仙石家と関係者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
権兵衛と川爺以外の人物は第二部以降より登場。元々は美濃国の豪族であったが、秀久が織田家に仕官して数々の武功を上げたことで、羽柴軍の寄騎衆でも屈指の規模となった。権兵衛の方針で武功を挙げることを最優先とし、軍備に銭を惜しまず、戦のためならば後先考えず借銭も厭わないため、万年金欠となっているのが悩みの種。やがて羽柴軍の事実上の四国方面担当となるが、軍監として四国連合軍を率いた九州征伐において、豊臣秀吉の命令を破って独断で島津軍と開戦した「戸次川の戦い」で大敗したことで改易処分を受け、すべての領地、名声を失って家臣団は離散した。その後、小田原征伐が起こると、帰参した旧臣と浪人衆を率いて新生仙石隊として再起を目指し、浪人ながら虎口を占拠する活躍を見せ、名誉挽回を成し遂げた。 本拠地は、第一部では本領の美濃国(加茂郡黒岩)のみであったが、小谷城攻略戦の功により第二部から近江国野洲郡(1,000石相当)に移し、中国攻めの功により播磨(4,000石相当)にも所領を得る。第三部で淡路国(5万石相当)を平定したことで大名(淡路国・洲本城主)となり、第四部の四国征伐の功により讃岐国・聖通寺城主(10万石相当)となったが、改易処分によりすべての領地を失った。その後、小田原征伐での武功と徳川家康の斡旋、さらに統治が困難(浅間山の火山活動、依田氏の影響力が強いため)なため、引き受ける者がいないとの理由から、信濃国・小諸城主(5万石)として大名家に返り咲いた。 仙石秀久(せんごく ひでひさ) 声 - 小野大輔(戦国大戦) / 三木眞一郎(鬼武者Soul) / 関智一(パチンコ) 通称は権兵衛。本作品の主人公。美濃地方に所領を持つ豪族の当主で、当時の成人男子の平均身長を頭一つ上回る五尺七寸(約171cm)の体格を持つ青年。ダンゴ鼻が特徴。額には山崎新平との一戦でつけられた向こう傷がある。信長からは「ダンゴ」、秀吉からは「センゴク」、周囲からは「ゴンベ」「ゴン」「ゴン兄ィ」とも呼ばれる。恵まれた体力と生命力を活かし、戦場では百人力の槍働きをする他、時には自ら間者働きなども行っている。反面、頭脳労働が苦手で考え無しに動く事も多い猪武者だが、直情的な気質から多様な人々に信を置かれている。年少の頃から戦いに明け暮れてきた事から政は苦手だが動物的な勘が鋭く、経験と年齢を重ねるにつれて大局的な物事の見方も身に付けてきている。 第一部では秀吉の寄騎として戦い、幾つもの死線を潜り抜けて木下隊を支える先駆けとして成長する。第二部では大名となった秀吉から1000石を与えられて旗本となり、自身の槍働きだけでなく将としての成長を迫られていく。西国方面司令官となった秀吉の中国攻めで所領を加増されて大身旗本となり、上津城開城後は城代に任ぜられる。「出世するほどに苦しくなる」と一瞬の倦怠を抱くが、秀吉の古参兵として重職を委ねられていく。第三部では、誰とでも分け隔てなく付き合える性格を見込まれて淡路国の大名に推薦され、中国大返し後に明智側に与した菅家を討伐すべく淡路国に進軍した。手勢のみで洲本城を攻め落とし、山崎の戦いで士気旺盛な明智軍に苦戦する秀吉を奮起させた。光秀討伐後は柴田軍と羽柴軍の膠着を破るべく淡路から阿波・讃岐へ向かい、十河存保らと合流して長宗我部元親との引田の戦いに望む。緒戦では香川信景率いる先遣隊に勝利を収めるが、本陣強襲に踏み切って元親の計略に嵌り、敗北を喫した。 第四部では紀州征伐で水軍衆の一員として雑賀衆との戦いに出陣し、熊野に立て籠った湯川直春とも熾烈な戦いを繰り広げた。続く四国征伐では讃岐方面軍に属して存保と先鋒を務め、論功行賞では失敗を恐れず挑む姿勢を秀吉に評価され、讃岐国10万石に加増された。