世界選手権優勝
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北京五輪から1ヶ月後にフランスのモンペリエで開催された世界選手権では、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻によってロシア勢が不参加となる中、優勝の本命とされた。SPで80.32点と、歴代7人目で日本女子2人目となる80点越えの好演技で首位につく。FSでも再び自己ベストを更新する155.77点を叩き出し、総合で2位に20点近い差をつける236.09点を記録。日本女子としては2014年の浅田真央以来となる世界選手権女王の座に輝いた。なお総合236.09点は、世界歴代6位であり、日本女子、ロシア勢を除いた女子歴代最高の得点を再び更新することとなった。また、トリプルアクセル以上のジャンプを実施しない構成の演技としてはアリーナ・ザギトワの238.43点に次ぐ世界歴代2位の記録である(2022年3月25日現在)。
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世界選手権優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:45 UTC 版)
自己推薦入試で早稲田大学に進学、初めて親元を離れて東京での生活を始める。2000-2001シーズンは新横浜のプリンスクラブに在籍、染矢慎二に師事し初めてマンツーマンでのレッスンを経験する。このシーズンから、プログラムの音楽を表現する気持ちが芽生えたという。第69回全日本選手権は2位だったものの、国際大会ではふるわなかった。 2001-2002シーズンからは佐藤久美子に師事。2002年ソルトレークシティオリンピックの女子シングル日本代表枠は2枠あったが、1枠はグランプリファイナルに進出した恩田美栄が早々と五輪内定に。残り1枠が賭かった全日本選手権では、またしても村主との激闘を繰り広げたが、ジャンプ失敗が響いて総合2位に敗れ、2大会連続の五輪代表選出はかなわなかった。ただし四大陸選手権では、五輪代表の恩田(3位)を上回り総合2位と健闘した。 2002-2003シーズン、練習拠点を神宮外苑スケート場に移し佐野稔に師事、振付はニコライ・モロゾフに依頼した。2002年末の第71回全日本選手権で3位になった後、年明けはユニバーシアード冬季競技大会、冬季アジア大会で立て続けに優勝。さらに四大陸選手権では2年連続の2位、初進出のグランプリファイナルでは4位となった。世界選手権直前に、リチャード・キャラハンの指導を受けることになった。5年ぶりに出場した世界選手権では、SPでスピンに入る前に氷の溝にはまる不運で転倒、さらに肩を脱臼するアクシデントに見舞われたが、スピンをしながら肩をはめ直し最後まで滑りきった。フリーでは3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループと高難度のコンビネーションを決め、初の入賞となる総合8位となった。 2003-2004シーズンは本格的にアメリカに練習場所を移し、キャラハンコーチの下で練習を続けた。GPファイナルを含むGPシリーズ4戦全てで表彰台に上がり、全日本選手権3位ながら世界選手権の代表に選ばれた。世界選手権の3週間前、急遽コーチをタチアナ・タラソワに変更。世界選手権はフリーで3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループ、3回転サルコウ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを含む全ての要素を完璧に決め、技術点では6.0満点も獲得して総合優勝を果たし、日本人選手として10年ぶり3人目の金メダリストに輝いた。実はこの当時、予選直前に左足坐骨を骨折する大ケガを負ったが、軽い肉離れだと思って競技を続けていたという。当時はシーズンいっぱいでの競技引退、プロスケーター転向を決意していたが、大学卒業後もプリンスホテルに所属して競技を続けることになった。卒業論文は「スポーツとマスコミの考察」。元々マスコミが苦手であったが、研究することで取材する側の気持ちが理解できるようになったという。
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