作品成立・主題
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安部は、『砂の女』執筆のきっかけについて、弘前大学での講演旅行の車中で週刊誌を読んでいたところ、飛砂の被害に苦しめられている山形県酒田市に近いある海辺の部落(浜中)の、グラビア写真を見た。安部は、その瞬間に「いきなり〈言葉〉の群が、何処からともなく芽をふき、生い茂り、たちまちぼくの意識を完全に占領してしまっていた」と振り返っている。 なお、『砂の女』は、短編小説『チチンデラ ヤパナ』(1960年)を長編化したもので、第一章の1から7の半ばまでは『チチンデラ ヤパナ』と重なっている。安部は、同年9月1日に新潮社出版部の谷田昌平から、『チチンデラ ヤパナ』を発展させた「純文学書下ろし長編小説」の執筆依頼を受け、2年近くかけて『砂の女』を完成させた。 安部は、砂の研究に生涯をかけたあるヨーロッパ人について言及し、砂の神秘や砂の魔力を、「とらえずにはいられないという、人間精神の根底にひそむあるものを、たくまずして暗示しているのではないでしょうか」と述べ、自身もそういった本を書いてみたいという思いで、『砂の女』を書き始めた。また、〈砂〉について以下のように語った後、小説『砂の女』では「現代のなかの砂」を描き、映画『砂の女』では「砂のなかの現実」を描いたものといえると解説している。 「砂」というのは、むろん、女のことであり、男のことであり、そしてそれらを含む、このとらえがたい現代のすべてにほかありません。だが、小説を書きあげても、「砂」はまだ私をとらえたまま、はなしてくれようとしませんでした。 — 安部公房「砂のなかの現実」 また、『砂の女』で追求した〈自由〉の主題について安部は、以下のように語っている。 鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。 — 安部公房「著者の言葉――『砂の女』」
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作品成立・主題
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構想の母胎は、三島がニューヨークで見たロイヤル・バレエ団(旧・サドラース・ウエルス・バレエ団)の『眠れる森の美女』終幕のディヴェルティッスマンからの着想である。当初は『月のお庭』という題にする予定だったが、『薔薇と海賊』となった。 三島は、『鹿鳴館』を「ロマンチックな芝居」だとすれば、『薔薇と海賊』は、〈私流にずつとリアリスティックな芝居〉だと述べ、『薔薇と海賊』の主題に関わる〈薔薇〉については、次のように解説している。 世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。本曲の女主人公楓阿里子は、身を以て、生活を犠牲にして、この不合理に耐へて来た女である。それがこの不合理をものともせず、「世界は薔薇だ」と言ひ切る、少々イカれた青年の突然の訪問をうける。二人の間に恋が生れなかつたらふじぎである。 — 三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」 また眼目は、ラブ・シーンにあるとし、その感情は「真率で、シニシズムも自意識も羞恥も懐疑も一つのこらずその場から追つ払はれてゐなければならない」として、以下のように、説明している。 それは甘い、甘い、甘い、糖蜜よりも、この世の一等甘いものよりも甘い、ラヴ・シーンでなければならない。この喜劇の中で、ラヴ・シーンだけは厳粛でなければならない。なぜならこの芝居における人を笑はせる要素はすべて、それによつて瀉血療法のやうに、現代人の笑ひたい衝動の鬱憤を全部瀉血せしめて、以て、ラヴ・シーンの純粋性を確保するために、企まれたものだからである。私はわざと本曲に、「喜劇」と銘打つことを避けた。 — 三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」 1970年(昭和45年)10月に再演された際に三島は、主演の村松英子に、「随分前に書いた芝居だけど、僕はいつも25年は早すぎるのかなあ」、「最近ますます、何て世の中は海賊ばかりだろうって思うよ」と語っていたという。
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作品成立・主題