死没した蜂須賀正勝に代わって四国取次にも任命され、九州征伐では先陣の軍監として元親・存保ら四国勢と共に六千名を率いて大友氏の領内に出兵する。秀吉の真意である「島津家への出兵の口実を作る」という狙いを察していた事もあり、大友氏の内紛鎮圧に専念する。島津家が大友本領侵攻を開始して目的が達せられると守備に徹する方針を評定で下し、天下泰平もすぐ訪れると述べていた。 しかし敵将・島津家久の姿を想う中、大局を理由に刀を納めようとする自身への葛藤を覚える。やがて心を決めて再評定を開き、島津軍の包囲下にある鶴賀城への救援を決断して家久軍との戸次川の戦いに望む。釣り野伏せに備えていた事で当初は戦いを優勢に進めるが、「神降り」した家久が率いる島津軍本隊が桑名隊を潰滅させ、そのまま背後に回り込まれた十河隊も殲滅される。後方で伏兵に対処していた元親によって全軍が包囲される前に退却を直言されるが、退却すらも阻む家久軍の猛追に長宗我部信親、十河存保らが相次いで討死、自身も討ち取られる寸前まで追い込まれる。半死半生の状態での直感で家久本隊へ逆に突撃を開始し、島津兵の同士討ちを起こさせる事で退路を開いて九死に一生を得た。 敗北後、秀吉から改易処分を受けて家臣団を解散、汚名と罪悪感を背負いながら美濃国へ帰郷する。郷土の英雄として故郷からは暖かい歓迎を受け、本心では目的を達したと考えていた秀吉からも1万石という破格の堪忍料を下賜されて何不自由のない隠居生活を送る。だが意義の無い日々を過ごす事に耐えられず、妻子と離れて咎人が集まる高野山に自ら身を寄せる。高野山では民衆の嘲りや世の理不尽、旧友らの没落を目の当たりにするが、現実を見る事で却って生きる気概を取り戻していった。下山した後も茶会や寺院での勉学などこれまで心得になかった知識を学び取り、自分の縁に報いる為にも再起を志す決意を固める。 北条攻めが開始されると豊臣軍の牢人衆として参陣、家康の嫡男・秀忠との数奇な交流を経て、旧知の仲である堀秀政との取次役として小田原城攻めに加わる機会を得る。途中で秀政が病に倒れた事で攻勢は中止となってしまうが、他の牢人衆と共に殿を引き受け、その上で最後に残った殿軍だけで虎口を攻め落とす事を呼び掛ける。圧倒的に優勢な北条軍に決死の戦いに挑み、これまで培った戦場での勘を頼りに二重三重の守りを破り、遂には城郭に仙石家の軍旗を掲げて撤収した。 合戦後は命令違反を問う近臣らの手前、手放しで称賛できない秀吉から金団扇を下賜され、後に難所である小諸の城主に家康から推薦されて大名へ復帰を果たした。第一部1巻寸評:戦国史上最も失敗し、挽回した男 第二部1巻寸評:史上最も失敗し、挽回した男 お藤(おふじ) 権兵衛の正室。野々村正成の姪で、野々村幸成の娘。お藤は通称で本名は成子。元は小川土佐守の室で間に一女(葛)を儲けたが、気性が合わず離縁している。叔父・正成やおねの推薦により再婚相手として権兵衛との縁談を取りもたれるも、最悪の出会いを果たした事で一時は破談してしまう。しかし紆余曲折を経て権兵衛の素朴さに触れて最終的には婚姻を結び、菊太郎ら三男一女を儲ける。年上女房として権兵衛を尻に敷いているが内心では夫に惚れ込んでおり、佐久間信盛が追放された際に家臣団が動揺する中、陣中を訪れ家臣団の不安を取り除くなど、家中では権兵衛の暴走を戒めることができる唯一人の存在であることから権兵衛以上の畏敬を集める女傑として君臨している。 自身の一存で葛と田宮の婚約を内定させるなど、順風満帆であったが、権兵衛が戸次川の戦いで失態を犯し、お家取り潰しの危機に陥りながらも気丈に振舞おうと努め、帰還した権兵衛には「仙石の名を捨てませぬ」と告げ、共に咎を背負う覚悟を伝えた。その後、断髪して故郷の美濃に戻り、慎ましく生活するが、贖罪の道を模索する権兵衛との距離感がわからなくなるも、権兵衛を支える妻として精進することを誓う。