競輪選手として
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2009年、地元の神奈川県に戻って競輪への転向を目指し、同県の競輪選手である高木隆弘の元へ住み込みで弟子入りした。 同年7月17日、日本競輪学校第99期一般入学試験(適性試験)に合格した。同年11月25日入学。2010年10月15日、同校を卒業。在校競走成績は74戦1勝で第44位。 同年11月1日付で競輪選手登録された。 2011年1月5日、小田原競輪場でデビューし6着。2012年2月12日、京都向日町競輪場で初勝利を挙げた。
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競輪選手として
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「原大智 (競輪選手)」の記事における「競輪選手として」の解説
2019年4月5日、日本競輪学校(当時)の第117回生徒特別選抜入学試験に合格したと発表された。日本競輪学校において特別選抜試験での合格者は12年ぶり史上8人目であり、特にオリンピックメダリストということもあって注目を一身に集めた。 在籍している日本大学を休学し、同年5月9日付で養成所に入所。在所中は同所にて選手候補生として訓練・研修を受けたが、入所直後の「第1回卒業認定考査兼記録会」では風邪による体調不良の影響もあってかタイムは全く振るわず、特に400mタイムトライアルでは同期72名中最下位の成績と散々であった。また、9月上旬の「第2回卒業認定考査兼記録会」でも規定タイムをクリアできず不合格となり、強制退所の危機に追い込まれたものの追試で何とか合格した。なお、翌年2月に行われた「第3回卒業認定考査兼記録会」では合格タイムを出したことで、卒業に目途が立った。 卒業間近の2020年3月23日に養成所で行われた卒業記念レースでは、予選2走とも4着となり決勝に進めず敗退。翌日24日に、在所成績72名中47位の成績で養成所を卒業し、さらにその翌日の25日に競輪選手として正式に登録された。なお、競輪選手としての登録地は宮城県としている。 2020年5月15日、広島競輪場で行われた新人戦「競輪ルーキーシリーズ2020」でプレデビューし3着。同開催での3日間の全成績は、3着・5着・3着(予選敗退)であった。7月15日、大宮競輪場でのFII第1レースでA級3班として本格デビューするも4着。翌日は落車したため途中帰郷し最終日は欠場。8月16日のいわき平競輪場でのFII2日目第1レースで逃げ切り、競輪選手として初勝利を飾る。その後11月のあっせんはモーグル競技の国際大会に出場したため欠場した(欠場理由は「家事都合」)が、12月30日の西武園FII(ミッドナイト)にてデビュー12場所、本格デビュー10場所目で初優勝を果たす。 上記の通り北京オリンピック出場などもあり長期にわたり欠場が続いていたが、2022年3月29日からのいわき平FIで競輪に復帰。
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競輪選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 11:45 UTC 版)
初出走は1982年4月30日の花月園競輪場で、初勝利は翌5月1日の同場。 1982年のデビュー直後から順調に実績を積み上げ、2年目となる翌1983年のオールスター競輪で特別競輪初出場を果たし、1984年には競輪祭新人王戦で優勝を果たした。 競輪選手としての最盛期といえる時期は1986年から1987年にかけてであり、この2年間において、特別競輪決勝戦では2着2回、3着2回を記録。1987年にはS級一般で賞金獲得ランキングの上位を争い、地元平塚で開催されたKEIRINグランプリにも出場し5位となった。 長い間選手として活躍を続けていたが、2011年12月に地元の平塚競輪場に出場中、次回の競走で引退することを発表し、12月26日に古巣の小田原競輪場で迎えた第9R・A級特選が最後の競走となり、9着に終わったあと引退セレモニーが行われバンクを去った。2012年1月5日選手登録消除。通算成績2495戦302勝。 引退後は地元の平塚競輪場を中心に競輪レポーターとして活動している。
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競輪選手として
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大学中途退学後に競輪選手となるが、後に事務方として日本競輪選手会千葉支部長を経て、日本競輪選手会副理事長を務めた後、退任とともに1965年7月1日競輪選手登録消除。
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競輪選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/23 14:17 UTC 版)
