東北地方太平洋沖地震
別名:平成23年東北地方太平洋沖地震、2011年東北地方太平洋沖地震、東北地方太平洋沖地震、東北・太平洋沿岸地震、東北太平洋沖地震、東日本大震災、東日本大地震、東日本巨大地震、東北関東大震災
2011年3月11日午後2時46分に発生した、東北地方・三陸沖を震源とする巨大地震。マグニチュード8を超える激震で、震源に近い宮城県北部では震度7を観測した。
本震の震源地は三陸沖約130キロ、深さは約24キロの地点と発表されている。地震の強さを示すマグニチュード(M)は、当初「8.4」発表され、のちに「8.8」、「9.0」と引き上げられた。マグニチュード9.0は国内の観測史上最大であり、過去100年間の世界で4番目に大きな規模となる。
最初の揺れから後も、規模の大きな余震が断続的に発生し、東北全域で家屋の全壊や半壊が起こっている。また、本震の発生直後に太平洋沿岸を直撃した津波が被害を更に大きくしている。宮城県沖では4.2メートルの津波が発生、福島県相馬郡では7メートルを超える津波が観測された。西日本でも太平洋側全域で津波警報が発令されている。長野県や日本海側では震源を異にする地震が発生している。
関連サイト:
東北地方太平洋沖地震への対応 - 首相官邸ホームページ
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震について - 首相官邸 平成23年3月12日 5:30現在 (PDF)
地震速報 - 日本気象協会 天気.jp
内閣府防災情報のページ
東北地方太平洋沖地震に関する菅内閣総理大臣メッセージ - 首相官邸 2011年3月12日
菅総理からの国民の皆様へのメッセージ - 首相官邸 2011年3月13日
とうほくちほうたいへいようおき‐じしん〔トウホクチハウタイヘイヤウおきヂシン〕【東北地方太平洋沖地震】
東北地方太平洋沖地震
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東北地方太平洋沖地震(とうほくちほうたいへいようおきじしん)は、2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分に日本の三陸沖の太平洋を震源として発生した超巨大地震である[1]。気象庁による正式名称は「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」(英: The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake)[16][17]。
- 1 東北地方太平洋沖地震とは
- 2 東北地方太平洋沖地震の概要
東北地方太平洋沖地震
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「仙台 - 山形線」の記事における「東北地方太平洋沖地震」の解説
「東日本大震災による交通への影響」も参照 2011年(平成23年)3月11日当日、東北地方太平洋沖地震の影響により山形自動車道が通行止めになった。当日高速道路内にいた山交バス便は、無線で安全を確認した上で一般道路経由で山形へと戻った。 翌3月12日、新幹線も高速道路も不通のため、仙台で山形への避難する人々の1,000人ほどの行列ができた。そのため、一般道路で運行を再開した。 山形と各地を結ぶ航空路線、都市間高速バスのうち、最も遅い時間まで運行されるのが当路線であり、21時以降に山形に到着した場合山形から先の接続交通がなく、山形以遠へは山形に宿泊する必要があった。また当時、山形市周辺の宿泊施設は停電や燃料不足などで利用可能な施設が限られており、利用可能な所についてもほぼ満室状態となっていた。このため、3月13日から3月20日までの間、山形からの交通手段のなくなる時間帯の便に「山形県庁前」バス停から山形県の職員が乗車し、利用可能な公共交通や一時宿泊施設の案内の配布、車内放送での一時宿泊施設への移動手段の情報提供を行った。 また、仙台空港が使用不可能になったことにより代替ルートとして山形空港の航空便の臨時便が大幅に増え, 仙台から山形空港への需要も高まったことから、山形空港ライナーとの接続待ちも行なった。 3月13日からは17往復を運行。3月15日以降は逆に宮城へ戻る人が増加した。需要の極端に高まった当路線へ車両を集中させたため、当路線は比較的早期から運行本数が震災前の水準かそれ以上運行され、3月28日以降は概ね平常通りの運行に戻った。また、仙台は被害で宿泊施設がなく、山形県内に宿泊していたため震災の復旧工事に携わる人の輸送のための貸し切りバスも運行も行われた。
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東北地方太平洋沖地震
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「ラジオ災害情報交差点」の記事における「東北地方太平洋沖地震」の解説
詳細は「東日本大震災」を参照 2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分頃、本震が発生。宮城県で最大震度7を記録したほか、東日本の太平洋側全域で震度4から6強となり、首都圏の交通は終日麻痺状態となった。 J-WAVEが幹事局となり(当初幹事局のNHKより変更)、震災当日の18時台から翌日8時台まで、毎時15分から約10分間『ラジオライフラインネットワーク』としてライフライン情報を伝えた。ただし参加局のうちNHKラジオ第1については独自に情報を伝え、ほかの局との同時放送は行わなかった。 8時15分のパートが終了した後も各局は関連特番、もしくは番組内容を大幅に変更しての放送が続いた。