暫くして古渓宗陳の教えを受け、武士として再起する決意を伝えようとした権兵衛には戸次川の戦いの戦死者遺族の手前、支持はしないが、「似合っている」と伝え、陰ながら応援する。 葛(かずら) お藤の前夫との娘。葛は通称で本名は坂井子。幼少期は年相応に無邪気で舌足らず、天正記終盤では母・お藤に似た年頃の女性に成長したが、性格は相変わらず無邪気で穏やかだが、それは表向きで実際は母・お藤譲りの気性の強さを見せ始める。仙石家のアイドル的存在だが本人は妙算に好意を抱いていた。「紀州征伐」前に仙石家に仕官してきた田宮四郎とは、田宮の図々しい態度により、両親を彷彿させる最悪の出会いを果たも、その後、妙算が離隊したことで気落ちしていたが、田宮の不器用な励ましを受け、立ち直った。それからは田宮の前では素の性格で接して尻に敷くなど、憎からず想うようになり、田宮が四国の有力者の嫡男であることからお藤の一存で婚約が内定したが、直後の戸次川の戦いで田宮は討死してしまう。悲しみに暮れ、権兵衛から子細を伝えられることを望んでいたが、それすら叶わず(一揆の危険性から権兵衛帰国前にお藤の判断で避難を命じられたため)、権兵衛を卑怯者と罵り、不信感を露わにした。その後は互いに距離を置いていたが、お藤の計らいで対面し、三人で京見物をしたことでわだかまりが解けた。仙石家の小諸入封後に下野国の公方の家臣・野口新十郎に輿入れしたが、気性が合わず、数ヶ月で離縁して出戻った(その際には一女を儲けている)。その後、豊臣秀勝の元家臣の佐野正秀と再婚した。 菊太郎(きくたろう) 権兵衛とお藤との間で生まれた仙石家の長男。容姿は母・お藤似。 長次郎(ちょうじろう) 天正記終盤に登場した仙石家の次男。容姿は父・権兵衛似。 左門(さもん) 天正記終盤に登場した仙石家の三男。容姿は兄弟の中では最も権兵衛に似ており、ダンゴ鼻も受け継いでいる。 亀子(かめこ) 権兵衛に登場した仙石家の次女。 萩原国秀(はぎわら くにひで)→酒匂常慶(さこう つねよし) 通称は孫太郎、酒匂家に入った後は彦三。権兵衛の叔父の一門で仙石家の家老。女顔。あだ名は「孫」(後に「彦」)、「孫殿」で、自身の兜の前立てには「孫」の1字をあしらっている。淡路入り以降は髭を蓄えるようになった。 小谷城攻略後に近江に所領を得て家臣団の組織にする権兵衛の下に親類の盛政・正惟と共に仕官、二人がいなくなってしまった後も、妙算と共に将となった権兵衛を支える。古参の一門筋のため、仙石家の副将的存在で仕官当初は頼りなかったが、伊勢長島殲滅戦、長篠の戦いなど数々の激戦に従軍した経験もあって最近では頼もしさを身に付ける一方、川坊には馬鹿が伝染ってきたとも言われていた。その後は、城代として各地を転戦する権兵衛の留守役となっていたため、四国征伐や戸次川の戦いには参戦しておらず、改易処分後は以前から誘われていた酒匂家の婿になった。権兵衛の小田原参陣を聞きつけるも、到着時には虎口陥落後で合戦に間に合わなかったものの、勝手な虎口攻めと連絡の不徹底で大問題になっていたため、(筑後に押し付けられる形で)家老代として諸将にお詫び行脚をするはめになった。権兵衛と同タイプの筑後、籐兵衛が家老ではまずいと思ったのか、小田原後も仙石家に残っている。 仙石盛政(せんごく もりまさ) 通称は治左衛門。仙石本家の一門。長身ながら穏やかな性格で「治の字」と呼ばれる。権兵衛と共に各地へ転戦し、長篠の戦いでは味方の不甲斐無さから敵将との一騎討ちを行いかけた権兵衛を諌め、総崩れとなった前線から無理やり後退させるも既に深手を負っており、討死した。 堀田正惟(ほった まさただ) 通称は右馬助。秀久の母方の堀田家一門で、権兵衛が領主となってから召抱えられた。