主なできごと
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「ラーヴェンスベルク伯領」の記事における「主なできごと」の解説
ラーヴェンスベルク伯領の基盤は、フェヒタ(ドイツ語版、英語版)およびベルゼンブリュック近郊の裕福な貴族カルヴェラーゲ伯が1100年頃にハレ北西のトイトブルクの森を獲得し、ラーヴェンスベルク城を建設したことによって築かれた。オットー1世は1140年に本拠地をこの城に移し、以後「ラーヴェンスベルク伯」の称号を名乗り、その後継者はこれを引き継いだ。 12世紀の間に旧領地も新領地(ビーレフェルト、ヘルフォルト、ハレ周辺)も拡大し、さらにエムスラント(ドイツ語版、英語版)をも獲得した。これにより、カルヴェラーゲ=ラーヴェンスベルク伯はヴェストファーレンで最も重要な貴族家の一つとなり、ミュンスター司教、オスナブリュック司教、そしてとりわけテックレンブルク伯(ドイツ語版、英語版)と北方の覇権を争った。 1226年、この領邦は分割された。ルートヴィヒ伯がトイトブルクの森周辺を治め、兄のオットー2世がフロートーと北部領地を獲得した。オットーは1244年に男性後継者を遺さずに亡くなり、娘のユッタはフェヒタ周辺の領地を売却し、エムスラントの領地は1252年にミュンスター司教のものとなり、ミュンスター司教の下部教区が創設された。また、フロートーはテックレンブルク伯の所有となった。これによりオストヴェストファーレン地方に限局されたラーヴェンスベルクの勢力は下降した。 1214年に初めて史料に記録されているビーレフェルトは、本伯領の主邑に成長した。ルートヴィヒ伯は、1250年頃までにはシュパレンブルク城(ドイツ語版、英語版)を建設し、その後数百年間領主の優先すべき在所となった。本伯領はこの時代にもゆっくりと再び拡張を遂げていった。フロートーは1270年頃にラーヴェンスベルク伯領に復し、リムベルク城周辺の北方領地は1300年頃、ビュンデも1334年に手中に収めた。 こうした拡張は1346年に終結した。ベルンハルト伯の死亡によりカルヴェラーゲ=ラーヴェンスベルク家の男性家系が断絶したのである。相続人はベルンハルトの姪マルガレーテ(ドイツ語版、英語版)で、彼女はユーリヒ家の者と結婚していた。こうしてゲルハルト1世(ドイツ語版、英語版)が新たなラーヴェンスベルク伯となり、1348年にはベルク伯をも兼ねた。ラーヴェンスベルク伯はその後長きにわたってベルク伯(後にベルク公)およびユーリヒ家と緊密な関係にあった。 1380年にベルク公に昇格したヴィルヘルム1世(ドイツ語版、英語版)は、1389年にラーヴェンスベルク伯領を2人の息子に譲った。アドルフ(ドイツ語版、英語版)はこれを個人的な権力拡大の基盤として用いただけであったが、ヴィルヘルム2世(ドイツ語版、英語版)は実際に伯領を統治し、1409年にエンガーを獲得した。シュパレンブルクに宮廷を構えた伯は彼が最後で、その墓所はビーレフェルトのノイシュテッター・マリエン教会に設けられた。彼の息子ゲルハルト2世伯(ドイツ語版、英語版)は、1437年にユリーリヒ公領およびベルク公領を相続し、ラーヴェンスベルクはより大きな領邦連合内の属国に過ぎなくなった。 1511年および1521年にユーリヒ=ベルク=ラーヴェンスベルクは遺産相続によりクレーヴェ=マルクと連合し、ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公領が成立した。この公領では宗教改革の思想が受け容れられた。ラーヴェンスベルクでも1525年頃から流布し、住民たちに徐々に浸透し、1600年までには完全にルター派に改宗した。1609年に公爵家が断絶するとユーリヒ=クレーヴェ継承戦争(ドイツ語版、英語版)が起こった。1614年の相続和議(クサンテン条約)によってラーヴェンスベルクはクレーヴェやマルクトともにブランデンブルク(=プロイセン)に属すこととなった。 三十年戦争の間、参戦したほぼすべての領邦の軍勢が戦略的に重要なこの地を通り、この地域の城砦は何度も包囲された。1648年の平和条約はブランデンブルクに有利な形で領土の拡大をもたらし、ラーヴェンスベルク伯領は隣のミンデン侯領と統合されることとなった。1652年にラーヴェンスベルクは議論の余地がある主張に基づいて帝国都市ヘルフォルトを強引に編入した。ミンデンとラーヴェンスベルクは1719年以降、ミンデンを主邑とする行政統合体ミンデン=ラーヴェンスベルクを形成することとなった。 ナポレオン1世によるドイツの新しい枠組みの中でラーヴェンスベルク伯領は1807年にヴェストファーレン王国(ヴェーザー県ビーレフェルト小郡)に編入され、1811年にその北部と西部が隣接するフランス(大部分がオベーラー・エムス県ミンデン郡)領となり、残りの大部分はヴェストファーレン王国のフルダ県でビーレフェルト・パーダーボルン郡を形成した。プロイセンは1813年に民族解放のための戦争でこの地域を奪回し、象徴的に伯領を復元したが、ヴェーザー川とライン川の間の市民行政の枠組みの中では行政技術上何の影響力も持たなかった。 ラーヴェンスベルク伯領は1816年に最終的に解体され、その領域は新たに創設されたビーレフェルト郡、ハレ (ヴェストファーレン) 郡、ヘルフォルト郡、ビュンデ郡(ミンデンの一部を含む)、およびラーデン郡の一部に分割された。これらの郡はヴェストファーレン州ミンデン県に属した。1969年/73年以降、ラーヴェンスベルク地域は上述の通り(「領邦の現在の行政区画」の項参照)に分割されている。 カトリックのラーヴェンスベルク学生組合は、1919年にこの領邦にちなんで名付けられた。
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「1969年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