高知県立新制高知高等学校の定時制に在学中、自転車屋に住み込みで働いていたが、1950年に高知競輪場が開設されたことを聞き、同年7月25日に選手として登録。当初は短期間に生活費と将来の学費を稼ぐ目的であったが、1952年に当時の最高位であるA級1班に昇格し、1953年には当時の大阪中央競輪場で開催された第8回全国争覇競輪(現在の日本選手権競輪)決勝で2着に逃げ粘るなど、捲りや先行の戦法を主体として一線級の実力を発揮したことから、その後も選手として活躍し続けた。 選手としてのピークを過ぎた直後、次男の病気(後述)がきっかけで福祉活動の必要性を実感したことから、自ら福祉施設の建設と運営に乗り出すことを決め、それからは自分の賞金を福祉活動の資金とするために走り続け、1986年4月29日の高松競輪B級一般戦8着をもって引退するまで、36年間もの競輪選手としての通算で3195戦674勝を挙げる立派な成績を残した。同年5月7日に選手登録消除。
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競輪選手として
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2011年1月14日、日本競輪学校第101回生入学試験に合格。同校在校競走成績は21勝を挙げ第4位。 卒業後の2012年5月1日に日本競輪選手会茨城支部所属の競輪選手として登録され、同じくスケート出身の武田豊樹が師匠となる。7月13日に松戸競輪場でデビューし2着、初勝利は翌14日の同場。同年11月21日の宇都宮競輪場でA級チャレンジ3場所連続完全優勝を果たし、A級2班に特別昇級した。 2013年のルーキーチャンピオンレース(川崎競輪場) で優勝。2014年にはヤンググランプリ2014のメンバーとして選出されていたが、その後落車して負傷し欠場を余儀なくされた。 2018年2月、第33回読売新聞社杯全日本選抜競輪(四日市競輪場)でGI初決勝進出(8着)。 2019年2月、第34回読売新聞社杯全日本選抜競輪(別府競輪場)でGI決勝進出(3着)。
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競輪選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 07:35 UTC 版)
競輪学校へは植松仁に次いで二人目となる異種目からの特別選抜入試により合格し、卒業後は日本競輪選手会茨城支部所属の選手として本拠地を取手競輪場に据え、十文字貴信の師匠にあたる川村恵三に弟子入りした(スケート時代の頃から川村の指導を得ていた)。 2003年7月4日に立川競輪場でデビューを果たし、初出走で初勝利も挙げたが、その2日後の決勝戦で落車による右鎖骨骨折の憂き目を味わう。しかしケガからの復帰後は快進撃を続け、デビューから約半年後の2004年1月13日にはA級3班からS級2班へ史上最速の特別昇級を果たしている。その後は一気に競輪界のトップクラスに位置する選手となる。同年7月、寬仁親王牌にGI初出場で決勝進出。デビュー387日は、グレード制移行後の最短記録である。 2005年1月からはラ・ピスタ新橋と契約し、公営競技初となる個人スポンサー名入りユニフォーム(左肩)を着用。年間獲得賞金上位により、年末の最高峰レースのKEIRINグランプリ05へも出場した(3着)。 なお2006年にもヤンググランプリの出場選手として選抜されていたが、昨年既にKEIRINグランプリに出場していたこともあり、自己都合を理由に出場を辞退している。この年4月から、KEIRINのCM「アスリートの思い」(井筒和幸監督)に主人公として出演した。 その後も特別競輪における活躍は見せるものの優勝とは縁遠い日々が続いていたが、2008年11月に広島競輪場で行われたふるさとダービーの決勝では、後方6番手から豪快に捲り切って優勝。GII初制覇と共に、この開催限りで廃止された、ふるさとダービー最後の覇者として歴史に名を刻んだ。また、この勝利により年間獲得賞金額が上位になり、2009年は初のS級S班格付となった。 2009年3月には岸和田競輪場で行われた日本選手権競輪の決勝において、最終バック5番手から捲りを放ち、ゴールでは加藤慎平との写真判定となったが微差で退け、ついに特別競輪初優勝を果たしタイトルホルダーとなった。6月の高松宮記念杯決勝では1期先輩に当たる9歳下の平原康多を番手に回してGI初優勝に導き、7月の寬仁親王牌決勝では平原の後位を回ったが、この時は着外に沈んだ。しかし7月25日に行われた、サマーナイトフェスティバル決勝戦を制し優勝。そして9月23日に行われたオールスター競輪決勝戦では再び平原康多の番手を回り、抜け出しに成功して優勝しGI2勝目を飾った。 これにより史上最高額の賞金王がかかったKEIRINグランプリ09では三度目となる平原の番手から抜け出し直線で粘ったものの、微差で海老根恵太の2着に敗れ、8百万円差で年間賞金総額2億円突破も逃した。 