丸々とした体格ながら、少々気の荒い性格で「牡馬の右馬っち」のあだ名で呼ばれていたが、実際は三人の中で最も繊細な性格であった。苛烈を極めた伊勢長島殲滅戦後に逐電、長篠の戦いの後、激痩せした姿で盛政の墓前に訪れていた。 その後は、本願寺の一向衆に参加しており、本願寺降伏後は高野山で「南朝の落胤」と称して浮浪者の群れに紛れていたが、そこで改易され高野山に入った権兵衛と再会する。過去の逐電の件を処罰されるかと思い、恐怖していたが権兵衛にその意思がないことがわかると高野山の案内役を買って出る。すべてを失った権兵衛に以前は我武者羅な感じが怖かったと本音を吐露し、権兵衛からも以前は周りを見る余裕がなかったと謝罪を受けるが、自由な生き方が合ってると逆に権兵衛を励ました。 津田妙算(つだ みょうさん) 通称は杉ノ坊。右頬にソバカスがある。仙石家領内で粗葉粕太郎(そば かすたろう)の名前で盗みを働いていた所捕縛され、その隠れた才能を見抜いた権兵衛に登用された。 クールで物臭だが、内に情熱を秘めている。鉄砲の名手で、揺れる船の上で正確に敵に射撃したり、銃身に二つの弾丸を装填して放ったりと妙技が光る。一時は同じ鉄砲の名手である織田家重臣・明智光秀からも勧誘を受けた程である。その正体は、紀州根来衆津田氏の一族で、一族でも白眉の才と言われていた。砲術の師は「雑賀重秀」。 第二部の雑賀攻めの際は師・孫市と主・権兵衛の間で揺れて一時家出したが、気持ちにケリをつけ仙石家に戻ってきた。以後は、孫太郎と共に各地を転戦する権兵衛を補佐しており、副将として城番を務めることも多い孫太郎と違い常に権兵衛と行動して馬廻を務めている。第四部の「紀州征伐」では幼馴染の大杉と再会し、「雑賀孫市」による秀吉の暗殺を阻止、代償として銃を捨てる決意をする。孫市の代わりに狙撃手として出頭するが、自身よりも先に大杉が罪を被って自害したことを知ると、根来の復興という大杉との約束を果たすため、涙を流しながら権兵衛に暇乞いした。 小田原征伐では、覆面を被って「覆面太郎」を名乗って正体を隠したまま加勢(ただし権兵衛を始め、馴染み深い仙石旧臣にはバレバレであった)。権兵衛が事前に”こんな事もあろうかと”一丁だけ用意してあった鉄砲を借り受け、往時と変わらぬ腕前を披露して早川虎口陥落に貢献した。戦後は、仙石家の元同僚達に帰参を乞われるも、戸次川の戦いの戦死者慰霊の旅に出た。 仙石治盛(せんごく はるもり)→仙石久次(せんごく ひさつぐ) 通称は右衛門、後に左近。治右衛門の家に養子に入った。治左衛門同様権兵衛からは「治の字」と呼ばれる。時折、お付きをしているが大抵は川坊と共に庶務方に属している。第四部からは久次に改名しているが、あだ名は変わらず「治の字」。九州征伐では急造の讃岐の軍勢を統率するため仙石隊の副将として従軍、「戸次川の戦い」では緒戦は後陣の元親隊の目付として伏兵の上井・樺山勢を撃退したが、敗戦が決定的となると軍監としての取りまとめも放棄する権兵衛を「将器なし」と非難しつつ、権兵衛のしぶとさを信じる者はついて参れと兵を鼓舞した。その後の逃走で負傷して療養中であったが、改易処分時には一番武功として手厚い恩賞を受けた。後日談では数十年後に後藤又兵衛と共に戦った後、晩年は水野勝成の客将として過ごしたという。 川爺(かわじい) 権兵衛の守役。斎藤家にいた権兵衛のじいや的存在だったが、物語冒頭で稲葉山城陥落の際に流れ矢に当たり、権兵衛の前で戦死した。 小説の『センゴク兄弟』でも「河原源五左衛門」の名で登場し、作中でも川坊に「源五左衛門」と呼ばれる。 川長右衛門(かわちょうえもん) 川爺の孫。当初は「川坊」と呼ばれ、権兵衛が領主となってからの仙石家を盛り切りする家令的存在。権兵衛が安心して戦場へ行けるように計らう他、口うるさく他の家臣の言いにくいことを秀久に言う立場でもある。