仙石家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:59 UTC 版)
小諸藩の藩祖は、豊臣秀吉の家臣・仙石秀久である。秀久は九州平定の前哨戦である戸次川の戦いでの敗戦で改易後、小田原征伐で功績を挙げ、天正18年(1590年)に秀吉から信濃国小諸5万石を与えられ、翌年に入封した。秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠率いる上田城攻めの東軍別働隊に属したため、戦後も領地は安堵された。慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を開き幕藩体制を開始した結果、秀久が小諸藩の藩祖となった。初代藩主となった秀久は精力的に領国開発を行い、小諸城と城下町の発展に寄与した。小諸城外郭の濠を掘り、用水を開削した。さらに中山道の伝馬・駄賃の制度を定め、宿場町を整備して笠取峠に松並木を植えたが、この松は現在も存在して長野県天然記念物となっている。他にも小諸城の改修、城下町建設などに尽力したが、このように秀久の連年の賦役で慶長15年(1610年)頃には小諸の田地は荒廃して佐久郡の農民は一郡逃散する有様だった。 慶長19年(1614年)、秀久が死去した。跡は子の忠政が継いだ。忠政は父の苛政により逃散した農民を帰村させる事に尽力した。同年からの大坂の陣では徳川方に与した。元和3年(1617年)には各村の収量表示を貫高制から石高制に改めた。元和8年(1622年)、関ヶ原・大坂の陣における仙石家の功績と忠義により、1万石を加増されて6万石で信濃上田藩へ移封され、小諸藩は一時、廃藩となった。
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