エディ・メルクスがツール・ド・フランスに初参加し、同レース史上初(かつ、2010年現在唯一)となる、総合優勝、ポイント賞、山岳賞の3部門完全制覇を達成。 当年のジロ・デ・イタリアにおいて、第16ステージ終了後までマリア・ローザを堅持していたエディ・メルクスに、同ステージゴール地点となるサヴォーナで、フェンカムフェミン(Fencamfamine)の陽性反応が出たことから、翌第17ステージを待たずに、メルクスは帰郷を余儀なくされた。 当年のツール・ド・フランスより、トレードチーム別対抗戦形式が復活し、今日に至る。 ジャック・アンクティルが引退。 第26回全国都道府県選抜競輪が8月29日より、甲子園競輪場で開催される予定だったが、周辺住民の同大会開催反対運動が激化したため、開催10日前になって中止となる。加えて同大会は、翌1970年度の開催地不決定を受け廃止された。また甲子園競輪場はその後、記念競輪(現在のGIII)の開催もできなくなった(記念開催は1985年になって漸く再開された)。 当年1月、美濃部亮吉・東京都知事の都営ギャンブル廃止表明を受け、後楽園競輪場での開催が半ば固定化されていた日本選手権競輪の同場開催が1968年をもって最後となり、当年度の同大会開催がなかなか決まらない事態となったが、1970年2月に一宮競輪場で行われることになったため、当年の同大会開催は見送られることになった。 高原永伍が全日本競輪王戦を制し、史上初となる特別競輪通算10回目の優勝を達成。
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「1973年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
エディ・メルクス、4連覇中だったツール・ド・フランスに不参加。初参加となったブエルタ・ア・エスパーニャとジロ・デ・イタリアに出場し、いずれも総合優勝。同一年度におけるブエルタ、ジロの総合優勝例は史上初。加えてメルクスは、ジロ・デ・イタリアにおいて、全区間総合首位の「完全優勝」を達成。 エディ・メルクス、レオン・ウア以来、79年ぶりとなるリエージュ〜バストーニュ〜リエージュ3連覇達成。 エリック・デ・フラミンク、シクロクロス世界選手権・プロ部門6連覇。 タマラ・ガルコウチナ、世界選手権・女子個人追い抜き4連覇。 高松宮賜杯競輪が高松宮杯競輪に名称変更。さらに当年の同大会より、出場選手を東西に分けて予選を行う、「東西対抗戦方式」を採用。 競輪で、古田泰久(4月8日の高知競輪場)、吉田実(8月24日の甲子園競輪場)がそれぞれ通算1000勝を達成。
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「1970年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
秩父宮妃賜杯競輪開催期間中に、選手宿舎で「チンチロリン大会」が行われていたことが後日マスコミ各社で報道されたことに対し、当大会の冠を頂く秩父宮妃勢津子が激怒し、開催返上を申し出たため、秩父宮妃賜杯競輪は当年の開催をもって廃止されることになった。 全国都道府県選抜競輪が当年度の開催地不決定を受け廃止となる。また、オールスター競輪についても、当年度の開催地不決定につき開催見送り。 美濃部亮吉・東京都知事の都営ギャンブル廃止表明により、1968年11月を最後に後楽園競輪場での日本選手権競輪開催が返上されたことを受け、1969年度の同大会は2月に一宮競輪場で、当年度の同大会は11月に岸和田競輪場で行われた。なお、同大会の11月開催は当年が最後となった。 当年のツール・ド・フランス第14ステージ、モン・ヴァントゥのゴールを制したエディ・メルクスが、レース終了後呼吸困難に陥るほどのダメージを受けたが、その後もマイヨ・ジョーヌを守って総合2連覇達成。またメルクスは当年のジロ・デ・イタリアでも総合優勝を果たしており、1964年のジャック・アンクティル以来となる、ジロ、ツールの同一年度総合優勝を達成。 エリック・デ・フラミンク、シクロクロス世界選手権・プロ部門3連覇。 特別競輪4回制覇の実績を誇る吉川多喜夫が、当年7月28日のレース以降、謎の長期休養期間に入り、その間一度もレースをすることなく、当年12月18日付で選手登録削除され引退。
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「1985年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
中野浩一、世界選手権・プロスプリント(当年より、スクラッチ種目はスプリント種目に名称変更)決勝で、松枝義幸を2-0で破り、同大会同種目9連覇を達成。 10月頃、当年の特別競輪(2001年よりGI)優勝者、選考委員が特別に認めた選手(世界選手権優勝者等)、競走得点上位者を一同に集結して一発勝負によるグランドチャンピオンレースであるKEIRINグランプリを、12月30日、立川競輪場で開催することが競輪関係団体内部でまとまり、競輪祭終了後、正式に出場選手が発表された。初代優勝者は中野浩一で、優勝賞金1000万円を獲得。 新設の特別競輪、全日本選抜競輪が8月、前橋競輪場で行われ、佐々木昭彦が初代優勝者の座に就く。 滝澤正光、世界選手権・プロケイリンで3位に入る。 ベルナール・イノー、1982年以来自身2度目となる、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの同一年度総合優勝を達成。ツール・ド・フランスでは、ジャック・アンクティル、エディ・メルクスに次いで史上3人目となる5度目の総合優勝を果たした。 ウース・フローラー、世界選手権・プロポイントレースで5連覇。また1983年以来2度目となるケイリンとのダブル制覇を達成。 ショーン・ケリー、パリ〜ニース総合4連覇達成。 高橋健二がオールスター競輪で優勝し、1975年の日本選手権競輪以来10年6ヶ月ぶりとなる特別競輪制覇を果たした(2005年に鈴木誠が13年7ヶ月ぶりの特別競輪制覇を果たすまで、同制覇最長期間記録となる)。 中井光雄、競輪選手史上5人目となる通算1000勝を達成(10月29日、甲子園競輪場) 甲子園競輪場で、1968年以来17年ぶりとなる記念競輪が12月に開催された。 4月以降、競輪のギャンブルホリデーが撤廃され、原則非開催日とされてきた水曜日の開催が可能になった。 日本放送協会(NHK)が、日本のテレビ局として初めて、当年のツール・ド・フランスの模様を放送。
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「1977年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
ベネズエラ、サン・クリストバルで行われた世界選手権・プロスクラッチにおいて、中野浩一が準決勝で、同大会同種目2連覇中のジョン=ミカエル・ニコルソンを2-1、2日間に亘る戦いとなった決勝では、菅田順和を2-0でそれぞれ下し、日本人選手として初めて同大会優勝者となる(8月31日)。 ロジェ・デ・フラミンクがロンド・ファン・フラーンデレンで優勝し、リック・ファン・ローイ、エディ・メルクスに次いで史上3人目となる、モニュメントと称される5大クラシックレース完全制覇を達成。 またデ・フラミンクは、ティレーノ〜アドリアティコ総合6連覇、パリ〜ルーベ史上最多となる4回目の優勝も果たした。 フレディ・マルテンス、ブエルタ・ア・エスパーニャで全区間総合首位を堅持し総合優勝。 ダニエル・モレロン引退(1980年にプロ選手として現役復帰)。
