自転車競技への貢献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 15:18 UTC 版)
「加藤一 (画家)」の記事における「自転車競技への貢献」の解説
現役の競輪選手であった頃は競輪の創成期であった。賞金以外での身分待遇や保障の劣悪さに懸念を抱いた加藤は、選手団体の必要性を感じ、1951年の日本プロフェッショナル・サイクリスト連合 (NPCU) 設立に理事として加わり、以降は自転車競技団体において精力的な活動を行うようになる。競輪選手の現役を退いた後は、NPCUから改組された日本競輪選手会の常任理事に就任し、1957年にはフランス選手チーム招聘による親善を目的とした「日仏プロ自転車競技大会」の開催と、そのために必要であったプロアマ統括組織となる日本自転車競技連盟(旧団体、FJC)の発足にもかかわった。 渡仏直後にパリで開催された世界選手権自転車競技大会において監督を務め、以降も世界選手権自転車競技大会の開催時には「欧州連絡員」として毎年現地に赴いた。また当時国際自転車競技連合 (UCI) の本部がパリに置かれていたことから、日本側の要請により事務方として自転車競技にかかわり続けた。1965年にはUCIの下部組織となる国際プロフェッショナル自転車競技連盟 (FICP) の発足に加わり、1970年に理事となったのち1977年には副会長に就任する。12年間のFICP副会長在任中には、世界選手権でスプリント種目連覇を重ねる中野浩一の活躍を見守り、世界選手権における「ケイリン」種目の採用を果たし、退任直前には世界選手権の日本開催に尽力した。 なお2000年のシドニーオリンピックからケイリン種目の採用が決定していたが、それを見届けることは叶わず直前に世を去った。加藤は日本の競輪を世界へ広めただけでなく、世界の自転車競技を日本に広めた「陰の立役者」ともいえ、その功績は多大である。
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