自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/24 09:56 UTC 版)
偉大な競輪選手である稲村雅士を父に持っていたため、早くから自転車に親しんでおり、群馬県立前橋工業高等学校の自転車部に入部してからは高校総体などで数度優勝する。その実績から高校在学中の1990年にグリーンドーム前橋で開催された世界選手権自転車競技大会に出場し、タンデムスプリントで銀メダルを獲得してゴール後、板についた投げキッスのパフォーマンスを行い、満員の場内を沸かせた。競輪選手としてデビューしてからも自転車競技に参加し続け、オリンピックを含めた各種の国際大会に出場している。 1990年 世界選手権自転車競技大会(グリーンドーム前橋)で1学年下の齋藤登志信と組んでタンデムスプリントで出場(パイロット)、銀メダルを獲得 1994年 ワールドカップ第4戦東京大会で斉藤正剛・横田努と組んでオリンピックスプリントに出場、銅メダルを獲得 1997年 ワールドカップ第3戦イタリア・フィオレンツラ大会に馬渕紀明・小嶋敬二と組んでオリンピックスプリントに出場、銅メダルを獲得 1998年 ワールドカップ第4戦フランス・トゥーロン大会で1kmタイムトライアルに出場、銀メダルを獲得 1999年 第19回アジア自転車競技選手権大会でオリンピックスプリントに出場、金メダルを獲得 2000年 シドニーオリンピックに出場。1kmタイムトライアルで9位、長塚智広・神山雄一郎と組んだオリンピックスプリントで5位入賞
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自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:56 UTC 版)
福島県立白河高等学校在学中の2003年に佐世保競輪場で開催された全国高等学校総合体育大会自転車競技大会(インターハイ)の1kmタイムトライアルで優勝する。同校卒業後の2004年4月、四日市競輪場で開催されたアジア自転車競技選手権大会ジュニア部門・スプリント2位などの実績を挙げる。 2005年の全日本自転車競技選手権大会において1kmタイムトライアルで優勝するが、この種目は得意としており、以降も2007年・2008年・2010年の同大会同種目で優勝している。 2006年にはアジア競技大会において、渡邉一成、成田和也との「福島トリオ」で挑んだチームスプリントで優勝。2008年にはメルボルンで開催されたトラックワールドカップ第2戦のチームスプリントにおいて、渡邉一成と成田和也とのトリオで挑み2位となる。 2010年にはアジア競技大会では渡邉一成と成田和也とのチームスプリントで2位となり、スプリントでも3位となる。その後12月にメルボルンで開催されたトラックワールドカップ第1戦への出場は競輪競走への出場を優先し参加を見合わせたが、カリ(コロンビア)で開催された第2戦には参加した。 2011年は全日本自転車競技選手権大会においてスプリント・ケイリン・チームスプリント(+ 渡邉一成、中川誠一郎)の種目を制し三冠を達成。 2012年は5月1日にロンドンオリンピック代表選手に選出され、8月2日に行われたチームスプリント(+ 中川誠一郎、渡邉一成)では8位となる。 2016年4月、リオデジャネイロオリンピック代表候補に落選。同月、自身を代表とするチーム「Dream Seeker」の設立記者会見を開き、日本自転車競技連盟(JCF)のナショナルチームとは別に今後、五輪出場ポイント獲得レースへの参加を目指すことを表明した。 2018年時点では株式会社ドーム(アンダーアーマー日本総代理店)とサプライヤー契約している。 2019 UCIトラック世界選手権大会 男子ケイリンで2位。 2020年6月に新型コロナウイルスの影響で延期された東京オリンピックへの出場が内定した。 2021年8月、2020年東京オリンピックの自転車競技トラック男子スプリント予選では9秒728で26位、男子ケイリンでは準々決勝1組で6位に終わる。競技終了後、自転車競技からの引退を表明した。
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自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 00:58 UTC 版)
日本大学商学部在学時、 1982~1986年全日本学生選手権 4,000M個人追抜 1位(4年連続) 1982~1988年国民体育大会 4,000M団体追抜 1位(6年連続)、 1985年、1987年世界自転車選手権日本代表、 1986年アジア大会(韓国・ソウル) 4,000M個人・団体追抜 1位、 1984年全日本学生選手権4,000M個人追抜において日本記録更新、 1986年アジア大会(韓国・ソウル)4,000M個人追抜において日本・アジア記録更新、 1984年、ロサンゼルスオリンピック・団体追抜に出場し11位。 その後、日本鋪道(チームNIPPO)に加入。 1987年スーパークリテリウム 1位 1987年国民体育大会 50KMポイントレース 1位 1988年国際ロード名古屋大会 1位 1988年全日本選手権 4,000M個人追抜 1位 1988年の1988年ソウルオリンピックの自転車競技では、個人ロードレース(95位)とポイントレース(予選14位敗退)に出場した。 1987年、1988年 日本スポーツ大賞 優秀選手賞受賞。 現在、福島県須賀川市で物流企業を営んでいる。