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「1971年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
特別競輪開催地問題が難航を極め、日本選手権競輪は1971年度末にあたる1972年3月の開催にずれこみ、オールスター競輪の開催は2年連続で見送りとなったことから、当年の特別競輪開催は、開催場が固定されている、高松宮賜杯競輪と競輪祭の2大会のみとなった。 ツール・ド・フランス第14ステージ、視界が悪い雨中でのレースとなったアルプス山脈にあるマンテ峠付近において、マイヨ・ジョーヌのルイス・オカーニャが、前方を走行するエディ・メルクスのスリップに乗り上げ、崖下から転落。一命こそ取り留めたものの、瀕死の重傷を負ってリタイア。その後、マイヨ・ジョーヌはメルクスに移動し、メルクスは史上3人目となるツール・ド・フランス総合3連覇を達成した。 前年の世界選手権・プロロードレース優勝者、ジャン=ピエール・モンセレが、グランプリ・ド・レティエのレース中、事故により死亡(3月15日)。 エディ・メルクスがジロ・ディ・ロンバルディアで優勝し、リック・ファン・ローイに次いで史上2人目となる、モニュメントと称される5大クラシックレース完全制覇を達成。 エリック・デ・フラミンク、シクロクロス世界選手権・プロ部門4連覇。 ダニエル・モレロン、世界選手権・アマスプリント3連覇。
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「1989年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
シャンゼリゼ通りが最終ゴール地点となってから初めて、最終ステージに個人タイムトライアルが設けられた当年のツール・ド・フランスにおいて、前ステージまで、総合首位のローラン・フィニョンに50秒差の2位につけていたグレッグ・レモンが、同ステージにおいてフィニョンに58秒差をつけ、総合時間差ではわずか8秒差ながらも、同レース史上3例目となる、最終ステージにおける逆転総合優勝を果たした。なお、総合1、2位のタイム差8秒は、2010年現在、同レース史上最小タイム差となっている。 また当年のツール・ド・フランスでは、前年の総合優勝者・ペドロ・デルガドが、プロローグの個人タイムトライアルで遅刻するハプニングがあった。 日本競輪選手会の賞金総額大幅引き上げ闘争を巡って、同会が当年12月30日開催予定のKEIRINグランプリ'89の中止も辞さない構えを見せ、開催決断のタイムリミットとなる、当年12月25日時点でも、選手会側と全国競輪施行者協議会(全輪協)などの競輪運営団体との話し合いがまとまらなかったことから、当年のKEIRINグランプリは中止となってしまった。 トラックレース世界選手権において、プロスプリントで、神山雄一郎が2位、松井英幸が3位に入り、同大会同種目として15年連続となるメダル獲得を果たす。またプロケイリンでは佐古雅俊が3位に入った。 地方競輪場の活性化を図るべく、従前の記念競輪をグレードアップさせた「特別記念競輪」扱いのふるさとダービーが新設され、12月、広島競輪場で第1回の開催が行われた。 屋外の前橋競輪場としては最後の特別競輪(現在のGI)となる全日本選抜競輪が行われ、中野浩一が、高原永伍と並んでいた特別競輪最多優勝回数記録を更新する、通算11回目の優勝を果たした。 通算1016勝を挙げた名選手、中井光雄が引退。 スーパープレスティージュに代わるロードレースの年間シリーズ戦として、UCI・ロードワールドカップが新設される。また、従前のUCI・ロードワールドランキングスにおいて、リアルタイムランキング制度が導入される。 ルイス・エレラが、フェデリコ・バーモンテス以来史上2人目となる、グランツールにおける山岳賞完全制覇を達成。
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「1991年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
ツール・ド・フランス第10ステージ終了後、PDMチームにおいて食中毒事件が発生していたことが判明し、メンバー全員がリタイアしたが、後にこの事件の発端が、ドーピングに絡んでのものではなかったかという憶測が流れる。 ツール・ド・フランス最終第22ステージ・シャンゼリゼにおけるゴール地点手前約数百メートル付近に設置されてあった広告塔のモニュメントに、スプリント勝負に入り加速途中だったジャモリディネ・アブドヤパロフが激突して転倒。加えて、数十名の選手が乗り上げて転倒するという大波乱レースとなった。 トラックレースが、1993年よりプロアマオープン化となることが決まり、世界選手権自転車競技大会におけるトラックレースのアマチュア種目は、オリンピックで実施されないタンデムスプリントとドミフォンを除き、当年限りで実施終了となった。 トラックレース世界選手権における、日本勢の連続メダル獲得記録が途絶える。 トラックレース世界選手権プロスプリントで1位のキャリー・ホール、同3位のステファン・ペイトがドーピング違反により失格となり、いずれも順位剥奪。また順位繰上げも行われなかったことから、同大会同種目史上初の優勝者空位となった。 KEIRINグランプリを制したことにより、鈴木誠が土壇場で滝澤正光を逆転し、賞金王の座に就いた。 ふるさとダービー福井で、中野浩一と井上茂徳が、吉岡稔真のマークを巡って大競りとなったことが後に物議を醸した。
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「1990年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