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三島由紀夫は、公安活動という〈地味で、扱ひにくい題材を用ひて、観客をアッといはせるやうなスリルに富んだ、面白い芝居を書いてやれ〉という意気込みだったとし、素材が地味だから、背景の事件を派手にしたと述べている。 芝居といふものは、絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ、といふ確信は、近松門左衛門が、「虚実ハ皮膜ノ間ニアリ」と言つてゐるとほりである。この「喜びの琴」も例外ではないのに、かた苦しい一面ばかりが世間に喧伝されてしまつたと思ふのである。「喜びの琴」は、扱つてゐる世界が、公安警察といふぢみなものであるだけに、それだけに、芝居の技巧はいつそうはでにしてある。技巧だけからいへば、私の芝居の中で、もつとも華美な部類に属するといへるかもしれない。 — 三島由紀夫「私がハッスルする時―『喜びの琴』上演に感じる責任」 また三島は、『喜びの琴』の主人公の若い巡査・片桐を〈一面気の毒な存在であるが、一面幸福な人間である〉とし、彼が受ける裏切りと、作品主題について以下のように解説している。 彼はその純粋な生一本な心情によつて、誰からも愛されてゐる。同僚から愛され、上司から愛されてゐる。しかし彼は、もつとも信頼する上司から裏切られて、見るも無残な目に会ひながら、なほその裏切りの彼方から自分が愛されてゐることに気づかない。それはもつとも厳しい、もつとも苦い愛であるが、彼は知らずに(怒り憎みながら)、この愛のなかを通りぬける。片桐ばかりではない。われわれはしじゆう体を貫いてゐる宇宙線に気づかぬやうに、この種の愛、この種の恩寵に気づかないのである。片桐はこの愛によつて、一旦、すべての目的と理想を失つた地獄へ叩き込まれる。そして川添巡査の琴の音の力で、地獄から這ひ上るとき、はじめて彼は自覚的な人間になるのである。この琴の音が何であるかについては、私はわざと注解を加へない。 — 三島由紀夫「『喜びの琴』について」 なお、三島は1963年(昭和38年)2月に評論『林房雄論』を発表しているが、同時期に発表された他の作品との関連について、〈僕の考えを批評の形で出したのが『林房雄諭』だし、小説にしたのが『午後の曳航』や『剣』で、『喜びの琴』はその戯曲といふことになります〉と述べている。
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作品成立・主題
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安部公房は、『幽霊はここにいる』の成り立ちについて、「幽霊という観念、というか、観念としての幽霊というか――それがだんだんつきつめられていって、ひどく物質的な幽霊になった」とし、現代の世の中の動きが、すべて「商品価値というものに解消していく」状況に触れつつ、そういう動向のなかに、はまり込んだ幽霊、つまり「実体のない純粋な商品」のことだと説明し、「じつにナンセンスな世界だが、これが現実でね。そこから人間が結局はのがれていないんだということを、一度洗いだして客観視してみようということでね」と説明し、以下のように語っている。 直視すれば、グロテスクな世界なんだが同時にひじょうに、日常的であたりまえのことなので、人々は気づかずに暮らしている。空気みたいに、気がつかずにね――でも、よく考えてみたら、何から何までとにかく商品の世界だ。人間だって商品になってしまってね。それはもう、人間の名声ってなものだって、商品価値をともなわなかったら成立しないわけですよ。マスコミなんていったって、全部やっぱりそれがうごくたびに何処かで資本が蓄積されていってるんだ。あんまり当りまえだから、見えなくなってしまっているけれども、――その、それを当りまえだとして、気がつかずに生きているってことのグロテスクさ、そういうところにひっかかってもらいたいんです。 — 安部公房「稽古場にて――安部公房・千田是也氏にきく」 また、通行人をコーラスに使っている点については、「物体としてのリズムみたいなもの」が頭にあり、ミュージカルらしくないミュージカルというものを意識したと述べている。 さらに安部は、作品内で活躍するのは必ずしも一人だけの幽霊ではないことが分ってもらえるだろうとし、その無数の様々な種類の幽霊たちが、各人の思惑でそれぞれに活躍する様相は、実際この世が、「無数の幽霊たちで充満している」という意味だと説明し、しかし「素朴な合理主義者たち」は、それを〈正体みたり枯尾花〉などと言って、幽霊を軽蔑することを例にとりつつ、「枯尾花はけっして幽霊の正体ではない。樹氷のシンが木の枝であっても、木の枝はけっして樹氷の正体ではないように、枯尾花も幽霊の単なるシンにすぎないのである。幽霊の正体は、もっと複雑なものだ」と主張し、作品主題の〈幽霊〉について以下のように語っている。 この芝居では、はじめ幽霊は、死者の記憶である。死者の記憶がなぜ幽霊になるのかというと、まだ論理化されていないものが、論理化を求めて私たちにせまるからである。