川爺を「おじいさん」と呼んでいた。父と兄は地元村の争いによって死んだと言っている。改易処分後は、仙石夫妻を気遣ってか長年の所務に疲れたと言い、今後は趣味の囲碁で生計を立てる予定であることを伝えていた。その後、囲碁の指南役をしていたある日、再起を目指して小田原に向かう権兵衛の訪問を受け、軍資金の算用を依頼され、協力する。結局小田原後も仙石家に残っているようだ。 淡路国に入国した際、大平殿からは「川村殿」と呼ばれていた。 川兄(かわにい) 川爺の孫、川坊の兄。名は源太右衛門。仙石隊の右筆。淡路入りの頃から多く登場し始める。解説本ちぇんごくにて、その仕官の様子が描かれた。 後藤基次(ごとう もとつぐ) 通称は又兵衛。小寺家家臣だったが、主君の官兵衛が捕縛され羽柴家で裏切り者扱いとなり所在を無くしていたところを権兵衛に声をかけられ一時、仙石家に属することになった。 仁江(じんこう) 備中高松城攻め中に仙石隊に仕官してきた伊賀の忍衆。他の隊が間者の可能性を疑い、仕官を拒否する中、冠山城攻略を条件に権兵衛が受け入れる。仁江が発案した水の手切りは失敗に終わったものの、その後の戦働きで挽回した。大言壮語しがちなことを差し引けばそれなりに使える忍びである。 本能寺の変が起こり、山崎の戦い前に再び仙石隊の陣中に現れ、京近辺の地理に精通してることを見込まれ羽柴軍に陣借りという形で加勢、加藤光泰率いる翡翠隊の案内役を務めた。その後も行商を装い仙石隊との縁から時折、情報を売りに来ている。 間島氏勝(まじま うじかつ) 播磨国衆。権兵衛が淡路島へ渡海する際にいつも自船で送り届けていた。淡路で菅達長が蜂起した際には権兵衛に知行と引き換えに加勢するよう要請を受けており渋々、受諾した。以後は仙石隊と行動を共にすることも多く、賤ヶ岳の戦い後には約定通り岩屋城を拝領する。しかし本人は仙石家の家臣ではないと事ある毎に強調していた。権兵衛の讃岐転封以降は別行動となった模様。 大平殿(おおひらどの) 仙石家の家臣。本領から動けない川坊に代わり、淡路の庶務を担当する人物。四国出身でその後、仙石家の讃岐転封にも同行している。後に仙石家に仕える大平伊賀守國祐と同一人物かは現在まで不明。 言葉の前に「あー」、「うー」と前置きする癖があり、真似しやすいのか皆に真似される。改易処分後は、高齢であるためか隠居した。 森(仙石)久村(もり ひさむら) 通称は権平。阿波水軍を率いる森家の一門衆。幼馴染の勘解由、覺右衛門とは義兄弟の契りを交わした仲で常に三人で行動している。森家から織田家(羽柴家)への人質として仙石隊で身柄を預かることになった。人質の身ながら秀久を尊敬し「仙石」姓を名乗り、もともと容姿が権兵衛に似ていたことで名実ともに「仙石ゴンベエ」となる。 引田の戦いでは権兵衛からは一門衆と同様に扱われ、伏兵部隊の部隊長に抜擢され地の利を生かして長宗我部の先遣隊を撃退する。しかし元親率いる本隊の策により仙石隊が窮地に陥ると殿を買って出て、権兵衛も若き日の自分と重ねるほどの勇猛ぶりを見せるも、影武者として敵方の注意を引き最後は多勢に囲まれ討死した。 森(仙石)久春(もり ひさはる) 通称は勘解由。森三人衆の一人。幼馴染の権平、覺右衛門とは義兄弟の契りを交わした仲で常に三人で行動している。森家から織田家(羽柴家)への人質として仙石隊で身柄を預かることになった。人質の身ながら秀久を尊敬し「仙石」姓を名乗る。引田の戦いでは権兵衛からは一門衆と同様に扱われ、伏兵部隊の部隊長に抜擢されるも最後は権平に付き合って殿を務め討ち取られた。 森(仙石)久武(もり ひさたけ) 通称は覺右衛門。森三人衆の一人。幼馴染の権平、勘解由とは義兄弟の契りを交わした仲で常に三人で行動している。森家から織田家(羽柴家)への人質として仙石隊で身柄を預かることになった。