世界選手権自転車競技大会史上初めてのアジアでの開催が、日本の群馬県と栃木県で行われ、トラックレースはグリーンドーム前橋で、ロードレースは宇都宮市森林公園周回コースがそれぞれ会場となった。 世界選手権・プロスプリントで日本勢がメダル獲得を逸し、同種目における連続メダル獲得記録は途絶えた。しかし、アマタンデムスプリントにおいて稲村成浩(当時 前橋工業高等学校)、齋藤登志信(当時 山形電波工業高等学校)のコンビが2位に入り、トラックレース同大会における日本勢の連続メダル獲得記録は16年連続となった。 ジャンニ・ブーニョがジロ・デ・イタリアで全区間総合首位の「完全優勝」を達成。 滝澤正光が全日本競輪王戦を制し、井上茂徳に次ぐ史上2人目となる特別競輪(現在のGI)グランドスラムを達成。 マウンテンバイクの世界選手権が開始された。 2年ぶりに開催されたKEIRINグランプリで、スタートのやり直しが3回も繰り返される事態が発生。 広島の開催から、ふるさとダービーは4日間開催となった。
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「1987年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
ステファン・ロッシュ、1974年のエディ・メルクス以来史上2人目となる、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、世界選手権の同一年度制覇、いわゆる「トリプルクラウン」の大偉業を達成。 オーストリア、ウイーンで行われた世界選手権・プロスプリント決勝で、俵信之が松井英幸を2-0で下し初優勝。同大会同種目の日本勢11連覇となった。一方、プロケイリンでは本田晴美が同種目における日本人選手初優勝を果たし、また井上茂徳が3位に入った。これにより、同大会のプロスプリント、プロケイリンにおける、日本人選手の同一年度優勝が初めて達成された。 滝澤正光が、高倉登、中野浩一に次ぐ史上3人目となる特別競輪(現 GI)3連覇を達成。また、高松宮杯競輪でも、中井光雄以来史上2人目となる3連覇を達成した。加えて同年のKEIRINグランプリも制覇し、年間勝率も8割を記録。 中野浩一、競輪祭・全日本競輪王戦史上最多の5度目の優勝。 ウース・フローラー、世界選手権・プロポイントレース7連覇を達成。 ショーン・ケリー、パリ〜ニース総合6連覇を達成。 ジャニー・ロンゴ、世界選手権・女子個人ロードレース3連覇を達成。 モレノ・アルジェンティン、史上3人目となるリエージュ〜バストーニュ〜リエージュ3連覇を達成。 市川雅敏、ベルギー籍のヒタチ・マーク・ロッシンと契約し、日本人ロードレース選手として初めて、トレードチーム契約プロ選手となる。 フランス国内における酒類販売の広告規制が法令化されたことにより、ペルノー・フィズがスポンサーとなって1959年より実施されてきたロードレースの年間シリーズ戦、スーパープレスティージュが当年限りで廃止を余儀なくされる。 グレッグ・レモンが、カリフォルニアで狩猟に興じていたところ、自身のいとこの散弾銃の弾が胸部に命中し重傷を負う(4月20日)。 ツール・ド・北海道が開始される。初代総合優勝者は高橋松吉。 当年のアムステルゴールドレースを40歳の年齢で制したヨープ・ズートメルクが引退。 丹村喜一、競輪選手史上6人目となる通算1000勝達成(4月7日、別府競輪場)。 中野浩一、全日本プロ選手権自転車競技大会(熊本競輪場)のケイリンに出場したものの2着以内に入ることができなかったため、1976年以降継続していた世界選手権への連続出場が途絶える。
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「1986年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
中野浩一、5月に久留米競輪場で練習中に転倒。肋骨骨折など全治3ヶ月と診断され、8月末より開催されるトラックレース世界選手権(アメリカ、コロラド・スプリングス)の出場が危ぶまれたが、リハビリの励行などにより急ピッチで回復させて出場にこぎつけ、10連覇をかけたプロスプリント決勝で、松井英幸を2-0で破り成就。さらに同種目では、俵信之が3位に入り、日本勢が表彰台を独占した。また大会終了後、中野は記者会見の席上で、プロスプリントの参加を当年限りで区切りとすると言明。 中曽根康弘内閣総理大臣は、中野浩一のこれまでの功績を讃え、アジア競技大会ハンマー投5連覇を果たした室伏重信とともに、内閣総理大臣顕彰を授与。 グレッグ・レモン、ツール・ド・フランス史上初めて、アメリカ国籍選手として総合優勝達成。 ベルナール・イノー引退。 坂本勉、5月10日に青森競輪場で初出走初勝利を挙げると、その後35連勝を達成。 ショーン・ケリー、パリ〜ニース総合5連覇達成。 ウース・フローラー、世界選手権・プロポイントレース6連覇達成。
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「1984年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
中野浩一、スペイン・バルセロナで行われた世界選手権・プロスクラッチ決勝で、オクタヴィオ・ダザンを2-0で下し、同大会同種目8連覇を達成。これにより、ジェフ・シェーレン、アントニオ・マスペスと並んでいた同大会同種目の最多優勝記録を更新したため、後にこの記録がギネスブックに登録されることになった。 当時日本大学所属の坂本勉が、ロサンゼルスオリンピック・男子スクラッチで3位に入り、オリンピックの自転車競技日本代表選手として初めて夏季オリンピックで銅メダルを獲得。 ロサンゼルスオリンピックより、オリンピック自転車競技では、女子として初めての種目となる個人ロードレースが行われ、コニー・カーペンターが同種目初代金メダリストとなった。また、男子ポイントレースも新種目として加わった。 中野浩一、昭和天皇主催の秋の園遊会に、公営競技関係者として初めて招待される。また、日本自転車振興会は、中野の内外における功績を讃え、現役競輪選手としては初となる、日本競輪学校名誉教官の称号を授与。なお同職授与者は、松本勝明に次いで史上2例目。 ベルナール・イノーが長年に亘って在籍していたルノーを離れ、グレッグ・レモンらと共に新チーム、ラ・ヴィ・クレールを結成。 ウース・フローラー、世界選手権・プロポイントレースで4連覇を達成。 ローラン・リボトン、シクロクロス世界選手権・プロ部門3連覇達成。 ショーン・ケリー、パリ〜ニース総合3連覇達成。 国際自転車競技連合(UCI)のロードレース新ランキング制度、UCI・ロードワールドランキングスが開始される(2004年まで) 競輪祭初日の開催より、競輪のユニフォームが20年ぶりに刷新されることになった。
