14号においては、閑散期に曜日によって運休に(4・10・11月の水・木運休、年間30日程度)になった。この2列車の列車番号は季節臨の6000番台+号数となっている。 北斗用編成(2021年3月13日から) ← 函館 札幌 → 号車12345形式キハ281 キロ280 キハ280-0 キハ280-100/900 キハ281 2022年3月12日現在の運用列車特急「北斗」(函館 - 札幌 間、定期1日2往復、臨時1日1往復) 過去の運用実績「ホームライナー」(手稲 → 札幌間)(2013年10月31日まで) 特急「北斗17号」(函館 → 札幌間)(2013年7月8日 - 10月31日、2014年3月15日 - 7月31日)「北斗17号」については、2013年7月6日に発生した「北斗14号」出火事故の影響で運休した一部の「スーパー北斗」に運用予定だった本系列を用いて代走が行われた。
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運用の変遷
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1997年3月22日のダイヤ改定では、朝ラッシュ時の枚方市停車の淀屋橋行特急に集中運用され、昼間時でも急行などとして幅広く運用されていた。運用開始当初は、枚方市駅停車の淀屋橋行き特急以外の特急として充当される際は各車両の中央扉のみドアカットを行い、2扉車として運用していた。 1999年から2003年まで、淀屋橋 - 淀間で運行されていた京都競馬場観戦客向け臨時列車「淀快速ターフィー号」に充当されたこともある。また2003年までの正月ダイヤでは8000系がフル稼働となったために代用特急での運用もあった。 2003年9月6日のダイヤ改定で昼間時の特急が10分毎に増発され、停車駅に枚方市と樟葉が追加された。それに伴い8000系および3000系 (初代)では昼間時の特急の全運用を賄いきれないこととラッシュ時と昼間時の列車の移り変わりの運用の関係から平日朝ラッシュ時は主にK特急で運用され、昼間は主に特急として運用されていた。日中の特急のうち3本に1本の割合で本系列での運用が割り当てられ、その他の時間帯は淀屋橋 - 出町柳間運転の急行を中心に運用され、準急や普通の運用に就くものもあった。なお、特急のドアカットの取り扱いは中止され、常時3扉の状態で運用されることとなった。同時に座席モケットの更新も実施され、従来とは違うバケットタイプのものに変更された。 2006年4月16日改定時点では5本中4本がラッシュ時の下りK特急に運用されていたが、当時は全編成セミクロスシート車であるため、出町柳を7:00 - 7:30の間に発車する最混雑時間帯の下りK特急3本はロングシート車が、その直前および直後を走る3扉のK特急4本に9000系が充当される運用であった。また、残りの1本も予備車の活用スジとして、寝屋川車庫から普通として出庫し、淀屋橋 - 出町柳間を上り急行→下り特急と1往復した後に再び車庫に戻る運用に就いている。その後、4本が日中の特急運用のほか、車両運用の都合上枚方市 - 淀屋橋間の急行1往復にも充当されるなど、ほぼフル稼働で運用されているので実質的に予備車が存在しなかった。そのため、検査や部品交換の時期になると6000系や7200系(8両編成のみ)による代走が特定の特急運用において行われていた。 2008年10月19日改定以降、全線通しの特急運用は朝と夕方以降のみに縮小され、朝の時間帯は主に3扉車特急・快速急行系優等種別運用の8両編成グループの一員に組み込まれることとなった。また、ロングシート化工事の進展に伴い2009年9月12日改定以降は本系列の限定運用が解除され、6000系・7200系の8両編成との完全な共通運用が組まれることとなった。このため、平日昼間および土曜・休日ダイヤの大半の時間帯には樟葉以東ではあまり運用されなくなっている(3000系の入場時の特急への代走による充当程度)。 9001F - 9004Fは、前述のとおり7両編成化されたことに伴い、特急運用に就くことはなくなっているが、8両編成時代は比較的少なかった準急、普通運用に入ることが増え、京都口に入線することも増えている。ただし8000系がプレミアムカー改造のため7両編成で運用されていた時期には、8000系の運用の状況によってごく稀ではあるが特急運用に入ることがあった。 中之島線開業初日には初の特急枚方市行きに9001F、深夜急行に9002Fが充当された。
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運用の変遷
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「西武20000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