人質の身ながら秀久を尊敬し、「仙石」姓を名乗る。引田の戦いでは権兵衛からは一門衆と同様に扱われ、伏兵部隊の部隊長に抜擢されるも殿を務めることになった権平と勘解由からはその身を案じられ、逃がされる。二人の戦死を目の当たりにし、一時は後を追おうとしていたが権兵衛の説得に思い留まり仙石家に仕えることになった後は、砂治と共に仙石隊の武勇の象徴となっている。重臣として「紀州征伐」、「四国征伐」、「戸次川の戦い」にも従軍しており、緒戦は後陣の元親隊と共に伏兵の上井・樺山勢を撃退、敗戦が決定的となると権兵衛を護りながら逃走を成功させた。改易処分後には武功を評価され、前田家に仕官した。 森村吉(もり むらよし)→仙石筑後(せんごく ちくご) 通称は石見守。口癖は挨拶の際の「ドモドモ」。元は三好家臣で阿波水軍を率いる森家一門・森元村の子で、織田家(羽柴家)への人質として息子の森権平らを引き渡し、一族の居城土佐泊城に権兵衛らを招き入れる。引田の戦いで権平をみすみす死なせてしまったことを謝罪する権兵衛に、既に仙石姓を名乗っていたからには仙石家の子と言い逆に権兵衛を励ます。四国征伐が始まると、秀長・信吉率いる阿波方面軍を土佐泊城に招き入れ、そのまま寄騎として先導役を務める。四国征伐後に仙石家との縁から「仙石」姓を授与されて家老となり、引田城主になるが、仙石家が改易処分となると領地も失い、蜂須賀家臣となっていた実家に戻ったが、権兵衛が高野山で修養している時期に訪れ、舟乗りの経験として「時に嵐に遭わにゃあ幸せを味わえんのですわ」と言い、再仕官を申し出た。固辞する権兵衛だったが、弟子と称してそのまま居座り、その後も旧臣らが続々と帰参したため、権兵衛と行動を共にし、小田原征伐では仙石隊の副将として従軍している。一城の主らしく配下をまとめる術に長けるが、他隊へのお詫び行脚をすべて孫太郎に押し付ける、権兵衛が人事不省に陥っている間に戦勝の宴を開き続け戦費を使い果たすなど、家老としてはいささか問題あり。その後、仙石家が信濃で大名に復帰するとそのまま家老となり、権兵衛に近侍している。 外見のモデルは、ケンドー・コバヤシ。 田宮保富(たみや やすとみ) 通称は四郎。第四部から登場。一人称及びあだ名は「某(それがし)」、家中では「田の字殿」とも呼ばれた。三好家臣の阿波田宮荘の当主「田宮一富」の四男で元々は仏門に入っていたが、還俗して三好三郎の仲介で仙石家に仕官した。仏門に入っていたため、女性への免疫がなく葛に一目惚れしており、妙算からは“太々しい性格が仙石家向き”と評されている。仙石家では有力者の子息ということから馬廻見習いとなったが、「紀州征伐」の際に別離した妙算の代わりに権兵衛の背を守ることを誓い、その後の初陣となった湯川党との過酷な山中戦を戦い抜いたことで武士として大きく成長した。四国征伐後、三兄は病弱、次兄の横死や長兄が阿波での一揆に加担、廃嫡されたことで、豊臣家中でも有力大名となった仙石家に仕える保富が家督を継ぐこととなる。本人は突然の家督相続に困惑する中で、長兄の一揆加担で失った阿波の所領を仙石家の讃岐の領地で補填することになり、権兵衛には大恩を受ける。 権兵衛に命じられた間者任務のために斎藤に従い、府内に潜入。連絡役として府内と讃岐を往復する内に元々、美形であったらしく、髪も伸び、成長期を迎えて端正な顔立ちとなり、家中の女子の人気を博す。その頃には葛とは(保富は嫌われていると思い込んでいたが)相思相愛の間柄となっており、本人も知らずの内にお藤に認められて葛との婚約が仙石一家内で内定する。権兵衛は父親として保富が婿となることをまだ認めたくなかったが、仙石家の家紋入り兜を贈り、田宮家の一族郎党衆を率いるよう命じるなど一門同然の待遇を受ける。