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「1972年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
エディ・メルクス、自身2度目となる、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの同一年度制覇を達成。またツール・ド・フランスでは、ジャック・アンクティル以来となる総合4連覇を達成。 エディ・メルクス、メキシコシティにおいて、49.431kmのアワーレコードを樹立(10月25日) 1972年ミュンヘンオリンピックスクラッチ(現 男子スプリント)で、ダニエル・モレロンが同大会同種目初の連覇達成。 松本勝明が、当年に通算1200勝を達成した功績を讃えられ、競輪選手としては史上初となる日本プロスポーツ大賞を受賞。 後楽園競輪場が休止される(10月29日)。 ミュンヘンオリンピックより、オリンピック開催年に、同大会と重複する種目がある場合については、世界選手権自転車競技大会では実施されないことになった(1992年バルセロナオリンピックまで継続)。 エリック・デ・フラミンク、シクロクロス世界選手権・プロ部門5連覇。 タマラ・ガルコウチナ、世界選手権・女子個人追い抜き3連覇。 石田雄彦、松本勝明に次ぐ、競輪選手史上2人目となる通算1000勝達成(5月7日の四日市競輪場)。 当年より、日本選手権競輪が原則3月開催となる。 オールスター競輪が3年ぶりに開催される。
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主なできごと
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「1976年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
エディ・メルクス、ミラノ〜サンレモで7度目の優勝を果たし、コスタンテ・ジラルデンゴと並んでいた同レースの最多優勝記録を更新。 イタリア、レッチェで行われた世界選手権・プロスクラッチ3位決定戦で、菅田順和が中野浩一を破った。 エディ・メルクス、ジャンニ・モッタ、マリーノ・バッソ、ヘルマン・ファンスプリンヘルらを輩出してきたイタリアの名門ロードレースチーム、モルテニが解散。 オールスター競輪決勝戦において、兄の藤巻昇が優勝、弟の藤巻清志が2着に入り、特別競輪決勝戦史上初の兄弟ワンツーフィニッシュとなった。 ロジェ・デ・フラミンク、ティレーノ〜アドリアティコ総合5連覇。 ラルプ・デュエズが24年ぶりにツール・ド・フランスのコースに組み入れられる。
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主なできごと
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「1988年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
スピードスケートでの活動が主体の橋本聖子(女子スプリントに出場)、関ナツエ(女子個人ロードレースに出場)が、ソウルオリンピック自転車競技日本代表に選出される。2人は、日本人選手初の冬夏五輪大会出場経験者となった。 ベルギー、ヘントで行われた世界選手権・プロスプリント準決勝で、前年王者の俵信之がステファン・ペイトに、井領祐文がクラウディオ・ゴリネッリにそれぞれ敗れ、同大会同種目における日本勢の連覇記録が途絶える。なお、3位決定戦で俵が井領を破り、同大会同種目における日本勢のメダル獲得記録は14年連続となった。 井上茂徳、高松宮杯競輪で優勝し、競輪史上初となるグランドスラマーとなった。 競輪誕生40周年を記念する特別レースとして10月18日、平塚競輪場でルビーカップと銘打ち、いずれも一発勝負で優勝を決する、各選手登録地区競走得点第1位選手を中心に選抜されたチャンピオン杯(優勝は伊藤豊明)と、40歳以上のA級選手を対象としたシニア杯(優勝は荒木実)の二本立てのレースが行われる。なお、チャンピオン杯は翌年以降も、共同通信社杯ルビーカップレースとして行われることになった。 ショーン・ケリー、パリ〜ニース総合7連覇を達成。 ツール・ド・フランスで総合優勝目前となったペドロ・デルガドに、国際オリンピック委員会(IOC)では既に禁止薬物として指定されているプロペニシドの陽性反応が、同レース第17ステージ後のドーピング検査により明らかとなったが、国際自転車競技連合(UCI)の規定では当時指定していなかったことから、不問に付される形となった。 滝澤正光、井上茂徳、中野浩一の3名が年間獲得賞金額1億円を突破。3人の1億円突破は競輪史上初。 競輪祭・全日本競輪王戦決勝戦は、雹が降り、雷鳴が轟く中で行われた。
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主なできごと
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1890年8月8日、ボストン初の黒人共和党議員の1人であったジュリアス・シーザー・シャペルは黒人に投票権を与える連邦選挙法案を支持するスピーチ「自由(解放)のゆりかごで」を行なった。1883年から1886年、シャペルは議員を務めていた。このできごとは全米で報じられ、8月9日、『ニューヨーク・エイジ』紙一面に「投票権を熱心に支持する自由のゆりかごと呼ばれるファニエル・ホールは、自由と公平を主張するボストン市民で埋め尽くされた」と記された。 1979年11月7日、エドワード・ケネディは大統領選出馬のスピーチを行なった。2004年11月3日、当時上院議員であったジョン・ケリーがここで大統領選挙の敗北演説を行った。 2006年4月11日、ミット・ロムニー州知事は楽隊を伴い300名の招待客を前にマサチューセッツ州の歴史的医療保険法案に署名を行なった。 2013年10月30日、バラク・オバマ大統領はロムニーが署名したのと同じ場所で医療保険制度改革の重要性を訴えた。 2014年10月30日に亡くなったトーマス・メニーノ市長は、11月2日、棺が安置された。 1746年から4階に由緒ある砲兵中隊マサチューセッツ州隊の本部がある。 『ザ・オライリー・ファクター』などの政治番組の収録のほか、現在でも政治的ディベートの会場として使用されている。
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主なできごと