本系列は、1999年(平成11年)10月に最初の編成が落成し、2000年2月21日の一般営業運転開始まで乗務員の習熟運転が実施された。2000年(平成12年)2月20日には本系列のデビューを記念し、20101編成を使用した臨時快速急行列車として西武新宿 - 西武球場前間を1往復走行し、西武球場前駅では撮影会が実施された。また、乗車記念として硬券の記念乗車券も発売された。このイベント運転時には「20000系デビュー 環境にやさしい 人にやさしい」と書かれた特製ヘッドマークを掲出して運転され、翌21日からの一般営業運転日にも掲出され、2月29日まで掲出して運転された。 営業運転開始時は新宿線のみ配置されたが、2002年(平成14年)9月9日からは池袋線でも営業運転が開始された。8両固定編成は各駅停車、10両固定編成は優等列車を中心に使用されている。新宿線所属編成と6000系が検査入場する際には、池袋線所属編成を代走用として借り入れたことがある。また、10両編成については新宿線系統所属車のうちいずれか2編成が常に池袋線系統へ貸出されている。 本系列は2・4・6両編成が存在しないため、新宿・池袋線からの乗り入れ時以外は多摩湖線・国分寺線・西武園線での通常運用はない。登場から長らく飯能 - 吾野間および西武秩父線への入線もほとんどなかったが、8両編成は2010年3月のダイヤ改正から2000系と共に土休日の西武秩父→池袋の快速急行に充当されるようになった。このダイヤ改正以前では、2000年10月に開催された「西武トレインフェスティバル2000 in 横瀬」の臨時列車として西武秩父線を初走行し、毎年12月3日に埼玉県秩父市で開催される秩父夜祭や同市にある羊山公園の芝桜が見頃になる4月上旬から5月上旬にかけて、およびイベントのために臨時列車として、8両編成が池袋線飯能 - 吾野間および西武秩父線に入線したことがある。 沿線でイベントが開催される際にヘッドマークを装着することがある。2005年 - 2007年の「西武トレインフェスティバル」にも本系列が臨時列車に充当され、その年ごとに異なるヘッドマークが装着された。2008年3月1日から3月17日まで開催された「ねりたんアニメプロジェクト in 大泉」では20108編成(10日以降は20107編成)が、3月15日からの「ガンダムモニュメント」では20154編成がそれぞれヘッドマークを装着した。
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運用の変遷
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先行量産車であるW1編成は、1996年2月から1年間に及ぶ性能試験及び長期耐久試験を開始した。320km/hまでの車両性能及び営業運転速度(300km/h)における地上設備との整合性に関わる試験を含んだ長期耐久走行(走行キロは約42.5万km)を行い、営業運転を行うにあたり問題のないことを確認した。 約1年に及ぶ試運転の後、1997年3月22日から山陽新幹線区間で、同年11月29日からは東海道新幹線でも運転を開始した。 徹底して高速性能を追求したために、製造コストや居住性の問題、特に東海道新幹線内での他系列との定員の違いなどの点が運行開始後に問題となった。2007年に最高速度300km/hの高速性能と居住性の両立を目指した後継車両のN700系導入後は徐々に「のぞみ」運用から離脱し、2010年2月28日に定期「のぞみ」運用から離脱した。
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運用の変遷
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1992年(平成4年)7月1日の山形新幹線(福島 - 山形)開業と同時に「つばさ」で営業運転を開始した。東北新幹線区間(東京 - 福島)では200系と連結する列車が大半であったが、下り初発・上り最終列車や臨時列車では他車両と連結されず、単独で走行する場合もあった。 1995年(平成7年)12月1日から中間車1両を増結し、7両編成化が行われた。 1999年(平成11年)4月29日からは、E4系と連結される列車が設定された。さらに、同年12月4日には山形新幹線(山形 - 新庄)延伸開業がなされ、運用区間も新庄まで伸びた。延伸に合わせて増備されたE3系1000番台と同一の塗装(シルバー■/グレー■地に緑線■)に順次変更され、ロゴや内装もリニューアルされた。 2001年(平成13年)9月21日以降は、200系と連結する運用が消滅した。 なお、「つばさ」だけでなく、間合い運用で東京駅 - 那須塩原駅間運転の「なすの」(朝夕の一部列車。E4系と連結)にも使用されていた。また同じく山形新幹線区間を走行するE3系1000・2000番台とは共通運用が組まれていた。 2007年(平成19年)7月にE3系をベースとした新型車両を導入することが発表され、翌2008年(平成20年)12月から順次置き換えが開始された。 