論理化されてしまえば、たいていの幽霊は消えてしまう。幽霊とはそういうものだ。ところが、この幽霊が、そのうち商品として金もうけの道具にされてしまう。すべて一度は商品という門をくぐって、社会的存在物になるのが、資本主義社会のしきたりであることを考えれば、幽霊が取引きされたって、なんの不思議もないわけだ。というより、商品そのものが、すでに物質界の幽霊的存在なのではあるまいか。幽霊とはまた、こういうものでもあるわけだ。だが、幽霊の究極的正体については、観客の皆さんの、芝居をみおわってからの究明におまかせしようと思う。 — 安部公房「作者のことば――『幽霊はここにいる』」 演出を担当した千田是也は、芝居の仕組について、「はじめ幽霊というものが歴史的、人間的な意味をもっていたのに、そういう実体的なものが希薄になって、商品としての機能の方がどんどん膨らんでしまう」と述べている。安部はそれを敷衍し、登場人物の深川の空想の中において、「幽霊が意外にリアリスティックな欲望を持っていく」という点に、「人間と人間の関係、どっちが先かという問題の暗示」、「関係のない人間はいない」ということがうまく芝居に出ればいいとし、人間関係の作り出す幽霊の変質、実体がなくなりながら力だけが強くなってゆくという風に、「幻想を再生産する力」を幽霊がもっていると説明しながら、以下のように語っている。 死人というものは、たとえば共同体を存立させてる空間性にたいする時間性というふうにも考えられると思いますよ。死者一般ですね。単に経済的な現象として幽霊的なものにかきまわされているっていうだけじゃなくて、人間というものが、他人を鏡にして自分があるという関係、それから歴史性というものも現代に写しだしてはじめて可能になる。共同体というものも要するにそれを写しだして実体化しうるものが、逆転して、いろんな意味での幽霊がつくりだされ、それがむしろ根元になるということですね。そういう最初から実体化されてしまうというカラクリみたいなところまである程度テーマがのびればいいんじゃないかと思うんです。 — 安部公房(千田是也との対談)「『幽霊はここにいる』再演」 なお、『幽霊はここにいる』は、1957年(昭和32年)5月頃に執筆された未発表小説『人間修行』と、同年12月頃にそれを戯曲化した未発表戯曲『仮題・人間修行』(メモ)を発展させた作品であるという見方もある。
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作品成立・主題
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『友達』は、1951年(昭和26年)に発表された小説『闖入者』を元にした戯曲であるが、テーマやプロットは『闖入者』とは異なっている。なお、1974年(昭和49年)の改訂版『友達』では、登場人物の一家の「祖母」が「祖父」に変更され、「元週刊誌のトップ屋」がなくなり、「婚約者の兄」と「三男」が加わった。また、初出版では、タイトル横に「黒い喜劇」と銘打たれている。 安部公房は、『友達』と『闖入者』の異なる点については、『闖入者』の「闖入者」たちは多数原理(民主主義)を暴力の合理化に利用し、主人公はその多数神話に毒されている故にそれに逆らえず自己矛盾の罠におちいるという「受身の犠牲者」にとどまるが、『友達』の「友達」たちは、主人公の忠実すぎる従僕の役割を引受け、その協調と連帯と和解の原理により、主人公は常に「外面的には優位を保つ」ことが出来るとしながら、以下のように、その関係構造を解説している。 その過剰な忠実さと友情の押し売り、盲目的な連帯への信仰が、クモの糸のように主人公を窒息させてしまうのだ。「友達」たちは、終始、犠牲者の立場をよそおいながら、そして主人公は、あたかも加害者の立場に立ちながら、結果はまったく逆になってしまうのである。この皮肉と、苛立たしさこそ、まさに現代の笑いなのではあるまいか。 — 安部公房「友達――『闖入者』より」 『友達』のテーマについては、「他人とはなにか、連帯とはなにか」だと安部は述べ、共同体原理が全く無効になっている現代における人間の連帯について以下のように説明している。 われわれは被害者であるだけでなく加害者でもありうる。そして、被害者であるか加害者であるかということを区別するものはない。“友達”の主人公にしても、被害者でもあるが、また、ちん入者たちにとっては加害者でもありうるわけです。だからといって、僕は絶望してるわけじゃない。人間の連帯という、すでに回復しえないものを回復しようとするのは絶望的だということを指摘したいんです。連帯とか隣人愛とかいいながら仲間割れしている現状を告発したいんです。 — 安部公房「談話記事 戯曲三本がことしの舞台へ」 また、『友達』の長女は「肉体的な愛」、次女は「精神的な愛」を、「主人公に求め、また与えたいと望む」と説明し、「主人公の立場は、彼女たちの好意と善意を利用しようとすることによって、いっそう複雑なものになる」としている。そして、「次女は、脱出を助けるふりをしただけではなく、本当に助けてくれたのかもしれない。死以外に、もはや真の脱出の道が無かったのだとすれば……」と安部は解説している。 なお、観客の反応については、おそらくこの芝居を観てよく笑うだろうと安部は予想しながら、「しかしこの笑いが舞台に対しての笑いではなく、実は自分を笑っていると感じていただければ、芝居は成功だと思う。皆さん、よく笑って下さい」と述べている。
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作品成立・主題
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「未必の故意 (戯曲)」の記事における「作品成立・主題」の解説
『未必の故意』は、テレビドラマ『目撃者』(1964年)を戯曲化したものである。『未必の故意』『目撃者』は姫島村リンチ殺人事件を素材としている。 安部公房は『未必の故意』の主題について、「孤独の恐怖というものが一種の連帯の幻想をつむぎ出していって“他者”というものをつむぎ出していく、したがって共同体というものは、内的な孤独の投影としてつむがれていくわけだ」とし、ラストシーンに消防団長という人間の、「むき出しの孤独の姿」を描いたと述べている。安部は、「そこまではブレヒト流の客観的な手法で進行してきたものが、最後のカタストロフィーで、ギリシャ悲劇風の内的な進行に変るようにしたんです」と説明している。 また安部は、俳優が「演じる島民」を演じるという構造について、「今度の芝居はある意味では本格的素人芝居ですよ、要するに、役者がやるのではなくて素人が一つの演劇的な構築を作らざるを得なくなっているわけでしょう。だから、そういう現実の場で一つの演劇が作られてゆくプロセスを俳優がやって見せるということでもあるんだよ。だから、これは〈演劇とは何か〉という主題でもあるんだよ」と述べ、それは「極端に言えば、二重に演劇を演じなければいけないということ」で、俳優がそれを「生理的」に把握しなければならず、「自分自身をつかまえると同時に、完全に自分でない反自己というか、自分から完全に離れたものとを同時に把握しないとあのリアリティが出ない」とし、俳優の演技の二重構造について解説している。そして作中の〈裁判ごっこ〉(模擬裁判)を通じて、俳優が「演ずるとは何かを演ずる」という劇中劇のその手法について、以下のように解説している。 文学では書くこと自体に対する問いかけを書く、という手法は、これまで幾つもあった。芝居ではピランデルロに似たようなものがあるくらいで、そんなにないんじゃないかな。“ごっこ”と言っても、よくあるように、何もないところからゲームを作り出すというのではなく、実際に起きたことをフィクションとして置き替えようとするわけだから、いわば事実の持ってる相対性を逆用することになるでしょうか。 — 安部公房(井川比佐志との対談)「作家と俳優の出会い」 なお、京都労演の際に、登場人物の呼称について身体障害者関係者から抗議文が寄せられた。それに対して、演出の千田是也は1972年(昭和47年)4月、「京都労演」誌上で、『「人間を忘れた未必の故意」におこたえ』と題して答えている。
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作品成立・主題
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安部公房は、『第四間氷期』連載の半年前に作品の構想について以下のように語っている。 技術が自然よりも人間の方に向って進む場合、たとえば、この次にぼくはそういうことを書こうと思っているのですが、一番大きな変り方は――もちろん妄想ですが――水中生活に人間がもどる場合です。それは胎児のときに人間は鰓があるでしょう。人工で海中生活ができるようになる。温度は差がないでしょう。資源は無限にある。海の方がずっと生活が合理的にできる。地球はだんだん暖くなって、北極の氷がとけて、大きな山の頂上だけが残るということにならないとも限らない。人工衛星に乗ってどこかに行くこともできるけれども、人間を加工して水の中に入れて水中生活をするということも考えられる。そうすると人間の感情も変る。同じ人間といえるかどうかもわからないが。 — 安部公房(荒正人・埴谷雄高・武田泰淳との座談会)「科学から空想へ――人工衛星・人間・芸術」 そして連載後、主題に関わる「未来」と現在の関係については、以下のように語っている。 