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「1992年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
6月4日に行われた高松宮杯競輪決勝戦で、中野浩一が、同大会史上初の5度目の優勝を果たした滝澤正光に対し、2センター付近から捲り追い込みをかけてゴール直前で肉薄するも2着惜敗。そして、翌5日の朝7時のNHKニュース並びに5日付スポーツ報知一面にて引退が報じられる。これを受け中野は、同月8日に記者会見の場を設け、その場で、正式に現役引退を表明した。 ミゲル・インドゥラインが、1987年のステファン・ロッシュ以来となる、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの同一年度総合優勝を達成。 ジャンニ・ブーニョが、世界選手権・プロロードレース史上4人目となる2連覇を達成。 ロードレース(1996年度シーズンよりオープン化)を除き、当年度シーズンを最後に、自転車競技では、アマチュア種目のカテゴリが消滅。これに伴い、1992年バルセロナオリンピックがオリンピックとしては最後のアマチュア限定大会となり、これを受け、男子ロードチームタイムトライアルが同大会を最後にオリンピックの種目から姿を消すことになった。 橋本聖子が日本人選手初となる、2大会連続の冬夏オリンピック出場を果たす。 吉岡稔真が、全日本新人王戦の出場資格となる、デビュー3年以内のS級在籍選手でありながら、当年の日本選手権競輪で優勝したため、新人王戦における出場資格を失い、代わって全日本競輪王戦の出場資格を得たが、優勝を飾る。 オールスター競輪決勝戦において、1着ゴールの井上茂徳が内線突破により失格。2着入線の松本整が繰り上がりで優勝。 1990年の世界選手権自転車競技大会日本開催を記念して、競輪では、同年大会の名誉総裁となった寬仁親王がデザインした牌が下賜されて寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメントが、ロードレースでは、ジャパンカップサイクルロードレースがそれぞれ開始される。
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主なできごと
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オルタナティブ・ロック、ブルーグラス、ブルース、カントリー・ミュージック、クラシック音楽、フォークソング、ゴスペル、ジャズ、ポップ・ミュージック、ロックンロールのコンサートの他、ミュージカル公演、スタンダップ・コメディでも使用される。 1969年6月7日から1971年3月31日、ABCのバラエティ番組『The Johnny Cash Show 』が収録された。司会のジョニー・キャッシュの他、カール・パーキンス、テネシー・スリー、スタトラー・ブラザーズ、カーター・ファミリーが出演した。また、ジャズのアイコンであるルイ・アームストロングが公の場に最後に登場したものの1つとなった。 1999年、ビル・ゲイザーがスタトラー・ブラザーズ、オーク・リッジ・ボーイズ、ガイ・ペンロッド、サンディ・パティなど様々なアーティストと共にカセドラル・カルテットのラスト・ビデオおよびアルバムを収録した。 2003年1月30日、パティ・グリフィンがライヴ・アルバム『A Kiss in Time 』を収録した。 2005年、ニール・ヤングがジョナサン・デミ監督のコンサート映画『Neil Young: Heart of Gold 』を収録した。 2006年4月、ジョシュ・ターナーがライヴ・アルバムを収録した。 2006年5月、イギリスのバンドイレイジャーがライヴ・アルバム『On The Road To Nashville 』を収録した。 2009年、ジョニー・ラングが『Live at the Ryman 』を収録した。『ビルボード』誌ブルース・チャートで初登場第2位を獲得した。 2012年7月7日、リンゴ・スターと彼のオール・スター・バンドが72歳誕生日コンサート『Ringo at the Ryman 』を収録した。 コールドプレイはライマンで演奏した際、限定版サイン入りポスターを発売した。 ライマンで『オープリー』が放送されていた際、ドリー・パートン、タミー・ワイネット、ロレッタ・リン、ハンク・ウィリアムズ、パッツィー・クラインなど著名なカントリー歌手がここでオープリー・デビューを飾った。なおハンク・ウィリアムズは6回アンコールを受けた。
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主なできごと
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「1975年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
阿部良二、世界選手権・プロスクラッチ(ベルギー、リエージュ)で3位に入る。競輪選手として初めて同大会において銅メダルを獲得。 エディ・メルクス、ツール・ド・フランス第14ステージにおいて、沿道にいた、とある観客からボディブローを受ける。 ロジェ・デ・フラミンク、ティレーノ〜アドリアティコ総合4連覇。 ツール・ド・フランスの最終ステージがシャンゼリゼ通りに設けられる。 ジュニア世界選手権自転車競技大会が開始される。 高橋健二、5月に行われた高松競輪開設記念決勝で落車し、全身打撲で一時重体となる。 中野浩一、デビュー戦1着(5月3日、久留米競輪場)。
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主なできごと