L1編成は2008年12月16日に定期運用から離脱し小山新幹線車両センターに疎開していたが、2009年(平成21年)1月9日に小山新幹線車両センターから新幹線総合車両センターへ廃車回送された。廃車となった車両は廃車手続と同時に所有者の山形ジェイアール直行特急保有株式会社に返却している。これが400系最初の廃車編成となった。 2010年(平成22年)に営業運転を終了することが発表。同年4月に引退記念列車が運行され(詳細は後述)、これをもって400系は正式に引退した。同年4月30日付けでL3編成が廃車となり、本系列は消滅した。L3編成のうち先頭車1両は引退後しばらくの間福島駅構内の福島総合運輸区に保管されていた。
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運用の変遷
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「東京都交通局6000形電車 (鉄道)」の記事における「運用の変遷」の解説
開業当初は4両編成であったが、1972年(昭和47年)の6月30日の巣鴨駅 - 日比谷駅間の開業時より6両編成となった。なお、設計時は8両編成を想定していた(3・4号車が欠車)。 長年にわたって三田線の専用車両として運用されてきたが、1993年(平成5年)6月22日より後継車両の6300形を導入し、非冷房だった初期車の置き換えが開始された。当初は、過去に三田線との乗り入れ計画があった東急池上線や東急多摩川線が実施しているホームセンサー方式でのワンマン運転を構想していたこともあり、6300形の投入で初期車を置き換える一方、6000形のうち車齢の若いものでかつ冷房改造と車体修繕を施工したものは改造して継続使用することも検討されており、1995年(平成7年)にはいったん置き換えが中断された。 ところが、1990年(平成2年)6月に、現在の相互直通車両規格の名称である「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線との車両申し合わせ事項」に基づき、ホームゲート方式のワンマン方式に決定された後、そのホームゲートの位置およびこれによる乗務員の安全確認上の問題や、ATOの精度の問題に加え、それに対応するための改造費が6300形の導入費用に匹敵することが判明した結果、6300形への全面置き換えが決定。1999年(平成11年)に置き換えが再開され、同年12月3日のATC/SR化と、翌2000年(平成12年)9月26日からの営団地下鉄(現・東京地下鉄)南北線・東急目黒線との相互乗り入れの開始に先立ち、1999年11月28日のさよなら運転を以て三田線での運用を終了した。 なお、東急側も9000系で乗り入れる計画であったが、ワンマン運転時の安全確認の関係などから中止した。
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運用の変遷
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「国鉄キハ183系気動車」の記事における「運用の変遷」の解説
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運用の変遷
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「国鉄ワム49000形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
こうして登場した3形式だが、構造が複雑になり製造コストが高価となり試作のみで量産はされなかった。 ワム49000形は1972年(昭和47年)度、ワム49100・ワム49200形は1976年(昭和51年)度に廃車された。
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運用の変遷
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1960年(昭和35年)に第1編成(1721F)が製造され、同年10月9日から営業運転が開始された。以降は一貫して日光・鬼怒川線特急列車として使用された。
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運用の変遷
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「住宅・都市整備公団2000形電車」の記事における「運用の変遷」の解説