しかし2010年には2月に玉野競輪場で開催された東西王座戦東王座戦で平原の番手から抜け出し優勝を果たし、その後もSSシリーズ風光るでの決勝2着や、特別競輪の決勝に3回出走したことから、年間獲得賞金上位(5位)によりKEIRINグランプリ2010への出場を決定させた(6着)。 2011年は、2月に豊橋競輪場で開催された東西王座戦東王座戦と、4月に武雄競輪場で行なわれた共同通信社杯競輪春一番において、共に決勝で平原の番手から抜け出し優勝し、競輪祭での決勝2着を含め獲得賞金上位(4位)でKEIRINグランプリ2011への出場を決定させ、グランプリでは2着となったが乱入したファンに追いかけられるハプニングに遭った。 2012年は2月に高知競輪場で開催された東西王座戦東王座戦で3連覇を果たし、ふるさとダービー同様に最終開催の優勝者として名を刻むことになった。6月には生まれ故郷の北海道で初めて開催された第63回高松宮記念杯競輪の決勝において、冷静に3番手を確保してから直線抜け出して優勝し、3年ぶりのGI優勝を果たした。8月に四日市競輪場で行われたサマーナイトフェスティバルでも3年ぶりに優勝している。さらに12月には競輪祭の決勝で最終バックから捲って年間GI2勝を手にした。 自転車競技においても全日本プロ選手権自転車競技大会のケイリン種目で、2006年〜2009年まで4連覇、さらに2011年も優勝した。 2013年は4月4日の川崎記念初日11レースにおいて、通算300勝を達成した。その後も順調に賞金を積み上げてきたが、7月に高知記念での失格(後述)により「あっせん停止」処分を受け、以降2013年一杯まで欠場となった。さらに処分中の同年12月に日本競輪選手会から脱退して「SS11」を新選手会として立ち上げようとしたことに関し、中心的なメンバーとみなされたことで日本競輪選手会から2014年5月1日より1年間の自粛休場を勧告され、武田もこれを受け入れ2014年1月に復帰したが5月より再び欠場する。その後自粛期間が3ヶ月に短縮されたため、8月から再び復帰を果たした。(詳細はSS11 (競輪)の項を参照されたい) その直後の第57回オールスター競輪の決勝において、混戦の中から3番手を確保して、最終2角からの捲りを決めて優勝し、2年ぶり5度目のGI優勝を果たしたと同時に、年末は2年ぶりにKEIRINグランプリ2014の出場を決めた。そのグランプリでは、競輪祭において自らの先行によって優勝に導いた平原康多の番手を回り、村上兄弟ら近畿ラインの反撃を受ける前に番手捲りを打ってグランプリ初優勝を果たし(21人目の覇者)、自身初となる年間賞金王も手にした。 2015年は第66回高松宮記念杯競輪の決勝において、捲る平原康多の後ろより最終ホームから自力に切り替える形で捲りを放ち、先に番手捲りを打っていた稲垣裕之の後ろに追いついてから直線で差し込み優勝する。その後第57回朝日新聞社杯競輪祭の決勝においても、一旦ホームで平原から離れたものの再度マークする展開から平原の捲りに追走しゴール直前で差し込み優勝している。 2016年は1月9日の和歌山G3初日にて落車棄権・帰郷。4月16日の高知G3準決勝でまくり、本年20走目で初勝利を果たした(前年12月8日の佐世保G3最終日特秀以来の1着)ほど前半は不調だったが、サマーナイトフェスティバルの決勝2着と第59回オールスター競輪の決勝4着で年間獲得賞金争いに加わり、競輪祭の決勝で優勝した平原康多の番手から2着に入ったことにより最後の賞金枠(8位)でKEIRINグランプリ2016への出場を決定させた。 2017年は地元・取手で行われた全日本選抜競輪で決勝2着に入り、日本選手権と高松宮記念杯競輪でも決勝に進出するなど、前半は好調をキープした。後半ではオールスター競輪の落車での骨折もあり、欠場するなど苦しんでいたが最終的には前半の貯金を活かして、賞金枠上位(最後枠から2番目の8位)としてKEIRINグランプリ2017へ出場を決めた。 2018年8月の第61回オールスター競輪(いわき平競輪場)ドリームレースで1着になった際、通算取得賞金15億円を突破した(通算10人目、現役選手4人目)。また年末のKEIRINグランプリ2018出場も決めた(獲得賞金ランク7位)。 2019年は5月の第73回日本選手権競輪二次予選で落車し1か月以上欠場したのを皮切りに、6月の第70回高松宮記念杯競輪初戦の東日本特別選抜予選でも落車して約2か月間欠場しただけでなく、9月22日の岐阜競輪GIII二次予選Aでもゴール直前で落車、その影響で以後同年はGIの寛仁親王牌、競輪祭も含めて同年末に復帰するまで3か月間も欠場が続いたため、同年の年間賞金獲得額で50位にも入れずKEIRINグランプリの出場を逃しただけでなく、5年間続けたS班からの降格も決まった。 武田も、平原と同様グランドスラムに2番目に近い選手である(武田の場合は、読売新聞社杯全日本選抜競輪と寛仁親王牌競輪である)。
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