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自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 09:53 UTC 版)
函館大谷高等学校在学中から自転車競技ジュニア世界選手権のスプリント種目に出場し、競輪選手としてデビュー後の1986年には、世界選手権自転車競技大会のスプリント種目に初出場し、中野浩一・松井英幸に次いで3位に入賞。翌年1987年の同大会では優勝し、前年までの中野のV10に続く日本人選手V11を達成した。
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自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 08:53 UTC 版)
金沢高等学校在学時から自転車競技で数々の成績を収め、卒業後はソウルオリンピック出場を目指して日本大学文理学部社会学科に進学したが在学中の出場はかなわず、卒業後もアマチュアとして活躍を続けた。 1992年のバルセロナオリンピックでは1000mタイムトライアルは順当だったが、当時スプリントで無敵を誇った齋藤登志信の予選落車によってスプリント代表も手にし2種目出場を果たした。自転車競技界最強を自ら実証しようと、周囲の説得にも耳を貸さずアマ全日本選手権ロードに出場したことがある(結果はリタイア)。 なおプロ解禁となったアトランタ以降のオリンピックには出場していないが、アマ時代を含んで世界選手権自転車競技大会にも、1990年・1995年〜1997年の4回出場している。
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自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 05:04 UTC 版)
豊国学園高等学校(吉岡稔真の後輩にあたる)時代は日本では、インターハイスプリント、国体スプリントなどタイトルを総なめし、世界ジュニア選手権でもスプリントとケイリンの2冠に輝いた。 高校3年生の10月から半年間スイスにある自転車競技の国際的トレーニング施設WCC(ワールド・サイクリング・センター)へ自転車留学し、その後競輪学校特別選抜試験を受験し90期生として入校。在学中にチャレンジ・ザ・オリンピックで強豪相手に優勝し、ナショナルチーム入り。 2007年10月、トラックレース日本代表選手に選出され、UCIトラックワールドカップクラシックス、世界選手権などの国際大会では主に、チーム、個人の両スプリント種目に出場。チームスプリントの北京オリンピック出場権獲得に貢献した。2008年5月7日、北京オリンピックトラックレース日本代表選手に選出される。
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自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 18:23 UTC 版)
競輪選手となってからは競輪のみならず自転車競技のトラックレースでも活躍の場を広げ、2002年に韓国の釜山で開催されたアジア競技大会では、個人、チーム(神山雄一郎、渡邉晴智とともに)の両スプリント種目を制覇した。 2002年には全日本自転車競技選手権大会個人スプリントで優勝し、同年の世界自転車選手権(シュトゥットガルト)の個人スプリントでは8位に入った。 2004年のトラックワールドカップ・シドニー大会個人スプリントでは3位に入り、同年開催のアテネオリンピック出場への夢も膨らんだ。しかしメルボルンで開催された世界自転車選手権の個人スプリントでは本選にすら進めず、ここでアテネオリンピック出場の夢は絶たれた。 しかし2005年11月開催のワールドカップ・モスクワ大会個人スプリントでは、再び3位入賞を果たすと、2006年開催のワールドカップ・シドニー大会のチームスプリントでも3位入賞に貢献。だが同年4月開催の世界選手権(ボルドー)では、個人、チームの両スプリント種目に出場するものの、いずれも成績は振るわず、自身が目標としていた北京オリンピック出場の夢も絶たれている。 中部地区プロ自転車競技大会では2013年までに、スプリントで13年連続14度制覇している。その後もスプリントは連覇を続けたが、2020年11月11日、岐阜競輪場で行われた決勝にて初参加の山口拳矢に敗れ連覇記録は19で止まった。
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自転車競技での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:51 UTC 版)
学生時代から自転車競技を始め、青森県立三戸高等学校を経て日本大学に進学し、在学中に出場した1984年のロサンゼルスオリンピックでは、自転車競技の1000mタイムトライアルで出場権を掴んだが、共産圏諸国のボイコットのため追加で出場権を得たスプリント種目において、敗者復活戦から勝ち上がり、3位決定戦でフィリップ・ヴェルネを下して銅メダルを獲得。ヨーロッパでは「スポーツの王様」といわれる自転車競技で日本人が初めてメダルを獲得するという快挙を成し遂げた。前回モスクワオリンピックは兄・典男がボイコットにより出場を阻まれており、その無念を晴らす以上の活躍であった。 当時学生(アマチュア)だった坂本がメダルを取った後は、プロ選手の参加が解禁されたアトランタオリンピックで十文字貴信が銅メダルを獲得するまで、日本人はメダルには届かなかった。
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