1991年(平成3年)の北総開発鉄道(2004年7月1日からは北総鉄道、北総)・京成電鉄(京成)・東京都交通局(都営地下鉄)・京急4社局直通運転開始にあたり、乗り入れ先の京急の車両(2000形)と番号が重複するため、1994年(平成6年)に現在の9000形へと改称された。この際、番号体系は京成3700形電車などで採用しているものと同様の一位で号車番号、百位と十位で製造順位を表すものとなっている。 なお、本形式の登場後しばらくは新京成電鉄(新京成)松戸乗り入れも行われ、新京成にも2000番台の形式が存在していた(京成2000形電車を参照)ため、二度の番号重複を経験している。 登場時から1999年(平成11年)9月30日までは住宅・都市整備公団(住都公団)、同年10月1日から2004年(平成16年)6月30日までは都市基盤整備公団(都市公団)が所有し、車両の管理を北総が行っていたが、同年7月1日の都市公団の独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)への改組に伴い、同公団保有の鉄道施設および車両が同日から千葉ニュータウン鉄道(京成全額出資で設立された受け皿子会社)に譲渡されたため、千葉ニュータウン鉄道所有・北総管理とされた。登場当時は前面と側面に住都公団のマークが設置されていたが、1999年の都市公団への移行後に前面マークの撤去と側面マークのUDCマークへの交換を実施し、その後2004年の千葉ニュータウン鉄道への譲渡に伴い、側面マークは「北総鉄道」のプレートに交換され、「K'SEI GROUP」ロゴも追加された。 北総管理の編成の中では最後まで新京成乗り入れ時代のSR列車無線アンテナが残っており、2005年(平成17年)4月には、新京成電鉄N800形電車の新車搬入時の牽引車として9008編成が使用され、編成中にN800形(N818編成)を2両ずつ挿入の上くぬぎ山車両基地へ搬入した(増備車は自力回送されている)。 2010年(平成22年)3月27日には「ほくそう春まつり」の開催に合わせて本系列を使用した臨時列車「ほくそう春まつり号」が京成上野 - 京成高砂 - 千葉ニュータウン中央間で9018編成を使用して運転された。北総の車両が京成上野 - 青砥間に入線し、北総線へ直通する列車が営業運転を行うのは2009年(平成21年)3月28日に続いて2度目である。 2013年(平成25年)3月1日から9200形(9201編成)が営業運転を開始した。これに伴い、9008編成が同年2月28日をもって営業運転終了し、同年3月1日付で廃車された。そのため、2013年3月以降は9018編成のみが在籍・運用されていた。 その9018編成も2017年(平成29年)3月17日をもって定期運用を終了、3月20日には事前応募による当選者を対象とした「ありがとう9000形引退記念ツアー」と題したラストランイベントが実施され、これをもって本形式はすべての運用を終了した。
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運用の変遷
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運用の変遷
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「伊豆箱根鉄道7000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
運行開始当初は主に快速列車運用に就いていたが、1998年(平成10年)3月の快速廃止後は他形式と区別されることなく普通列車運用に就いている。なお、快速廃止と同時に指定席も廃止されたものの、中間車に設置されていた「座席指定車」表記は後年まで残されていたが、モハ7301は2007年(平成19年)に、モハ7302は2008年(平成20年)にそれぞれ貫通扉ごと撤去されている。また、2007年(平成19年)には全車の客用扉付近につり革が新設され、2008年に各車両の各ドアには車両・ドア位置案内プレートが、各車両の車端部(外側も含む)には号車表記が貼付けられた。号車表記は修善寺側から1号車・2号車・3号車となっている。 その後、駿豆線におけるワンマン運転導入計画が具体化したことに伴い、2008年(平成20年)10月までに全編成の運転台にワンマン・ツーマン切替スイッチ、戸閉め放送スイッチが新設された。2009年(平成21年)4月1日より駅収受方式によるワンマン運転が開始され、同日より運転台の右側に「ワンマン」表記プレートが設置されている。
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運用の変遷