府内に上陸してからは乗馬に苦戦する中で身分を偽った長宗我部信親と出会い、指南を受けている内に信親の人柄に触れて「(仙石家臣ながら)長宗我部家に惹かれちまいそうで」と束の間の友情が芽生え、その後、九州の地理に詳しいことから豊前の黒田勢への連絡役という大任を全うし、結果的に殿を務めた信親の危機を救い、その際に正体を知った。「戸次川の戦い」では仙石・十河間の伝令役として布陣、中盤に島津(家久)軍の釣り野伏せで猛攻を受ける信親隊への援軍を命じられ、同じく信親隊の加勢に駆け付けた権兵衛の本隊と共に島津軍を撃退、「武士になって(みんなと一緒に戦えて)良かった」と感動する。しかし神降りした家久軍の猛攻の前に四国連合軍は壊乱する中で信親を見捨てて逃げることが出来ず、「葛様が好きすぎて、卑怯を背負って合わせる顔がありやせん」と権兵衛に兜を返して信親の加勢に向かったが、致命傷を負い、権兵衛への感謝と葛を想いながら討死した。 不知地勝助(いさじ かつすけ) 第四部から登場。あだ名は「砂治」。仙石家臣で馬廻を務める。武勇に優れ、勘の鋭い「阿和地(ワジ)」という名の愛馬を持つ。馬廻として「紀州征伐」、「四国征伐」、「戸次川の戦い」にも従軍しており、緒戦は後陣の元親隊と共に伏兵の上井・樺山勢を撃退、敗戦が決定的となると権兵衛を護りながら逃走を成功させた。改易処分後は流浪した後、再起を目指して小田原に向かう新生仙石隊に帰参した。一度仙石家を離れている孫太郎、川坊を別にすれば小田原時点の仙石隊で最古参で、馬廻りとして権兵衛の側近くに仕え、ある程度の直言も許されている。 佃弥之助(つくだ やのすけ)、草川助左衛門(くさかわ すけざえもん) 佃は第三部、草川は第四部から登場。仙石家の家臣でお調子者の二人組。保富の先輩としてお節介を焼く。一芸は前者は大平殿と仙石筑後の物真似、後者は残りわずかの樽の酒が何杯でなくなるか当てられるというもの。仙石家が改易処分となると浪人になったが、権兵衛が高野山で修養している時期に元家臣の中では最初に帰参し(他の旧臣によれば行く宛がなかった)、斎藤から託された田宮の遺髪を権兵衛に届けた。権兵衛の警固として寄宿先の門番などをしているが、相変わらず勤労意欲には乏しいものの、島津軍の恐怖からうなされてもいた。 奥田半兵衛(おくだ はんべえ)・奥田段兵衛(おくだ だんべえ) 第四部から登場。仙石家の家臣で馬廻を務める兄弟。人見知りで無口だが、共に弓の名手。「紀州征伐」での湯川党との戦いでは敵将、田中重太夫を討ち取り、「戸次川の戦い」でも島津兵と揉み合いになった権兵衛を救うなどいぶし銀の活躍が光る。仙石家が改易処分となると浪人になったが、優れた能力を持ちながら人見知りで無口な性格からどこにも仕官出来ず、権兵衛が高野山で修養している時期に数名の元家臣と共に帰参した。 斎藤長光(さいとう ながみつ) 通称は小豆。第四部から登場。仙石家の家臣で教え子の田宮からは「旦那」と呼ばれる。「紀州征伐」での湯川党との過酷な山中戦で、将兵が疲労困憊に陥る中で妙算もおらず、孤立する権兵衛に話しかけ、権兵衛も幾分か救われた。実は「金ヶ崎の戦い」では明智隊所属として殿に参加していたが、明智隊出身だと肩身が狭いことから周囲には隠してたほどの歴戦の武士。その歴戦ぶりを買われて小隊長に抜擢され、保富の才覚を見抜いて自身の補佐として指名した。以後は田宮の指南役となっており、湯川党との戦いで権兵衛からの信頼を篤くしたことで後の九州征伐前の間者任務を直々に命じられ、保富と共に九州へ赴く。反物商人として路上売りから始めて、商才を発揮して府内でそこそこの店を構えるまでになり、商売をしつつ情報収集に励んでいた。四国勢が府内に上陸すると大友家の内紛や島津軍の脅威など内憂外患である現状を権兵衛に報告、島津家で真に恐ろしいのは末弟の家久と警告したが、皮肉にも権兵衛の戦意に火をつける結果となってしまった。