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東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)
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「正常性バイアス」の記事における「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)」の解説
津波避難をめぐる課題として「警報が出ているのを知りながら避難しない」人たちがいることが指摘されていた。実際に、地震発生直後のビッグデータによる人々の動線解析で、ある地域では地震直後にはほとんど動きがなく、多くの人々が実際に津波を目撃してから初めて避難行動に移り、結果、避難に遅れが生じたことが解明された。
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東北地方太平洋沖地震
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2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の誘発地震とみられている長野県北部地震では、潮汐に関係するとみられる地震が最大規模となった M 6.7 の地震を含む全体の約50%という非常に高い相関で確認された。 また、本震発生以降に1976年から2011年までの期間に東北地方太平洋沖地震の震源域で発生した Mw 5 以上の地震と潮汐力の関係をあらためて調査したところ、1976年からの約25年間は相関関係がなかった。しかし、2000年頃より次第に相関関係が現れ、その後、本震が発生した2011年3月11日までは明瞭な傾向が出現し、断層にかかる力が最大になる時間帯に地震が発生していた。特に、前震とされる3月9日11時45分に発生した地震の震源と3月11日の本震破壊開始点の間の領域付近には強い相関が現れていたが、3月11日以降は潮汐力との関係は見られなくなった。
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東北地方太平洋沖地震
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「エフエム仙台」の記事における「東北地方太平洋沖地震」の解説
2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災発生時は定禅寺通スタジオから「AIRJAM Friday」を生放送中だったが、地震発生直後に打ち切られ、本社スタジオから震災に関する緊急報道番組に代わった。それ以降、予定の番組を大幅に変更して、24時間態勢で特別編成で宮城県内の震災被害状況・安否確認・ライフライン情報などを放送した(2011年3月22日 21:00まで)。その後、3月23日から25日までは7:30 - 21:00まで特別編成で放送した。その後も特別番組を編成した。金曜夜から日曜深夜までは24時間を4つの時間帯に区切り、仙台在住のフリーアナウンサーやDJ(庄子久子、斉藤光子、大坂ともお、高野真一郎など)や局のアナウンサーが1人で約6時間の生放送を担当した。この土日の放送体制は3月27日(日)まで続いた。 震災のため、2011年4月から始まる予定だった番組のいくつかは5月からのスタートとなったり、放送中の番組でも出演者の交通移動手段が確保できない場合、電話での声を録音し放送するなど影響が出た。 特別編成終了後、2011年4月から5月まで、土日の震災関連の生放送番組を名護ひと美が担当していたため、名護が平日に担当する「Music Groovin'」を休止し、Listenの放送時間を延長して放送していた。6月第2週まで日曜日18:00 - 18:30の「万代 presents くるくるマーケット」は震災情報番組を放送のためは休止した。6月末までの土曜26:00 - 27:00は「長渕剛 RUN FOR TOMORROW 〜明日へ向かって〜」(全国ネット番組)を放送していたためレギュラー番組は休止された。また、6月から復興支援番組「繋ごう明日へ」を放送のため、「COUNTRY BEAT USA」は土曜朝から月曜夜に移動して放送された。 6月末まで定禅寺通スタジオは使用できなかった。このため、「J-SIDE STATION」や「AIRJAM Friday」は本社のAスタジオやBスタジオ(外から見学できるスタジオ)から放送した。2011年7月より「AIRJAM Friday」のみ定禅寺通スタジオからの放送を再開したが、「J-SIDE STATION」は本社スタジオから放送している。また、「Morning Junction Wonder J」と「Music Groovin'」は震災以降、AスタジオやBスタジオからCスタジオに移動して放送したため、外から見学することができなくなった。また、震災発生後しばらくの間、すべての番組を本社2階のCスタジオから放送していた。これはニュースなどを読む報道スタジオがCスタジオの隣にあるため、緊急ニュースなどに対応するための措置。 地震発生直前まで「AIRJAM Friday」に生出演していた佐藤竹善は震災後3日間、マネージャーと共にFM仙台本社が入居しているビルで泊り込みになったことをブログに記している。 