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1902年、マニトバ州議会(英語版)に議員ジョセフ・バーニエー(仏: Joseph Bernier)は条例案を提出し、「ギリシャ・ルーシ人がアングリカン・コミュニオンの庇護のもとに所有する不動産は、ローマ教会の所轄に帰するべきである」と示唆した。ランジェヴァン大司教は「ルーシ人は不動産を教会に引き渡すがよい、プロテスタントの真似をせず……司教にも司祭にも頼るべからず、平信徒あるいはその委員会に託し、カトリックとして自己を証明せよ」と宣言した。平原のウクライナ人はそのロシア正教会の宣教師にとって、カナダに存在するまとまった集団として魅力があった。その当時、アメリカで宣教するために同教会が費やした予算は年間10万ドルにのぼっていた。あるいはまた、別の宗派の長老派教会もウクライナ系カナダ人の若者層に関心を寄せ、マニトバ・カレッジ(現・ウィニペグ大学)に進学するようにと奨学金を示しており、同学は特設教職コースを開いてウクライナ系の新入生を受け入れた(後に独立系ギリシャ正教宣教師養成コースを追加)。ドイツ語の堪能だった同学長のキング博士は、ボドラグとネグリッチに入学面接をドイツ語で受けさせ、ゲニックは2人の成績証明書をポーランド語から英語に訳した。2人は北米初のウクライナ人大学生として入学をもちめられ、当時マニトバ大学傘下にあったマニトバ・カレッジに進学した。 ゲニック、ボドラグとネグリッチの3名は、急いでコミュニティーをまとめようとした。セラフィムを招き寄せ、1903年4月にウィニペグに降り立ったセラフィムは、ヨーロッパのいかなる教会からも独立であって、他のいかなる宗教グループが平原のウクライナ新移住者の魂をめぐって張り合うにつれ、それらのいずれにも忠誠を示さない教会の設立を目指す。三人組の意向を聞き入れ、ロシア正教会に対して正ロシア教会を立ち上げると自らその長の座に着き、ウクライナ人の心を掴むため、〈セラフィム教会〉と呼ばせた。儀式典礼は教会員がなれ親しんだ東方正教会式を提供し、教会に先唱者と助祭を雇った。「(前略)マニトバ通りとプリチャード通りを結ぶマグレゴー街東側に小さな木造建築があり、旧称を聖霊教会と読んだかもしれないが、1903年12月13日、正式にセラフィムの祝福を受けて礼拝の場として」門戸を開いた。翌1904年11月には「キング街とステラ通りの交差点に悪名高い〈ブリキ缶大聖堂〉を金属の再生材や木片で建て始めた。(後略)」。セラフィムはカリスマを発揮して「(前略)50名あまりの司祭と数多くの助祭(その多くは文盲)を任じて各地の〈ウクライナ人〉入植地(英語)の隅々まで派遣して司祭の義務を果たさせると、自らは独立した正統派と教会の財産の受託者の所有権を説く。独立した正説と理事会による教会地所の所有を説いた。2年も経つと、この教会は信者が6万人近くいると公表した(後略)。 「アルコールに関するさまざまな不注意と問題を起こしたため、とうとうウィニペグへ呼び寄せたインテリ層の信頼を失った。まるで手のひらを返すようにセラフィムの排斥に動かれ、かろうじて信者の数を減らさずに済んだ。そこでセラフィムはロシアの首都サンクトペテルブルグに渡ると名前が売れるように工作し、発展し続けるセラフィム教会に寄付金を募ろうとして、Russian Holy Synodと交渉した。司教の不在中、神学生のボドラクと同ネグリッチ、さらにセラフィム協会の僧侶たちは長老派教会の支援を取り付け、ただし交換条件として、長老派の形式に移行するよう求められた。 「1904年の晩秋、セラフィムはロシアから帰還したが、いっさいの助成金(posobiye)も持ち帰らなかった。帰還後、裏切られたと気づいたセラフィムは、背信に加担した司祭を全員、破門した。そして地元新聞にその人々の写真を掲載させ、犯罪者の写真のように、胸に氏名を入れさせている。自分自身も配下の司祭たちも全員、ロシア聖教会会議に破門されたと申し渡された時、セラフィムの復讐はようやく終わった。1908年にウィニペグを去ると、二度と戻ることはなかった。
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「1978年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
中野浩一、西ドイツ・ミュンヘンで行われた世界選手権・プロスクラッチ決勝で、ディーター・ベルクマンを2-1で下し同大会同種目2連覇。また、菅野良信が3位に入った。 世界選手権におけるケイリンの正式種目実現を図るべく、世界選手権開催地のミュンヘンで、競輪選手によるデモンストレーションレースが行われる(1980年に正式種目化される)。 ベルナール・イノー、1963年のジャック・アンクティル以来、史上2例目となる、ブエルタ・ア・エスパーニャとツール・ド・フランスの同一年度総合優勝を達成。 当年のツール・ド・フランス第16ステージのラルプ・デュエズゴールで1位ゴールし、マイヨ・ジョーヌを奪取したミシェル・ポランティエールがレース後、禁止薬物使用発覚を隠蔽するため、プラスチック管を使って、尿をコンドームにしまいこんで隠していたことが発覚したため、失格となる(7月16日、スキン事件とも言われる)。 エディ・メルクス引退。 アルベルト・ツヴァイフェル、シクロクロス世界選手権・プロ部門3連覇達成。 競輪祭における、前節・全日本新人王戦、後節・全日本競輪王戦という開催方式は当年が最後。
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「1982年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
イギリス、レスターで開催された世界選手権・プロスクラッチ決勝は大激戦となり、1本目は中野浩一、ゴードン・シングルトン共にゴール直前で転倒したためノーカウント。再戦1本目はシングルトンが取って迎えた2本目において、シングルトンがゴール直前転倒し、これで1-1のタイとなったが、この際、シングルトンが右ひじを骨折し、以降のレース続行が不可能となったため、シングルトンの3本目棄権という形をもって、中野の同大会同種目6連覇が決まった。 ベルナール・イノーが1974年のエディ・メルクス以来となる、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの同一年度制覇を達成。また、イノーは史上3人目となるツール・ド・フランス4度目の総合優勝を果たした。 ブエルタ・ア・エスパーニャで総合1位で全成績を終えたアンヘロ・アロヨに、全日程終了2日後、メチルフェニデートの陽性反応が出たため、アロヨを失格とし、同2位だったマリノ・レハレタが繰り上がって総合優勝を果たした。 特別競輪6回優勝の実績を誇る福島正幸が、競輪祭4日目のレースを終えた後、師匠である鈴木保巳とともに緊急記者会見の場を設け、当日限りで現役を引退すると表明(11月21日)。 世界選手権・プロケイリンで、北村徹が3位に入った。 国際競輪が開始される。
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「1974年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
