後楽園スタヂアム監査役就任から社長へ
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「真鍋八千代」の記事における「後楽園スタヂアム監査役就任から社長へ」の解説
後楽園スタヂアムはプロ野球の予想外の不人気により経営不振に見舞われ、わずか一年で内部紛争が勃発した。真鍋は東宝の代理人として仲裁の労を取ることになり、経営陣の資本関係をはっきりさせ、小林一三、五島慶太らの協力により紛争は解決した。旧役員は退陣し、会長に渋沢秀雄、社長に吉岡重三郎、専務に秦豊吉など東宝のメンバーに加え、調停役をつとめた自らが監査役に名を連ねた。しかし、第二次世界大戦期と重なり経営の見通しは立たず、監査役でありながら実質経営の指揮をとっていくこととなる。1942年、一時離れていた創立メンバーである田邊宗英に社長就任を要請。その後は田邉の女房役として後楽園球場を拠点に日本プロ野球の発展に努めながら、戦後は副社長として後楽園競輪場、後楽園遊園地の建設に次々と着手し二人三脚で事業を拡大していった。田邊逝去後の1957年(昭和32年)には社長に就任。後楽園ホール、石打後楽園スキー場(現・舞子スノーリゾート)、熱海後楽園を設立。監査役就任から現役を引退するまでの約30年間、一度も離れることなく終始一貫、後楽園の経営に参画した。熱海後楽園については「真鍋個人の清潔の看板と後楽園のもつ健康ムードに信頼する」と小松勇次(当時の熱海市長)の熱烈なオファーに加え、市議会、地元民の協力により1965年(昭和40年)に設立。夜の都として知られる熱海を家族ぐるみで楽しめる観光地へと変えた。
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