2011年4月17日(日)25:00から赤坂泰彦が「音楽のチカラスペシャル」をFM仙台から生放送した。 2011年6月末「小川もこの8時の出会いは蜜の味」の最終回で小川は「(番組が)終わる理由は幾つかあるが、やはり震災の影響が一番です」と話した。 2011年4月17日より2012年3月末まで月曜20:00 - 20:25はジャニーズ事務所のタレントがMCを担当する番組「復興支援プログラム」(東京で録音、FM仙台のみで放送)を放送のため、レギュラー番組は休止していた。MCは嵐、TOKIO、KAT-TUNが週替わりで担当していた。 2011年7月から2013年3月31日まで震災応援番組として日曜21:00 - 21:30は、フレンチ・キスの復興支援番組「フレンチ・キスのKissラジ!〜あなたへのYELL〜」(TOKYO FM制作、その他ふくしまFM、FM岩手でも放送)を放送した。
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東北地方太平洋沖地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 06:39 UTC 版)
2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震では時速115kmで海岸に押し寄せた津波が、日本国内観測史上最高の高さ40.5メートルまで達した。また宮古市の中心部と半島内の地区を結ぶ岩手県道41号重茂半島線は津波の影響で崩落、がれきに埋まるなどしたため千鶏、石浜地区は3月15日まで一時孤立した。また半島内の鵜磯小学校と千鶏小学校がそれぞれ被災のため、重茂小学校で授業を行うこととなった。
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東北地方太平洋沖地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:03 UTC 版)
2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により、南三陸町の志津川支局は津波で流され、石巻総局や気仙沼総局なども浸水の被害を受けた。 本社ではCTSが転倒したために新聞製作が困難になり、災害協定を結んでいた新潟日報社が地震発生を知らせる号外を作り、そのデータを河北新報社に送信して河北新報社の印刷所で印刷した。 翌日12日付けの朝刊は河北新報の記事を回線を使い新潟日報社に送って紙面を作成、同様に河北新報社の印刷所で印刷し、被害の大きかった地域を除き宅配も行われた。この日の朝刊は8ページだが(通常は26ページ 番組表も宮城県のもののみを掲載し、テレビ・ラジオを1頁にまとめる特例版<宮城県外の局はラジオを含め割愛>となった)、写真を多数掲載し、宮城県および東北地方各地の被害を伝えた。これ以降は本社で全ての新聞製作が行われた。 3月13日(日)には、朝刊の他に午後に号外も配られた。12日、13日の新聞は一部の販売店で無料で配られた。震災関係の記事は河北新報の特設ページに掲載されているほか、同社が全国向けに出版した震災記録写真集にも12-14日朝刊の一部が収録されている。 東北地方太平洋沖地震発生(3月11日)から翌日(3月12日)の朝刊を刷り上げるまでの河北新報社内のドキュメントが、『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』という書物に纏められて出版された。 震災一周年となる2012年3月11日と12日には、東北地方太平洋沖地震で亡くなった人物15,854人全員の名前を載せた(宮城県内の人物については11日付に、県外の人物については12日付に掲載)。以後毎年3月11日の朝刊に、1年間に死亡が確認された人物の氏名を掲載している。
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東北地方太平洋沖地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/17 23:21 UTC 版)
「南気仙沼幼児園」の記事における「東北地方太平洋沖地震」の解説
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の津波で施設が流されたため、そのまま廃園することとなった。在籍していた園児の1人が災害で死亡、地震後外出先から戻り園内の見回りをしていた理事長も行方不明となった。同年4月2日に市内の公民館で最後の卒園式が行われ、30人を送り出して歴史に幕を閉じた。
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東北地方太平洋沖地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 07:57 UTC 版)
2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震では、津波により、余景の松原・鳴瀬川・野蒜海水浴場付近は、押し寄せた津波により、河口から約1km上流にある田園地帯まで冠水。松原よりも内陸側にある東名運河を越えて被災した。松原も大きな被害を受け樹木数が少なくなっている。
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