エディ・メルクス、史上初となる、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、世界選手権・プロロードレースの同一年度制覇(いわゆる「トリプルクラウン」)を達成。またジロ・デ・イタリアでは、アルフレッド・ビンダ以来45年ぶりとなる総合3連覇を達成し、5度目の総合優勝達成もビンダ以来史上2人目。そしてツール・ド・フランスでは、ジャック・アンクティルに次ぐ、史上2人目となる5度目の総合優勝を果たした。 ロジェ・デ・フラミンク、ティレーノ〜アドリアティコ総合3連覇。 タマラ・ガルコウチナ、世界選手権・女子個人追い抜き5連覇。 福島正幸、2年連続で競輪祭・全日本競輪王戦を完全優勝。 オールスター競輪のドリームレースが、ファン投票上位9名による単発式レースに改められ、ファン投票第1位で選出された阿部道が勝利。加えて阿部は優勝も果たし、番組構成改正後のオールスター競輪史上初の「完全制覇」(ファン投票、ドリームレース、優勝の3つの1位)を果たした(2010年現在、阿部以外の達成者なし)。 日本選手権競輪にダービートライアルが設けられ、これの結果に応じて出場が決定されるという方式に変わった。加えて、ゴールデンレーサー賞が新設された。 ヴェロドローム・ド・ヴァンセンヌ、当年を最後にツール・ド・フランス最終ゴール地点としての役目を終える。同時に、パルク・デ・プランス時代から続いていた同大会の自転車競技場でのゴール地点にも幕が下ろされることになった。
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「1979年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
中野浩一、オランダ、アムステルダムで行われた世界選手権・プロスクラッチ決勝で、ディーター・ベルクマンを2-0で下し、同大会同種目3連覇を達成。 シクロクロス世界選手権・プロ部門で、アルベルト・ツヴァイフェルが4連覇を達成。 ヤン・ラース、アムステルゴールドレース3連覇。 全日本競輪王戦と全日本新人王戦が合体し、競輪祭が6日間連続開催となった。
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主なできごと
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「1981年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
中野浩一、チェコスロバキア・ブルノで行われた世界選手権・プロスクラッチにおいて、決勝でゴードン・シングルトンを2-0で下し、同大会同種目5連覇を達成。また、高橋健二が同大会同種目で3位に入った。 世界選手権・プロケイリンにおいて、久保千代志が3位に入る。 中野浩一、競輪選手としては1972年の松本勝明以来史上2人目となる、日本プロスポーツ大賞を獲得。 中野浩一、千葉競輪場で行われた日本選手権競輪で優勝し、1952年の高倉登以来史上2人目となる、特別競輪3連覇を達成。 ジョヴァンニ・バッタリン、1973年のエディ・メルクス以来史上2例目となる、ブエルタ・ア・エスパーニャ、ジロ・デ・イタリアの同一年度制覇を達成。 松本勝明、9月の岐阜競輪場でのレースを最後に引退(選手登録削除日は10月1日)。これを受け、日本自転車振興会は通算勝利歴代第1位となる1341勝を挙げた松本の功績を讃え、史上初の例となる、日本競輪学校名誉教官の称号を授与。 クラシカ・サンセバスティアン開始。初代優勝者はマリノ・レハレタ。
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「1966年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
6番目の特別競輪、秩父宮妃賜杯競輪が開始される(1970年まで)。初代優勝者は平間誠記。 アムステルゴールドレースが開始される。初代優勝者はジャン・スタブリンスキ。 ティレーノ〜アドリアティコが開始される。初代総合優勝者はディノ・ザンデグ。 ジロ・デ・イタリアにポイント賞が設けられる。 トラックレース世界選手権自転車競技大会の種目に、アマ男子・1000mタイムトライアル、アマ男子・タンデム(1994年まで)が新種目として加わる。 ツール・ド・フランスのトレードチーム別対抗戦が当年限りで終了(1969年に復活)。 西宮競輪場が従前の木板走路からアスファルト走路へと代わり、それを記念して同場で初めての特別競輪開催となる、全国都道府県選抜競輪が行われた。
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主なできごと
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「1967年の自転車競技」の記事における「主なできごと」の解説
ツール・ド・フランス第13ステージ、モン・ヴァントゥのゴール手前付近で、夢遊病者のような状態になったトム・シンプソンが力尽きて倒れ、病院に運ばれたものの死亡した。死因は熱射病によるものと診断されたが、後にアンフェタミンなど、複数の薬物が検出されたことにより、ドーピングに起因するものではないかという見方も根強く残ることになった。 当年のツール・ド・フランスより、国・地域別対抗戦形式が復活(1968年まで)。また、同レースにおいて1904年より最終ゴール地点となっていたパルク・デ・プランスが、サッカー専用スタジアムへの用途変更に伴い、当年のレースをもってその役目を終えることになった。 東京都知事選挙で、社会党、共産党の推薦を得た革新系候補の美濃部亮吉が初当選(4月15日)。このことは後に、当時の競輪の「メッカ」であった後楽園競輪場の休止など、競輪界に多大な影響を及ぼすことになる。 当年4月に行われた長崎市長選挙で、長崎競輪場の廃止を公約に掲げた諸谷義武が初当選。当年12月、諸谷は、競輪場移転という名目のため、当年1月の開催をもって開催が休止されていた同競輪場を廃止した。 当時38歳だった白鳥伸雄が、第2回秩父宮妃賜杯競輪で優勝し、特別競輪(現在のGI)史上最年長優勝記録を更新。2002年に松本整が43歳で寛仁親王牌を優勝するまで、長らくその記録を保持した。しかし同年10月に行われた日本選手権競輪の二次予選で敗退した白鳥は、その日に現役引退を表明。 当年より、競輪祭における従前の新鋭王戦が、全日本新人王戦へと名称が改められた。
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