島津軍が豊後へ侵攻してくると仙石隊には合流せず、引き続き商人に扮して城下を監視する役目を負うが、「戸次川の戦い」で田宮を喪い、仙石隊の逃亡兵から田宮の遺髪を預かる。仙石家が改易処分となるとそのまま商人として生計を立てており、道中出会った佃・草川に田宮の遺髪を託した。 文禄の役では名護屋に出稼ぎに来ており、権兵衛と再会。その際に田宮の遺髪は本物ではないことを話すが、それは権兵衛も理解しており、「あれはええ嘘」と感謝される。その後は権兵衛からの依頼を受け、前田家への借銭をとりなした。 鷲見次久(すみ つぐひさ) 通称は籐兵衛。第四部から登場。権兵衛の幼馴染でお蝶の兄。権兵衛のことは幼名の「阿勝」と呼ぶ。伊勢国の天野家に仕えていたが、権兵衛が改易されて黒岩村に帰郷した話を息子(九市郎)から聞きつけ、鞍馬寺に逗留している権兵衛のもとを三十年ぶりに尋ねる。生来は臆病者で藤兵衛の真似して明るく振舞ってきただけ、と卑下する権兵衛に自分は権兵衛より優れているがそれでも十万石の大名にはなれなかったと言い、戦国大名は権兵衛に”向いている”と発破をかけて立ち去った。その後、権兵衛が再起を目指して小田原に向かうことをと聞きつけると、美濃で浪人衆を集めて九市郎と共に仙石隊に加入。東国の事情に精通しており、権兵衛の幼馴染ということで馬廻りの一員となり、仙石筑後が言い辛いことも直言するなど兄貴分として権兵衛を支える。早川虎口攻めでも筑後と共に奮戦し、仙石家の再起に貢献、戦後は「残る人間、乱世の終わりを見届ける」と伝え、元の場所に戻って行った。 岡田平内(おかだ へいない) 高野山にいた浪人で、後に仙石家臣。紀伊国那賀郡岡田荘出身。名前がなく、権兵衛にはその境遇から「無用ノ介」と呼ばれる。権兵衛を超える体躯を持つ元僧兵で、幼少期に村の諍いにより天涯孤独の身となり、僧兵となって居場所を見つけた折には豊臣家による僧兵解除の命で再び浪人となって高野山で身投げしようとしていた折に権兵衛(萩原権ノ助と名乗り、身分を隠していた)と出会う。元織田・豊臣家臣だった権兵衛に殺意を抱くが、自身の不幸な身の上話を聞かせた権兵衛が「この世に無用なのはわしだけじゃなかった」と勝手に救われていることに怒り、身投げを止めて暫く権兵衛に付きまとう。その後、旧臣が続々と帰参したことで仕方なく権兵衛が素性を明かすと、以前に権兵衛の寄宿先に中傷の落首をしたのは自分だと名乗り出たうえで謝罪、いずれ罪を償うと言い、下山する権兵衛と別れる。その後、藤兵衛が浪人を募集していた際に合流し、「岡田平内」の名で新生仙石隊の一員となった。仙石家に仕官してからは己の不足を学ばんとする謙虚な姿勢で川坊からは「殿よりよっぽど有用」と評価され、小田原城早川虎口攻めでは、権兵衛に救われた恩を返すべく、危険な付け入り策(撤収する敵兵に扮して城内に侵入、開門する役目)に志願する。重傷を負いながらも見事、付け入りの任を果たすも後続の筑後や藤兵衛が頼りなかったせいで、死ぬに死にきれなかったと生き延びた。その後は、教養の足りない仙石家臣団にあって権兵衛の古渓禅師の受け売りを即座に理解するなど聡明な一面を見せ、軍師的立場となっている。 佐野正秀(さの まさひで) 通称は半四郎だが、ヒゲ黒の愛称で呼ばれている。豊臣秀勝の家臣で後に仙石家長女・葛の夫。秀勝の未亡人である江の徳川秀忠への輿入れの際に随行員の一人として付き従っており、その際に警固役であった権兵衛と面識を得て途中、小諸に立ち寄った際にお藤や葛とも知り合う。その後、権兵衛が京に出仕していた時期にも小諸の統治を代行していたお藤を支えるなど、仙石家の面々と誼を深めて、お藤から葛の再婚相手に指名された。
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