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24系はJR化後の1990年代中頃から運用する列車は漸減し、2012年の「日本海」廃止後の定期運用は、個室化改造車および14系からの編入改造車を除くと「あけぼの」(25形と混成)のみとなっていた。2014年(平成26年)3月に「あけぼの」定期運行が終了となり、その後の臨時「あけぼの」も2015年1月を最後に設定されなくなったことにより、全車運用を離脱した。 24系25形は2013年の時点で、「北斗星」・「トワイライトエクスプレス」・「あけぼの」および急行「はまなす」の運用に就いていた。2014年3月の「あけぼの」定期運行終了後、同年12月 - 2015年1月の臨時列車を最後に「あけぼの」が運行終了。同年3月には「北斗星」(定期)・「トワイライトエクスプレス」が廃止となった。その後「北斗星」は臨時列車となったものの、2015年8月22日の札幌発の上り列車をもって臨時運行も終了となった。また「トワイライトエクスプレス」は『特別な「トワイライトエクスプレス」』として、主に京都・大阪 - 下関間におけるツアー用団体臨時列車として運行されたが、2016年3月21日の下関始発を以って運行を終了した。最後の定期運用として残った急行「はまなす」では、14系との混結改造を施したオハネ25形およびオハネフ25形が使用されていた(オハネ14形からの改造車であるオハネ24形500番台も共通運用)が、「はまなす」は2016年3月22日に札幌駅に到着した列車をもって運行を終了し、全ての運用から退いた。
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運用の変遷
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「近鉄21000系電車」の記事における「運用の変遷」の解説
「近畿日本鉄道のダイヤ変更」も参照 運用の開始まで 21000系は1988年3月18日のダイヤ変更から運用を開始した。これに先立って1月23日から公式試運転が行われ、その後2月19日に公式試乗会、一般試乗会が実施された。公式試運転は営業運転の直前まで実施された。一般試乗会(有料)は以下の日程で実施された。2月28日・3月6日 上本町9:55 → 近鉄名古屋12:04(途中無停車) 使用車両…両日とも21101F 1988年3月18日ダイヤ変更 近鉄難波(現・大阪難波) - 近鉄名古屋間を途中の上本町・鶴橋のみに停車する名阪ノンストップ特急の運用に就いた。 時刻は以下の通りであった。この時は一次車3編成のみが在籍していたため、一日6往復の設定で、水曜日は検査入場のために2往復は一般車両で代走した(※の列車)。 下り(近鉄難波発時刻 → 近鉄名古屋着時刻)7列車(アーバンライナー7号) 7:00 → 9:15(※) 8列車(アーバンライナー8号) 8:00 → 10:08 9列車(アーバンライナー9号) 9:00 → 11:05 14列車(アーバンライナー14号) 14:00 → 16:05(※) 15列車(アーバンライナー15号) 15:00 → 17:05 16列車(アーバンライナー16号) 16:00 → 18:07 上り(近鉄名古屋発時刻 → 近鉄難波着時刻)60列車(アーバンライナー60号) 10:00 → 12:06(※) 61列車(アーバンライナー61号) 11:00 → 13:06 62列車(アーバンライナー62号) 12:00 → 14:06 68列車(アーバンライナー68号) 18:00 → 20:06(※) 69列車(アーバンライナー69号) 19:00 → 21:06 70列車(アーバンライナー70号) 20:00 → 22:06 追加投入の開始 1988年12月下旬に、2次車1編成 (21104F) が竣工し、同月31日の越年特急で運用を開始した。翌年2月から3月にさらに3編成 (21105F - 21107F) が竣工した。 1989年3月17日ダイヤ変更 2次車4編成が出揃ったことによってダイヤ変更を実施し、近鉄難波、近鉄名古屋を相互発で、8, 9, 10, 12, 13, 14, 16, 17, 18, 20時の10往復に投入された。同年、世界デザイン博覧会(名古屋市で開催)が催されたが、この開催期間内の7月21日から8月17日まで、近鉄難波7時・15時発、近鉄名古屋11時・19時発の2往復が追加運転された。 1989年(平成元年)11月から12月にかけて、さらに4編成 (21108F - 21111F) が増備され、年内より順次営業列車に投入された。同年12月31日から翌年1990年(平成2年)1月15日までの毎日と1月21日からダイヤ変更日までの日・祝日に1日2往復が増発された(時刻は1989年夏と同じ)。 1990年3月15日ダイヤ変更 名阪ノンストップ特急の全列車が21000系となった。このうち、近鉄名古屋7時発の列車は上本町行きとなった。今改正より、名阪ノンストップ特急の所要時間が1分短縮され、最短2時間4分運転となった。また、朝晩の一部列車が津駅と大和八木駅に停車するよう改められた。この改正より、近鉄難波・近鉄名古屋発の最終列車が1時間繰り下げられて21時発となったが、代わりに近鉄難波17時20分発、近鉄名古屋17時25分発の列車(いずれも一般特急車使用)は取り消された。このダイヤ変更をもって列車号数案内は中止された。