未来は、日常的連続感に、有罪の宣告をする。この問題は、今日のような転形期にあっては、とくに重要なテーマだと思い、ぼくは現在の中に闖入してきた未来の姿を、裁くものとしてとらえてみることにした。日常の連続感は、未来を見た瞬間に、死ななければならないのである。未来を了解するためには、現実に生きるだけでは不充分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならないのである。 — 安部公房「あとがき」(『第四間氷期』) 安部は、「現在に、未来の価値を判断する資格があるかどうかはすこぶる疑問で、現在にはなんらかの未来を、否定する資格がないばかりか、肯定する資格もない」と思うとし、「真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向うに、〈もの〉のように現われる」と考察しつつ、室町時代のような過去の人間の視点から見た現代がどう映るかを、現代人から見た未来に重ねて、「おそらく、残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである。その残酷さの責任は、未来にあるのではなく、むしろ断絶を肯んじようとしない現在の側にあるのだろう」と語り、以下のように説明している。 未来が「今日」のつみ重ねによって作られたとしても、未来が「今日」に属しているとは限らない。たとえば、石器時代の人間が現代に現われたとして、彼は現代を地獄だと思うだろうか、それとも極楽だと思うだろうか。どう思ったところで、この場合、裁いているのは、彼ではなく、やはりあくまでも時代の側なのである。(中略)生きるということは、けっきょく、未来の中に自分を思い描くことかもしれない。そして未来はかならずやって来る。だが、そのやって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらないのだ。 — 安部公房「『今日』をさぐる執念」 また、『第四間氷期』を執筆中、安部自身が未来との「断絶」の残酷さに苦しめられ、その残酷さから完全にのがれることが不可能なことを知ったとし、以下のように語っている。 この小説から希望を読みとるか、絶望を読みとるかは、むろん読者の自由である。しかしいずれにしても、未来の残酷さとの対決はさけられまい。この試練をさけては、たとえ未来に希望をもつ思想に立つにしても、その希望は単なる願望の域を出るものではないのだ。(中略)この小説は、一つの日常的連続感の、死でおわる。だがそれはなんらの納得も、またなんらの解決をも、もたらしはしない。あなたは、むらがる疑問に、おしつつまれてしまうことだろう。ぼく自身、いまだに分からないことが沢山ある。 — 安部公房「あとがき」(『第四間氷期』)
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作品成立・主題
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安部公房は、『砂の女』の主人公は〈逃げた男〉だったが、『燃えつきた地図』では逆に〈追う男〉を主人公にしたとし、「都市……他人だけの[砂漠……その迷路の中で、探偵はしだいに自分を見失っていく。あえて希望を語りはしなかったが、しかし絶望を語ったわけでもない。おのれの地図を焼き捨てて、他人の砂漠に歩き出す以外には、もはやどんな出発も成り立ち得ない、都市の時代なのだから……」と説明している。 そして、失踪者と捜索依頼者との間にできる「新たな関係」をめぐり、現代社会での人間関係について触れて、「農耕社会での人間関係というのは、どちらかというと宿命論的な結びつきだ。それが産業社会になってくると、もっと可変的な、あいまいなものになる。では農耕社会より、結びつきが薄いかというと、複雑になったというだけで、本当はむしろ濃いんだな」と語っている。 都市の本質のイメージが何故〈悪夢〉として形象されるのかについては、「すでに無力になった共同体の言葉で、共同体の対立物である都市を語ろうとするのだから、そのイメージが悪夢めいてくるのも、しごく当然のことなのだ」と説明し、孤独に悩んでいる群衆は都市の言葉を持たず、「内部に他者を喪失した状態」に堕ちこんでいるとし、そこからの「脱出」は都市への方向にしかなく、希望は容易くなく絶望は続くが、「その絶望に向かってとにかく通路を掘るということ」が、「人間の営みというか、仕事なんじゃないかな」と安部は述べている。また、「都市化」の急速な進行に伴う自殺の増加が「時代病」とされていることを指摘しながら、「なんとか、都市の言葉を見つけだし、都市の孤独を病気だと錯覚している、その錯覚に挑戦してみたい。