KEIRINグランプリ'89の中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:32 UTC 版)
「競輪」の記事における「KEIRINグランプリ'89の中止」の解説
「KEIRINグランプリ'89」も参照 1985年(昭和60年)のプラザ合意に起因する円高不況の反省から、政府の内需拡大策が功を奏し、1988年頃から日本経済は空前の好況となった。ひいては後にバブル経済へと突入することになり、競輪の売上げもバブル景気期には前年対比2桁の売上げ伸び率を記録することになった。 そんな中、1984年にまず中央競馬がグレード制を導入し、1988年には競艇も追随してビッグレースの拡充を図るとともに、賞金総額も大幅に引き上げられた。その一方、競輪の賞金総額は前年度売上見通しの3%が賞金に充てられる「3%ルール」に長年拘束され、とくに競艇選手との賞金格差が拡大する傾向にあった。 これに対し日本競輪選手会は理事長片折行の強力なリーダーシップのもと賞金総額の大幅引き上げを求め、それが認められない場合は「1989年のKEIRINグランプリシリーズに、誘導員を出さない」とする強攻策を打ち出した。基本的に「先頭固定競走(後述)」を採用している競輪では誘導員を出さなければ競走が行えず、このことはKEIRINグランプリの開催もできないことを意味していた。選手会側は全国競輪施行者協議会(全輪協、競輪主催者たる自治体が構成する団体)らと12月25日まで話し合いの場を持ったが折り合いはつかず、結局同年のKEIRINグランプリは中止された。なお会場だった立川は前年の1988年に、全国の競輪場で初めて大画面映像装置を設置していた。 この事態を受け、1990年に大宮競輪場での記念開催中止を回避するため施行者側が譲歩し、賞金総額の大幅アップが認められた。同時に「3%ルール」も事実上撤廃された。
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