このほか、間合い運用で名伊甲特急1往復にも充当された。 名阪甲特急(上本町、鶴橋のほかに下りは津、上りは津・大和八木に停車)21列車 近鉄難波21:00 → 近鉄名古屋23:09 71列車 近鉄名古屋21:00 → 近鉄難波23:09 名伊甲特急(近鉄名古屋 - 宇治山田間ノンストップ)411列車 近鉄名古屋11:25 → 賢島13:28 440列車 賢島14:40 → 近鉄名古屋16:44 中間車の増備 1990年(平成2年)11 - 12月にモ21304形・モ21404形(末尾番号01 - 03)が各3両ずつ増備され、これに伴ってモ21300形・21400形のモ21700形・21800形への改番が同年9 - 12月に完了した。それにより、1990年12月31日の越年特急より8両編成の運転を開始し、翌1991年(平成3年)1月より暫定的に名阪特急でも充当され、同年3月19日ダイヤ変更時より本格的に運用開始した。対象列車は、月曜日から金曜日は近鉄難波発9, 17時、近鉄名古屋発13, 19時(2往復)、土曜日は近鉄難波駅 9, 13, 17, 21時発、近鉄名古屋駅 9, 13, 17, 20時発(4往復)、日曜日は近鉄難波 9, 10, 13, 17, 18時発、近鉄名古屋 9, 13, 14, 17, 20時(5往復)であった。このダイヤ変更より休日の近鉄名古屋発近鉄難波ゆき甲特急(ノンストップ)が本系列使用にて増発された。768列車 近鉄名古屋18:25 → 近鉄難波20:34 1994年3月15日ダイヤ変更 23000系「伊勢志摩ライナー」の営業運転を開始したが、同系充当列車のうち、一部が3月中は21000系の運用となった(土曜の上本町13:10発、賢島19:20発、休日の上本町8:10・16:10発、賢島12:10・19:20発)。名阪甲特急では、名古屋7時発の上本町行きが近鉄難波行きに変更された。また、近鉄名古屋発18:25の列車が取り消された。代わって、休日のみ上本町発近鉄名古屋行き甲特急(ノンストップ)が設定された。718列車 上本町18:25 → 近鉄名古屋20:40 391列車 近鉄名古屋9:25 → 賢島11:24(名伊甲特急の本系列充当列車が変更) 420列車 賢島12:40 → 近鉄名古屋14:44 1997年3月18日ダイヤ変更 折からの名阪特急利用者の減少で、1996年は21000系投入以前の実績まで落ち込み、同年、割引率の高い回数券「名阪まる得きっぷ」を発売し、そして迎えた1997年は名阪甲特急のうち、大和八木・津に追加停車となる列車を増加させ、特急利用客の増加を図る施策が実施された。これにより、ノンストップ特急は難波発が9 - 18時、名古屋発が10 - 19時(土休日8 - 19時)となった。さらに土休日に名阪甲特急が1往復増発された(上本町・鶴橋・津停車)。これにともない、上本町発18:25の列車が取り消された。今改正より土曜日も休日ダイヤとされた。716列車 近鉄難波16:20 → 近鉄名古屋18:32 766列車 近鉄名古屋16:25 → 近鉄難波18:37 また、近鉄難波 - 近鉄奈良間の阪奈特急に初めて本系列を充当した。平日深夜の下りのみで、名阪甲特急の折り返し運用である。阪奈特急に限りデラックス料金は不要とされ、このため時刻表にULのマークは掲載されなかった(2003年3月号より掲載)。8217列車 近鉄難波22:20 → 近鉄奈良22:51 8317列車 近鉄難波23:20 → 近鉄奈良23:51 このほか、名伊甲特急の本系列充当列車が変更された(平日、土休日同じ)。3811列車 近鉄名古屋8:25 → 賢島10:24 4110列車 賢島11:40 → 近鉄名古屋13:42 1998年3月17日ダイヤ変更 名阪甲特急のうち、大和八木に停車する列車が増加するとともに、津に停車する列車が設定された。これにより、ノンストップ特急は近鉄難波が9 - 18時発、近鉄名古屋が10 - 18時(土休日8 - 18時)発となった。また、名阪甲特急の土休日運転列車が2往復増加した。 下り(上本町・鶴橋・津停車)717列車 近鉄難波17:20 → 近鉄名古屋19:34 718列車 近鉄難波18:20 → 近鉄名古屋20:34 上り(津駅・大和八木・鶴橋・上本町停車)767列車 近鉄名古屋17:25 → 近鉄難波19:38 768列車 近鉄名古屋18:25 → 近鉄難波20:36 1999年3月16日ダイヤ変更 名阪甲特急のうち、大和八木に停車する列車が2本増加した。これにより、ノンストップ特急は近鉄難波発が10 - 18時、近鉄名古屋発が10 - 17時(土休日8 - 18時)となった。平日の名伊甲特急の本系列充当列車が期間を定めて変更された(3月16日 - 4月7日、4月30日、7月21日 - 8月20日、2000年1月4日 - 1月7日は30000系で運転された)。 