いま必要なのは、けっして都市からの解放などではなく、まさに都市への解放であるはずだ」と説明している。 〈失踪〉という主題に関しては、「失踪とは、やはり現在の共同体の中で疎外感をもっている者が逃亡することだと思う」とし、以下のように語っている。 失踪不可能というか、失踪が意味をなさないほど自由な共同体ができたとき……まあ、これは実際にはあり得ないのだけど。失踪によってより強い共同体に入る。つまり失踪じゃなくて、失踪から帰ること。このことを「砂の女」で直接にテーマにしたんだけれども、帰るということと、逃げるということは、結局意識の中で裏返しになっているだけで、同じことになる。 — 安部公房「〈インタビュー 安部公房氏〉『波』のインタビューに答えて」 そしてそれとは違う、もっと意識的な失踪の例として、或るニューヨーク州知事で将来有力な大統領候補とまでいわれた男が失踪し、ニューヨークでタクシー運転手をしていたというアメリカの記事に触れて、この男のような失踪は、かなり「能動的な」失踪だと述べている。
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作品成立・主題
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『人間そっくり』は、短編小説『使者』(1958年)と、テレビドラマ『人間そっくり』(1959年)から長編小説化されたもので、事前エッセイでの予告表題は「人間もどき」であったという。 安部公房は『人間そっくり』の主題について、人間の胸に付ける「バッジ」、さらには「心のバッジ」ともいえる「人間の帰属本能」(小は家族から、大は民族にいたるまでの)に対する、「意地の悪い解剖学的所見あるいは挑戦である」とし、「トポロジー(位相幾何学)理論」を単に飾りとしてだけでなく、テーマを展開させるための「重要な手段」として、小説の中に取り入れてみたと解説している。
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作品成立・主題
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第一景「鞄」は、ラジオドラマ『男たち』(1968年)を戯曲化したもので、第二景「時の崖」は、ラジオドラマ『チャンピオン』(1963年)を小説化した『時の崖』(1964年)を、さらに戯曲化したものである。第三景「棒になった男」は、小説『棒』(1955年)をラジオドラマ化した『棒になった男』(1957年)を、さらに戯曲化したものである。 舞台にかける配列は、書かれた順序とそっくり逆になっているが、安部公房によると、3つの景は最初から1本の作品にまとめるつもりで計画的に書いたわけではないが、意識したときには、この3つはすでに1つの作品として目の前に在り、何のためらいもなく、ごく必然的にこの組み合わせを受容していたという。 また安部は、「鞄」「ボクサー」「棒」は各景を通じて必ず同一の俳優が演じなければならないと指定し、この3つの役を演じる俳優が一見無関係に見える各景を有機的に結びつけ、隠された内部の主題をあらわにする「鎖の役目」をすると説明している。 戯曲全体のねらいについては、「お化けですよ。人間以外の化けものが日常的に存在している現代の状況をそのままの形で出す。舞台を鏡のようにして、観客の一人ひとりの実像を写し出すことをねらっています。観客とじっさいには対話はしないが、一種の対話劇です」と説明し、聞き手の金田浩一呂が、第一景では、カバンになった男より、そのカバンをあけることをこわがる女性たちへの風刺劇ともとれるという感想を述べたことに対しては、「いや、舞台にかければわかりますよ」とだけ答えている。
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作品成立・主題
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「緑色のストッキング」の記事における「作品成立・主題」の解説
『緑色のストッキング』は、1955年(昭和30年)に発表された短編小説『盲腸』をテレビドラマ化した『羊腸人類』を、さらに戯曲化したものである。また安部は、タイトルを「緑色のストッキング」か、「夢は荒野を……」にするか迷ったという。 原形の小説『盲腸』を書いた頃の発想について安部公房は、実際自身が戦後の飢餓状態だった時の経験である、戦後満州からの「引揚者」だったことに言及しながら次のように語っている。 こちらは身寄りといいますか、田舎がある人だったらそこで最低限食べるという、よりどころがあった人もいるわけですが、全くなかったために、金もなかったし、実際食えないという状態が現実にあったことから発想したわけです。