後楽園競輪場の休止とは? わかりやすく解説

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後楽園競輪場の休止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:32 UTC 版)

競輪」の記事における「後楽園競輪場の休止」の解説

1967年昭和42年4月15日行われた東京都知事選挙で、日本社会党日本共産党推薦した美濃部亮吉当選し史上初の革新系都知事誕生した美濃部東京都主催していた各公営ギャンブル後楽園競輪場京王閣競輪場大井競馬場大井オートレース場江戸川競艇場)の廃止公約掲げていた。 後楽園競輪場は現在東京ドーム建っている場所にあり、1949年昭和24年11月誕生東京の都心部位置する文京区という抜群立地条件手伝い開催すれば常時スタンド満員とりわけ全国争覇競輪(現・日本選手権競輪)が開催されればスタンド入りきれない観客溢れ返り車券も満足に買えない状態が恒常化していた。そして、1960年昭和35年11月3日行われた第15回全国争覇競輪決勝戦開催日推定約8万人観客溢れかえり、スタンド内でもすし詰めとなった1500名の観客走路内へなだれこみ、決勝戦走路内にも観客入れてレースを行うという異例事態となったこのため警備不能理由に、引き続き1961年昭和36年)の第16回大会開催決定していたにもかかわらず東京都開催返上したばかりか代替地も決まらず、1963年昭和38年3月一宮競輪場再開されるまで、全国争覇競輪開催が行われなくなってしまった。つまり、後楽園以外に全国争覇競輪開催できないということが、当時競輪界の「常識となっていたのである実際のところ、一宮行われた後、再び後楽園1968年昭和43年)の第22回大会まで毎年日本選手権競輪開催されていた。 このように後楽園競輪売上1960年代競輪総売上10%近く占めるほど大きなものであったため、後楽園は「競輪メッカ」と標榜された。だが、当時毎年のように競輪売上増加させており東京都財政寄与し続けた背景があったにもかかわらず美濃部は「競輪などの公営ギャンブル売り上げ学校などが建設されるということについて、果たし子供たち望んでいることなのだろうか」と訴え都営ギャンブル廃止公約掲げたまた上述の通り大阪府などの自治体が既に公営ギャンブル廃止実現させていたことも追い風となっていた。 1969年昭和44年1月美濃部正式に都営ギャンブル廃止表明し同年11月開催予定されていた日本選手権競輪開催返上した。さらに美濃部は、1972年限り後楽園における都営開催終了することを表明。これにより後楽園競輪場1972年昭和47年10月開催休止、翌1973年昭和48年3月をもって全面休止された。その後同地ではバンク内に注入されスイミングプールとしての役割果たした後に解体され1988年日本初屋根つき野球場東京ドーム」として再建された。 その他の旧都公営競技場は、まず大井オートレース場後楽園競輪場同様に1973年3月閉場したが、代替場として伊勢崎オートレース場引き継ぎ1976年昭和51年10月6日開場した。また京王閣競輪大井競馬江戸川競艇その後主催者変更させて現在も存続している。結局後楽園競輪場だけは代替地用意され消滅した。 なお、東京ドームには400バンク設備があるが、地域住民反対等様々な事情があり、現在も競輪開催はされていない

※この「後楽園競輪場の休止」の解説は、「競輪」の解説の一部です。
「後楽園競輪場の休止」を含む「競輪」の記事については、「競輪」の概要を参照ください。

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