所定運用(今改正より平日はこの時刻に充当列車が変更された)4111列車 近鉄名古屋11:25 → 賢島13:23 4410列車 賢島14:40 → 近鉄名古屋16:43 変更運用(土休日はこの時刻が所定)3811列車 近鉄名古屋8:25 → 賢島10:23 4110列車 賢島11:40 → 近鉄名古屋13:42 2000年3月15日ダイヤ変更 名伊甲特急の運用をやめて、初めて名阪乙特急の運用に就いた。 2001年3月22日ダイヤ変更 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) のオープンに伴って、中京圏や三重県北部からの来場者の便を図るために、名阪特急を2往復増発した。そのうち1往復は21000系、もう1往復は23000系「伊勢志摩ライナー」 (ISL) が充当された。停車駅は桑名・近鉄四日市・津・鶴橋・上本町と甲乙折衷タイプであった(2004年3月に運転取りやめとなった)。 下り ( )は土休日UL 321列車 近鉄難波21:25 → 近鉄名古屋23:39 ISL 319列車 近鉄難波19:20 → 近鉄名古屋21:31 (21:34) 上り ( )は土休日ISL 358列車 近鉄名古屋8:25 → 近鉄難波10:40 UL 357列車(356列車) 近鉄名古屋7:25 (6:20) → 近鉄難波9:47 (8:40) 2003年3月6日ダイヤ変更 21020系の運用を開始し、平日の近鉄難波 8, 13, 14, 21時、近鉄名古屋 7, 11, 17, 18時発、土休日の近鉄難波発 8, 12, 16, 21時と18時20分発、近鉄名古屋7,12, 16, 21時と18時25発の列車へ投入された。これに伴い、21101Fと21102Fが更新改造のために運用を離脱した。この変更で、近鉄難波10時、近鉄名古屋17時発の列車が大和八木にも停車するようになり、ノンストップ特急は近鉄難波発が11 - 18時、近鉄名古屋発が10 - 16時(土休日8 - 18時)となった。名阪乙特急では、平日が近鉄難波発12:30(16:30は取り消し)、近鉄名古屋発10:30(13:30は取り消し)、土休日が近鉄難波発10:30、13:30、近鉄名古屋発10:30、12:30が本系列に置き換えられた。名阪乙特急充当列車は平日2往復、土休日3往復となった。近鉄名古屋 - 松阪間の最終と始発列車が本系列に置き換えとなった。2215列車 近鉄名古屋22:40 → 松阪23:47 8514列車 松阪5:58 → 近鉄名古屋7:07 2003年8月3日より「アーバンライナーplus」の運用を開始した。運転初日から8月29日までは変則運用が組まれたが、8月30日以降は固定運用となった。以降、更新施工車が増えるに従い、運用列車は拡大された。 2004年3月18日ダイヤ変更 近鉄難波7時発、近鉄名古屋21時発の名阪甲特急が、21000系から23000系に置き換わった。土休日には近鉄難波、近鉄名古屋を相互で6時発の列車が増発された(津・大和八木・鶴橋・上本町に停車)。このダイヤ変更で、近鉄名古屋 - 松阪間の運用から撤退したが、新たに平日のみ近鉄名古屋 - 賢島間の運用に充てられた。 名阪特急(土日祝のみ) 6列車 近鉄難波6:00 → 近鉄名古屋8:05 56列車 近鉄名古屋6:00→ 近鉄難波8:09(21020系限定運用) 名伊特急(平日のみ)6715列車 近鉄名古屋7:10 → 賢島9:19 7014列車 賢島10:30 → 近鉄名古屋12:35 2005年3月25日ダイヤ変更 2005年日本国際博覧会(愛知万博)開催に伴い、近鉄難波 - 近鉄名古屋間に1往復(乙特急)が3月25日 - 9月25日までの期間限定で増発された。当初は一般特急車での運行であったが、4月11日より21000系に差し替えられた。この列車は9月26日以降も継続運転された。106列車 近鉄難波6:30 → 近鉄名古屋9:07(土休日は9:06) 171列車 近鉄名古屋21:30 → 近鉄難波23:53(土休日は23:52) 4月6日の112列車(近鉄難波12:30発近鉄名古屋ゆき)をもって、最後まで更新されずに残っていた 21111F の運用が終了した。 4月11日(土休日は16日)より、次の列車が本系列に置き換わった。名阪乙特急充当列車は5往復となった。 下り 近鉄難波10:30 → 近鉄名古屋12:49(毎日:土休日は16日以前から本系列) 近鉄難波20:30 → 近鉄名古屋22:51 上り ( )は土休日近鉄名古屋7:30 → 近鉄難波10:00(平日のみ) 近鉄名古屋17:30 → 近鉄難波19:59 (19:58) 4月16日より、次の列車が本系列に置き換わった。土休日のみの設定。 下り 713列車 近鉄名古屋7:50 → 鳥羽9:24 1213列車 近鉄名古屋12:50 → 鳥羽14:23 上り 912列車 鳥羽9:40 → 近鉄名古屋11:15 1412列車 鳥羽14:40 → 近鉄名古屋16:15 8月16日より、21111Fの更新完了によって運用に余裕が生じたことから、平日朝の1往復のみ京奈特急でも運用された。