僕は多少ひねくれているほうですから、自分がそういう経験したという形ではものを書くのはいやで、そういう形をとらないで抽象文学だといわれたわけです。 — 安部公房「周辺飛行――第94回新潮社文化講演会」 『緑色のストッキング』について安部は、世間で話題の「食糧問題」とテーマが重なり合ってはいるが、「これはズーッと前からあたためてきたもの」だと述べ、内容は、「ブラックユーモアなどの滑稽でグロテスクなもの」を主体にした、「人間関係を裏返しに、内臓を切り開くような構成」だと解説している。そして、「草を食ってる人間」が、滑稽なだけでなく、或る瞬間から「ポエジーというか、非人間化した人間の中で、かえって人間性を回復してくる」とし、「存在や形式が異端視されると、その人間が可哀想なんだが、実は異端視している方が……。他者に対する不寛容、偏見につながってくる」と説明している。 また安部は、草食人間が2時間おきに腹から物凄い音を鳴らすことへの我々の嫌悪感や偏見を引き出すため、芝居で実際に不快な音響を効果音に使用したとし、そこには、「一人の人間が、他者に対して仲間として正統なものとして受け入れるか、あるいは異端として排斥するか」というテーマが基本的にあり、それゆえに、実際に「ガスが出る音」が、「非常に重要なモーメント」になるとしている。そして男のもう一つの疎外要素の下着泥棒について以下のように触れつつ、初めは意識していなかった〈ストッキング〉と〈草を食う〉というバラバラのものが、「見えない設計図」があったかのように書いていくうちに繋がったとテーマについて語っている。 その人間がそういう手術を受けて草を食えるようになった。しかし、これもやはり外れです。そして、ここでストッキングの緑と、草なら草というものの緑――緑というもので一つの統一シンボルをこしらえて、緑というと、平和であるとか、自由であるとか、そういうイメージができるわけです。その静けさ、平和、自由、そういう緑色というシンボルが一人の人間を疎外して飲み込んでいくという構造を芝居全体としてはとっているわけです。その中に、下着に対する異常な愛着であるとか、草を食うということから派生する二時間おきに猛烈なガスを噴出するという悲しむべき事態、こういうことで人間が、つまり怪物として人間の中から疎外されていく部分、そこをテーマにしたわけです。 — 安部公房「周辺飛行――第94回新潮社文化講演会」
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作品成立・主題
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『熱帯樹』は、フランスの地方シャトオで実際に起きた事件の話を、三島が朝吹登水子から聞き、そこからヒントを得て書かれたものである。その事件は、シャトオの主の金持貴族と約20年前に結婚した女が、実はその20年間ひたすら良人の財産を狙い、成長した息子に、極くわかりにくい方法で父親を殺させ、やっと長年の宿望を果たし莫大な財産を手に入れていたというものである。三島はその事件の家族内に起った近親相姦について以下のように説明している。 貴族との間には一男一女があつた。どこまで計画的にやつたことかしれないが、夫人は息子が年ごろになると、将来彼を一切自分の意のままに使ふために、われとわが子の童貞を奪つた。息子はそれ以後心ならずも母の意のままに動かざるをえぬ自分に絶望して、今度はわが実の妹と関係したのである。 — 三島由紀夫「『熱帯樹』の成り立ち」 そして三島は、この事件を受けての創作動機(モチーフ)について以下のように解説している。 かういふことは、人間性からいつて当然起りうる事件ではあるが、実際に起ることはめつたにない。事件は、ギリシア劇の中では、かつてアイスキュロスの『オレステイア』三部作において、アガメムノン、クリュタイメストラ、オレステス、エレクトラ、の一家族の間に起つたのであつたが、それと同じことが現実に、現在ただ今のヨーロッパで起つたといふことは注目に値ひする。この事実はもはや、こんな事件のあらゆる場所あらゆる時における再現の可能性を実証するものだからだ。 — 三島由紀夫「『熱帯樹』の成り立ち」 また、『熱帯樹』で描かれる兄妹の愛について次のように解説している。 それはさうと、肉慾にまで高まつた兄妹愛といふものに、私は昔から、もつとも甘美なものを感じ続けて来た。これはおそらく、子供のころ読んだ千夜一夜譚の、第十一夜と第十二夜において語られる、あの墓穴の中で快楽を全うした兄と妹の恋人同士の話から受けた感動が、今日なほ私の心の中に消えずにゐるからにちがひない。 — 三島由紀夫「『熱帯樹』の成り立ち」
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