しかし、京都線のホーム有効長の関係から6両編成のみが使用された。この運用が阪奈特急を介して阪伊乙特急にもつながるため、平日のみ阪伊特急(近鉄難波 - 賢島間)にも本系列が使用されるようになった。 京奈特急706列車 近鉄奈良7:42 → 京都8:22 1213列車 京都8:30 → 近鉄奈良9:05 阪伊特急7003列車 近鉄難波10:05 → 賢島12:38 7304列車 賢島13:05 → 近鉄難波15:39 2006年3月21日ダイヤ変更 愛知万博来場者の便宜を図るために臨時運行されていた名阪特急1往復が定期列車化された。また土休日の2往復が本系列で運転されるようになった。名阪乙特急充当列車は平日で5往復、土休日で7往復となった。 2009年3月20日ダイヤ変更 京奈特急、阪伊特急の運用を終了し、名阪甲特急で23000系で運用されていた列車が21000系に置き換えられた。平日の名阪乙特急1往復が本系列に置き換わった(大阪難波14:30発、近鉄名古屋11:30発)。土休日は3往復が本系列の運用を終了し、名阪乙特急充当列車は平日6往復、土休日4往復となった。 2010年3月19日ダイヤ変更 休日の近鉄名古屋 - 鳥羽間の本系列充当列車2往復が宇治山田発着に短縮された。ただし、多客期には鳥羽まで延長される。 下り 713列車 近鉄名古屋7:50 → 宇治山田9:13・9:14 → 鳥羽9:28 1213列車 近鉄名古屋12:50 → 宇治山田14:12・14:13 → 鳥羽14:24 上り 912列車 鳥羽9:40 → 宇治山田9:51・9:52 → 近鉄名古屋11:17 1412列車 鳥羽14:40 → 宇治山田14:51・14:52 → 近鉄名古屋16:15 2011年3月28日から同年4月14日まで、21000系8両編成で運用する列車が6両に短縮された。これは東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で車両部品(主電動機のブラシ)を製造するメーカーが被災した影響で入手が困難となったための暫定措置のためであった。 2012年1月21日より、伊勢中川構内の短絡線が1961年供用開始以来のものから新線に切り替えられ、曲線半径が160mから200mに緩和されたが、時刻の変更はない。 2012年3月20日ダイヤ変更 鶴橋と近鉄名古屋間を最後まで無停車で結んでいた日中時間帯の名阪甲特急が平日、土日祝日を問わず全列車、津に停車するように改められた。この変更によって大阪難波と近鉄名古屋間の最速列車の所要時間は1分延長されて2時間5分となったが、日中に運行される名阪甲特急の標準的な所要時間は従来と同じ2時間5 - 7分で維持されている。 2020年3月14日ダイヤ変更 80000系「ひのとり」が名阪甲特急で営業運転を開始。これに伴い21000系使用の名阪乙特急・名伊特急が増加した。 2021年2月13日ダイヤ変更 名阪甲特急の全列車を80000系「ひのとり」に統一。同時に名阪乙特急の全列車が本系列と21020系による運行となった。
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運用の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:31 UTC 版)
「JR貨物ワ100形貨車」の記事における「運用の変遷」の解説
製作後、1993年(平成5年)から東海道本線の東京貨物ターミナル - 西湘貨物間などで走行試験に供され、110 km/h での通常運転など、車両としての基本性能が実証された。 本形式は荷役機械を不要として荷役作業の省力化・リードタイム短縮を企図したが、台車着脱の煩雑さが荷役時間短縮の減殺要因となった。コンテナ輸送にあっては海上コンテナの鉄道輸送が進展し、ISO 規格に準拠したタンクコンテナを主とする車扱貨物の置換え施策もあって、拠点での荷役機械導入が進行したことも本形式の投入意義を低下させた。加えて、景気後退の情勢下にあって実需そのものの発掘が困難であったこと、さらに日本の法体制上、事実上の二重課税が避けられない車種であることから、量産への移行はなされなかった。1996年(平成8年)以降は使用されず、2002年(平成14年)に3両とも車籍を抹消され、その後は川崎貨物駅構内にて留置されている。 本形式の除籍後も DMT 方式の可能性を模索する動きは途絶せず、2008年(平成20年)6月には滋賀県内の滋賀運送が DMT 方式による協同一貫輸送体系の構築を提唱している。これは中小運送会社で構成する全国規模の協同組合を主体とするもので、2010年(平成22年)に予定された米原貨物ターミナル駅開業にあわせ、2009年(平成21年)に実証試験を開始するとしていたが、滋賀運送会長の死去により中断している。
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